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'''長州藩'''(ちょうしゅうはん)は、[[江戸時代]]に[[周防国]]と[[長門国]]を領国とした[[外様大名]]・[[毛利氏|毛利家]]を藩主とする[[藩]]。家格は[[国主]]・[[家格#武家の家格|大広間]]詰。
 
==概要==
[[安芸国|安芸]][[広島]]を本拠に[[山陽道]]・[[山陰道]]の8か国を領有していた毛利家が[[関ヶ原の戦い]]に敗れ、防長二国に領地を削減されたことで成立。以来、250年以上にわたって藩庁を長門国[[阿武郡]][[萩市|萩]]の[[萩城]]に置いていたことから一般的に長州藩と呼ばれ、藩庁を周防国[[吉敷郡]][[山口市|山口]]の[[山口城]](山口政事堂)へ移した[[山口移鎮]]後も長州藩と呼ばれている。萩時代を'''萩藩'''(はぎはん)、山口時代を'''山口藩'''(やまぐちはん)とも呼んで区別する場合もある。[[明治]]初年から4年まで、[[府藩県三治制]]下では山口藩と称した<ref name="nipponchimeitaikei-1">『日本歴史地名体系 山口県の地名』平凡社出版</ref>。また毛利藩と呼ばれることもある<ref name="kotobank">{{cite web|url=https://kotobank.jp/word/%E9%95%B7%E5%B7%9E%E8%97%A9-852232|title=長州藩|work=[[日本大百科全書]]|publisher=[[コトバンク]]|accessdate=2015-12-06}}</ref>。
[[画像:Ichimonjimitsuboshi.png|thumb|right|120px|一文字に三つ星]]
[[安芸国|安芸]][[広島]]を本拠に[[山陽道]]・[[山陰道]]の8か国を領有していた毛利家が[[関ヶ原の戦い]]に敗れ、防長二国に領地を削減されたことで成立。以来、250年以上にわたって藩庁を長門国[[阿武郡]][[萩市|萩]]の[[萩城]]に置いていたことから一般的に長州藩と呼ばれ、藩庁を周防国[[吉敷郡]][[山口市|山口]]の[[山口城]](山口政事堂)へ移した[[山口移鎮]]後も長州藩と呼ばれている。
 
[[安芸国|安芸]][[広島]]を本拠に[[山陽道]]・[[山陰道]]の8か国を領有していた毛利家が[[関ヶ原の戦い]]に敗れ、防長二国に領地を削減されたことで成立。以来、250年以上にわたって藩庁を長門国[[阿武郡]][[萩市|萩]]の[[萩城]]に置いていたことから一般的に長州藩と呼ばれ、藩庁を周防国[[吉敷郡]][[山口市|山口]]の[[山口城]](山口政事堂)へ移した[[山口移鎮]]後も長州藩と呼ばれている。萩時代を'''萩藩'''(はぎはん)、山口時代を'''山口藩'''(やまぐちはん)とも呼んで区別する場合もある。[[明治]]初年から4年まで、[[府藩県三治制]]下では山口藩と称した<ref name="nipponchimeitaikei-1">『日本歴史地名体系 山口県の地名』平凡社出版</ref>。また毛利藩と呼ばれることもある<ref name="kotobank">{{cite web|url=https://kotobank.jp/word/%E9%95%B7%E5%B7%9E%E8%97%A9-852232|title=長州藩|work=[[日本大百科全書]]|publisher=[[コトバンク]]|accessdate=2015-12-06}}</ref>。
 
[[幕末]]には[[薩摩藩]]とともに[[倒幕運動|討幕運動]]の中心となり、[[明治維新]]の原動力となった。その中心人物として[[吉田松陰]]、[[高杉晋作]]が知られている。さらに討幕運動を経て[[日本国政府|明治政府]]に[[木戸孝允]]、[[大村益次郎]]、[[伊藤博文]]、[[井上馨]]、[[山縣有朋]]、[[品川弥二郎]]などの人材を多数輩出した<ref name="rekishihakken1849">[https://web.archive.org/web/20140805142334/http://rekishihakken.net/feature-castle/1849.html 萩城:幕末時は多くの志士を生み討幕への起爆剤となった長州藩萩城(指月城)](2014年8月5日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref><ref name="kotobank"/>。
 
== 歴史 ==
=== 中世から江戸安土桃山時代初期 ===
[[ファイルFile:Mori Motonarimotonari 2.jpgpng|thumb|200px|[[毛利元就]]]]
藩主の毛利家は、[[鎌倉幕府]]の重臣であった[[大江広元]]の四男・[[毛利季光]]を祖とする一族である<ref name="kotobank"/>。[[鎌倉時代]]に、[[越後国]]佐橋荘を領した[[毛利経光]](季光の子)は、四男の[[毛利時親|時親]]に[[安芸国]]吉田庄を分与し分家を立てた<ref>越後国佐橋荘は嫡男の[[毛利基親|基親]]が相続した。</ref>。
[[画像:Ichimonjimitsuboshi.png|thumb|right|120px|一文字に三つ星]]
 
藩主の毛利家は、[[鎌倉幕府]]の重臣であった[[大江広元]]の四男・[[毛利季光]]を祖とする一族<ref name="kotobank"/>。[[鎌倉時代]]に、[[越後国]]佐橋荘を領した[[毛利経光]](季光の子)は、四男の[[毛利時親|時親]]に[[安芸国]]吉田庄を分与し分家を立てた<ref>越後国佐橋荘は嫡男の[[毛利基親|基親]]が相続した。</ref>。時親の子・[[毛利貞親]]、孫の[[毛利親衡]]は越後に留まり安芸の所領は間接統治という形をとったが<ref>毛利貞親・親衡は越後の毛利領を拠点に南朝に味方し活動。</ref>、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]に時親の曽孫・[[毛利元春]]は安芸に下向し、吉田郡山城にて領地を直接統治<ref>吉田郡山城の築城者といわれる時親が曾孫の元春を後見した。</ref>するようになる。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に[[毛利元就]]が出ると一代にして[[国人|国人領主]]から[[戦国大名]]に脱皮、[[大内氏]]の所領の大部分と[[尼子氏]]の所領を併せ、最盛期には[[中国路]]10か国と[[九州北部]]の一部を領国に置く最大級の大名に成長した。
 
元就の孫の[[毛利輝元]]は[[豊臣秀吉]]に仕え、[[天正]]19年([[1591年]])[[3月 (旧暦)|3月]]、安芸・周防・長門・[[備中国|備中]]半国・[[備後国|備後]]・[[伯耆国|伯耆]]半国・[[出雲国|出雲]]・[[石見国|石見]]・[[隠岐国|隠岐]]の112万石を安堵([[石見銀山]]50万石相当、また以前の[[検地]]では厳密にこれを行っていなかったことを考慮すると実高は200万石超)され、本拠を[[吉田郡山城]]からより地の利の良い広島に移す。
 
輝元は秀吉の晩年には[[五大老]]の一人に推され、[[関ヶ原の戦い]]では西軍[[石田三成]]方の名目上の総大将として担ぎ出され[[大坂城]]西の丸に入ったが、主家を裏切り東軍に内通していた従弟の[[吉川広家]]により[[徳川家康]]に対して敵意がないことを確認、毛利家の所領は安泰との約束を家康の側近から得ていた。ところが戦後、家康は広家の弁解とは異なり、輝元が西軍に積極的に関与していた書状を大坂城で押収したことを根拠に、一転して輝元の戦争責任を問い、所領[[安堵]]の約束を反故にして毛利家を[[減封]]処分とし、輝元は隠居となし、嫡男の[[毛利秀就]]に周防・長門2か国29万8480石2斗3合<ref>慶長5年の検地による石高。慶長10年([[1605年]])の毛利家御前帳にも同様の石高が記載。</ref>を与えることとした。実質上の初代藩主は輝元であるが、形式上は秀就である。また、秀就は幼少のため、当初は輝元の従弟の[[毛利秀元]]と重臣の[[福原広俊]]・[[益田元祥]]らが藩政を取り仕切った。
 
ところが戦後、家康は広家の弁解とは異なり、輝元が西軍に積極的に関与していた書状を大坂城で押収したことを根拠に、一転して輝元の戦争責任を問い、所領[[安堵]]の約束を反故にして毛利家を[[減封]]処分とし、輝元は隠居となし、嫡男の[[毛利秀就]]に周防・長門2か国29万8480石2斗3合<ref>慶長5年の検地による石高。慶長10年([[1605年]])の毛利家御前帳にも同様の石高が記載。</ref>を与えることとした。
[[慶長]]12年([[1607年]])、領国を4分の1に減封された毛利氏は新たな検地に着手し、慶長15年([[1610年]])に検地を終えた。少しでも石高を上げるため、この検地は苛酷を極め、山代地方(現[[岩国市]][[錦町 (山口県)|錦町]]・[[本郷村 (山口県)|本郷町]])では[[山代慶長一揆|一揆]]も起きている。この検地では結果として53万9268石余を打ち出した。慶長18年([[1613年]])、この時[[江戸幕府]]に提出する御前帳が以後の毛利家の公称高となるため、慎重に幕閣と協議した。ところが、思いもよらぬ50万石を超える高石高に驚いた幕閣(取次役は[[本多正信]])は、敗軍たる西軍の総大将であった毛利家は50万石の分限ではないこと(特に東軍に功績のあった隣国の[[広島藩]]主・[[福島正則]]49万8000石とのつりあい)、毛利家にとっても高石高は高普請役負担を命じられる因となること、慶長10年御前帳の石高からの急増は理に合わないことを理由に、石高の7割である36万9411石3斗1升5合を表高として公認した。この表高は幕末まで変わることはなかったが、その後の新田開発などにより、実高(裏高)は[[寛永]]2年([[1625年]])には65万8299石3斗3升1合、[[貞享]]4年([[1687年]])には81万8487石余であった。[[宝暦]]13年([[1763年]])には新たに4万1608石を打ち出している。幕末期には100万石を超えていたと考えられている。
 
===江戸時代初期 ===
また、新しい居城地として防府・山口・萩の3か所を候補地として伺いを出したところ、これまた防府・山口は分限にあらずと萩に築城することを幕府に命じられた。萩は防府や山口と異なり、三方を山に囲まれ[[日本海]]に面し、隣藩の[[津和野城]]の出丸の遺構が横たわる鄙びた土地であった。
実質上の初代藩主は輝元であるが、形式上は秀就である。また、秀就は幼少のため、当初は輝元の従弟の[[毛利秀元]]と重臣の[[福原広俊]]・[[益田元祥]]らが藩政を取り仕切った。
 
また、新しい居城地として防府・山口・萩の3か所を候補地として幕府に伺いを出したところ、これまた防府・山口は分限にあらずと萩に築城することを幕府から命じられた。萩は防府や山口と異なり、三方を山に囲まれ[[日本海]]に面し、隣藩の[[津和野城]]の出丸の遺構が横たわる鄙びた土地であった。
上述のような経緯もあり、長州藩では倒幕が国是であるとの噂があった。巷説の一つに、新年拝賀の儀で家老が「今年は倒幕の機はいかに」と藩主に伺いを立て、藩主が「時期尚早」と答える習わしがあったとの俗話が知られる。[[昭和]]2年([[1927年]])、歴史学者の[[井野辺茂雄]]が『幕末史の研究』において、毛利家の家史編纂者である中原邦平から聞いた話として著作に紹介している。井野部の記述では、毎月元日<ref>[[原文ママ]]。『幕末史の研究』の記述においては、この儀式の後に「年賀の儀式に移る」とされている</ref>、諸藩士が登城する前に藩主が「もうよかろうか」と言い、近臣が「まだお早う御座います」と返すというものであったとしている<ref name="幕末史の研究">[[井野辺茂雄]]『幕末史の研究』([[雄山閣]]、1927年)283-284頁</ref>。ただしこれは古老による伝承であると断っており、「後世にはなかった」としている<ref name="幕末史の研究" />。この俗話について、[[平成]]12年([[2000年]])当時の毛利家当主・[[毛利元敬]]は「あれは俗説」と笑い、「明治維新の頃まではあったのではないか」という問いに「あったのかもしれないが、少なくとも自分が帝王学を勉強した時にはその話は出なかった」と答えている<ref>「関ヶ原四〇〇年の恩讐を越えて」『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』2000年10月号(毛利家71代当主毛利元敬、島津家32代当主島津修久、黒田家16代当主黒田長久、山内家18代当主山内豊秋、司会半藤一利)※毛利家では慣習上、天穂日命を初代として数えるため現当主は71代と公称している。</ref>。
 
[[慶長]]12年([[1607年]])、領国を4分の1に減封された毛利氏は新たな検地に着手し、慶長15年([[1610年]])に検地を終えた。少しでも石高を上げるため、この検地は苛酷を極め、山代地方(現[[岩国市]][[錦町 (山口県)|錦町]]・[[本郷村 (山口県)|本郷町]])では[[山代慶長一揆|一揆]]も起きている。この検地では結果として53万9268石余を打ち出した。
 
[[慶長]]12年([[1607年]])、領国を4分の1に減封された毛利氏は新たな検地に着手し、慶長15年([[1610年]])に検地を終えた。少しでも石高を上げるため、この検地は苛酷を極め、山代地方(現[[岩国市]][[錦町 (山口県)|錦町]]・[[本郷村 (山口県)|本郷町]])では[[山代慶長一揆|一揆]]も起きている。この検地では結果として53万9268石余を打ち出した。慶長18年([[1613年]])、この時[[江戸幕府]]に提出するこの時の御前帳が以後の毛利家の公称高となるため、慎重に幕閣と協議した。ところが、思いもよらぬ50万石を超える高石高に驚いた幕閣(取次役は[[本多正信]])は、敗軍たる西軍の総大将であった毛利家は50万石の分限ではないこと(特に東軍に功績のあった隣国の[[広島藩]]主・[[福島正則]]49万8000石とのつりあい)、毛利家にとっても高石高は高普請役負担を命じられる因となること、慶長10年御前帳の石高からの急増は理に合わないことを理由に、石高の7割である36万9411石3斗1升5合を表高として公認した。この表高は幕末まで変わることはなかったが、その後の新田開発などにより、実高(裏高)は[[寛永]]2年([[1625年]])には65万8299石3斗3升1合、[[貞享]]4年([[1687年]])には81万8487石余であった。[[宝暦]]13年([[1763年]])には新たに4万1608石を打ち出している。幕末期には100万石を超えていたと考えられている
 
この表高は幕末まで変わることはなかったが、その後の新田開発などにより、実高(裏高)は[[寛永]]2年([[1625年]])には65万8299石3斗3升1合、[[貞享]]4年([[1687年]])には81万8487石余であった。[[宝暦]]13年([[1763年]])には新たに4万1608石を打ち出している。幕末期には100万石を超えていたと考えられている。
 
=== 江戸時代中期 ===
[[ファイル:Statue of Mouri Shigetaka.JPG|thumb|[[毛利重就]]]]
江戸時代中期には、第7代藩主・[[毛利重就]]が、宝暦改革と呼ばれる藩債処理や新田開発などの経済政策を行う。
[[ファイル:長州藩2955.JPG|thumb|150px|長州藩邸跡、碑文は屋敷址、京都河原町御池東入ル]]
 
江戸時代中期には、第7代藩主・[[毛利重就]]が、宝暦改革と呼ばれる藩債処理や新田開発などの経済政策を行う。[[文政]]12年([[1829年]])には産物会所を設置し、村役人に対して特権を与えて流通統制を行う。[[天保]]3年([[1831年]])には、大規模な長州藩天保一揆が発生。その後の天保8年([[1836年]])[[4月27日 (旧暦)|4月27日]]には、後に「そうせい侯」と呼ばれた[[毛利敬親|毛利慶親]]が第13代藩主に就くと、[[村田清風]]を登用した[[天保の改革]]を行う。改革では相次ぐ外国船の来航や[[清|中国]]での[[アヘン戦争]]などの情報で海防強化も行う一方、藩庁公認の密貿易で巨万の富を得た。
[[文政]]12年([[1829年]])には産物会所を設置し、村役人に対して特権を与えて流通統制を行う。[[天保]]3年([[1831年]])には、大規模な長州藩天保一揆が発生。
 
江戸時代中期には、第7代藩主・[[毛利重就]]が、宝暦改革と呼ばれる藩債処理や新田開発などの経済政策を行う。[[文政]]12年([[1829年]])には産物会所を設置し、村役人に対して特権を与えて流通統制を行う。[[天保]]3年([[1831年]])には、大規模な長州藩天保一揆が発生。その後の天保8年([[1836年]])[[4月27日 (旧暦)|4月27日]]には、後に「そうせい侯」と呼ばれた[[毛利敬親|毛利慶親]]が第13代藩主に就くと、[[村田清風]]を登用した[[天保の改革]]を行う。改革では相次ぐ外国船の来航や[[清|中国]]での[[アヘン戦争]]などの情報で海防強化も行う一方、藩庁公認の密貿易で巨万の富を得た。
 
村田の失脚後は[[坪井九右衛門]]、[[椋梨藤太]]、[[周布政之助]]などが改革を引き継ぐが、坪井、椋梨と周布は対立し、藩内の特に下級士層に支持された周布が[[安政の改革]]を主導する。
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同年長州藩は攘夷親征の朝旨を実現するため、攘夷実行開始期日の1863年[[5月10日 (旧暦)|5月10日]]に下関海峡を通過する[[列強]]諸国の軍艦に砲撃を加えた。幕府の統治能力では攘夷運動を抑止できないと判断した[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]]、[[フランス第二帝政|フランス]]、[[オランダ]]の列強四か国は、攘夷運動の本拠地である長州藩に対して直接武力行使に出ることにし、4か国連合艦隊を下関に向かわせた。この事態に藩上層部は、[[ロンドン]]から急遽帰国した伊藤博文や井上馨らの制止も聞かず、列強諸国の賠償金支払い要求を拒否したため、[[元治]]元年([[1864年]])[[8月 (旧暦)|8月]]に[[下関戦争]]が発生した。列強諸国の圧倒的火力の前に長州藩の砲台は破壊されて降伏と賠償金支払いを余儀なくされた。この事件を契機として攘夷論は不可能であることが藩内で認識されるようになり、列国に接近して藩軍の装備を洋式化しつつ倒幕を目指す藩論が強まった<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%9B%9B%E5%9B%BD%E8%89%A6%E9%9A%8A%E4%B8%8B%E9%96%A2%E7%A0%B2%E6%92%83%E4%BA%8B%E4%BB%B6-73047 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 四国艦隊下関砲撃事件(コトバンク)]</ref>。またこの事件によって[[武士|武士階級]]の無力さが暴露される形となった。[[上海]]でアジア最大の大国である[[清|中国]]の[[非公式帝国|半植民地化]]を目の当たりにした藩士・[[高杉晋作]]は、安政期以降の長州藩軍制改革の成果に立って藩主の信認のもとに、1863年6月に身分に関わらず志があれば力量本位で参加できる軍隊・[[奇兵隊]]を創設した<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%A5%87%E5%85%B5%E9%9A%8A-51516 世界大百科事典 第2版 奇兵隊(コトバンク)]</ref>。
 
[[ファイル:Hamaguri rebellion.jpg|thumb|禁門の変]]
元治元年(1864年)の[[池田屋事件]]、[[禁門の変]]で打撃を受けた長州(山口)藩に対し、幕府は[[徳川慶勝]]を総督とした第一次[[長州征伐]]軍を送った。長州(山口)藩では椋梨ら幕府恭順派(俗論派)が実権を握り、周布や家老・[[益田親施]]らの主戦派は失脚して粛清され、藩主・慶親と世子・[[毛利元徳|毛利定広]]父子は謹慎し、幕府へ降伏した。その後、完成したばかりの山口城を一部破却して、慶親・定広父子は長州萩城へ退いた。また、藩主父子はそれぞれ徳川[[征夷大将軍|将軍]]から授かった諱を剥奪され、慶親は'''敬親'''、定広は'''広封'''へと改めた。(慶親は第12代将軍・[[徳川家慶]]から、定広は第13代将軍・[[徳川家定]]から授かった。)
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=== 明治時代初期 ===
慶応3年([[1867年]])[[10月 (旧暦)|10月]]、幕府の権威失墜が止まらない中、第15代将軍・[[徳川慶喜]]は大政奉還を行い、江戸幕府は崩壊した。大政奉還を受けて[[明治天皇]]より[[王政復古 (日本)|王政復古の大号令]]が発せられ、[[日本国政府|新政府]]が発足した。薩摩藩の[[大久保利通]]や西郷隆盛と共に長州藩の木戸孝允が参与(後に参議)として参加し、新政府の中枢の一人となった(高杉晋作は大政奉還直前に死去)。木戸は[[五箇条の御誓文]]の起草にあたり、また封建領主制度の改革の必要を大久保に進言し、この構想は[[明治]]2年([[1869年]])の[[版籍奉還]]に繋がった。明治4年([[1871年]])の[[廃藩置県]]でも主導的役割を果たしている<ref>[https://kotobank.jp/word/%E6%9C%A8%E6%88%B8%E5%AD%9D%E5%85%81-16197#E6.9C.9D.E6.97.A5.E6.97.A5.E6.9C.AC.E6.AD.B4.E5.8F.B2.E4.BA.BA.E7.89.A9.E4.BA.8B.E5.85.B8 朝日日本歴史人物事典 木戸孝允(コトバンク)]</ref>
[[ファイル:TobaFushimiBattle2.jpg|250px|thumb|[[鳥羽・伏見の戦い]]。左が桑名藩などの幕府軍、右が長州藩などの新政府軍。]]
[[ファイル:Flag_of_Choshu_domain.svg|100px|thumb|[[戊辰戦争]]での長州藩の旗</small><ref>中西立太「日本の軍装」、2006年</ref>。]]
慶応3年([[1867年]])[[10月 (旧暦)|10月]]、幕府の権威失墜が止まらない中、第15代将軍・[[徳川慶喜]]は大政奉還を行い、江戸幕府は崩壊した。
 
慶応3年([[1867年]])[[10月 (旧暦)|10月]]、幕府の権威失墜が止まらない中、第15代将軍・[[徳川慶喜]]は大政奉還を行い、江戸幕府は崩壊した。大政奉還を受けて[[明治天皇]]より[[王政復古 (日本)|王政復古の大号令]]が発せられ、[[日本国政府|新政府]]が発足した。薩摩藩の[[大久保利通]]や西郷隆盛と共に長州藩の木戸孝允が参与(後に参議)として参加し、新政府の中枢の一人となった(高杉晋作は大政奉還直前に死去)。木戸は[[五箇条の御誓文]]の起草にあたり、また封建領主制度の改革の必要を大久保に進言し、この構想は[[明治]]2年([[1869年]])の[[版籍奉還]]に繋がった。明治4年([[1871年]])の[[廃藩置県]]でも主導的役割を果たしている<ref>[https://kotobank.jp/word/%E6%9C%A8%E6%88%B8%E5%AD%9D%E5%85%81-16197#E6.9C.9D.E6.97.A5.E6.97.A5.E6.9C.AC.E6.AD.B4.E5.8F.B2.E4.BA.BA.E7.89.A9.E4.BA.8B.E5.85.B8 朝日日本歴史人物事典 木戸孝允(コトバンク)]</ref>
 
[[戊辰戦争]]では、藩士の大村益次郎が[[上野戦争]]などで活躍した<ref>[https://kotobank.jp/word/%E4%B8%8A%E9%87%8E%E6%88%A6%E4%BA%89-438704#E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.9E.97.20.E7.AC.AC.E4.B8.89.E7.89.88 大辞林 第三版 上野戦争(コトバンク)]</ref>。
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== 思想・文化 ==
上述のような経緯もあり、*長州藩では幕末以前においても、倒幕が国是であるとの噂が常にあった。巷説の一つに、新年拝賀の儀で家老が「今年は倒幕の機はいかに」と藩主に伺いを立て、藩主が「時期尚早」と答える習わしがあったとの俗話が知られる。[[昭和]]2年([[1927年]])、歴史学者の[[井野辺茂雄]]が『幕末史の研究』において、毛利家の家史編纂者である中原邦平から聞いた話として著作に紹介している。井野部の記述では、毎月元日<ref>[[原文ママ]]。『幕末史の研究』の記述においては、この儀式の後に「年賀の儀式に移る」とされている</ref>、諸藩士が登城する前に藩主が「もうよかろうか」と言い、近臣が「まだお早う御座います」と返すというものであったとしている<ref name="幕末史の研究">[[井野辺茂雄]]『幕末史の研究』([[雄山閣]]、1927年)283-284頁</ref>。ただしこれは古老による伝承であると断っており、「後世にはなかった」としている<ref name="幕末史の研究" />。この俗話について、[[平成]]12年([[2000年]])当時の毛利家当主・[[毛利元敬]]は「あれは俗説」と笑い、「明治維新の頃まではあったのではないか」という問いに「あったのかもしれないが、少なくとも自分が帝王学を勉強した時にはその話は出なかった」と答えている<ref>「関ヶ原四〇〇年の恩讐を越えて」『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』2000年10月号(毛利家71代当主毛利元敬、島津家32代当主島津修久、黒田家16代当主黒田長久、山内家18代当主山内豊秋、司会半藤一利)※毛利家では慣習上、天穂日命を初代として数えるため現当主は71代と公称している。</ref>。
* [[弘前藩]]重臣だった[[山鹿素水]]に[[吉田松陰]]ら多くの長州藩士が師事し<ref>[[山口県文書館]]には山鹿素水の漢詩を書いた掛け軸が収蔵されている{{cite web|author= |title= [[吉田松陰]]関係資料 > 山鹿素水詩文 |url= https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11F0/WJJS07U/3500115100/3500115100400010/mp201590 |others= WEB版明治維新資料室 |publisher= 山口県立山口図書館 |year= 1851|accessdate= 2021-07-14}}</ref>、明治維新で活躍した[[高杉晋作]]、[[久坂玄瑞]]、[[木戸孝允]]、[[山田顕義]]らの松陰門下生は、藩校・[[明倫館]]、[[松下村塾]]で山鹿流を習得している<ref>『山鹿素行兵法学の史的研究』(P184、P260-272)</ref>。弘前藩は「勤皇」を藩風とし奥羽越列藩同盟から早期に脱退、戦後に新政府より1万石を加増されている。
* 朝廷と[[天皇]]権威の回復を望む[[後西天皇|後西上皇]]・[[霊元天皇]]から高評価だった吉良義央<ref>義央は霊元天皇の御代の延宝4年(1676年)の年頭祝儀の上使の際には、後西上皇から直筆の「うつし植て 軒端の松の 千とせをも おなしこころの 友とち吉良む」という[[和歌]]を[[恩賜|下賜]]されている。</ref>には同情的であり(反対に義央は親幕府の近衛基熙とは不仲)、支藩の[[長府藩]]が赤穂浪士を厳しく扱ったのを容認している<ref>それ以外では、長州藩は長府藩の行動にしばしば内政干渉し(長府藩が[[朱印状]]を公儀から直接貰う事、提出する藩の絵図を萩本家と[[色相|色分け]]する事など)揉め事も発生している。</ref>。
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== 藩邸 ==
[[ファイル:長州藩2955.JPG|thumb|150px200px|長州藩邸跡、碑文は屋敷址、京都河原町御池東入ル]]
* [[江戸藩邸]]は日比谷御門外に上屋敷、中屋敷は青山に、下屋敷は鰻沢と[[渋谷]]にあった。その後[[桜田 (千代田区)|外桜田]]に中屋敷、[[麻布]]に下屋敷を移す。また[[京都]]藩邸は[[河原町通|河原町]]、[[大阪]]藩邸は田部屋橋に、[[伏見区|伏見]]藩邸は京橋、[[長崎市|長崎]]藩邸は新丁にあった。後に江戸幕府に没収される。
* 上屋敷は現在、[[日比谷公園]]の一部。左に上杉家([[米沢藩]])、右に伊達家([[仙台藩]])の上屋敷<ref>『毛利家文書』「江戸桜田上屋敷指図(寛政8年)」</ref>。『江戸図屏風』では伊達・上杉両家と比べ規模はほぼ同じだが、御成御殿や御成門<ref>[[慶長]]15年([[1610年]])に[[徳川秀忠|秀忠]]の上杉邸への御成りがあり、能や茶会などの饗応が行なわれている。(「国宝 上杉家文書」)</ref>もなく質素に描かれている。
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|5414
||0
| style="white-space:nowrap;" |[[毛利輝元]]<br />もうり<br/>てるもと
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||[[毛利隆元]] [[正室]]の子
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|5515||1||[[毛利秀就]]<br />&mdash; ひでなり||[[従四位下]]・[[長門国|長門守]]<br/>[[近衛府|右近衛権少将]]||家督相続||元和9 - [[慶安]]4||毛利輝元 [[側室]]の子
|-
|5616||2||[[毛利綱広]]<br />&mdash; つなひろ||従四位下・[[大膳職|大膳大夫]]、[[侍従]]||遺領相続||慶安4 - [[天和 (日本)|天和]]2||毛利秀就 正室の子
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|5717||3||[[毛利吉就]]<br />&mdash; よしなり||従四位下・長門守、侍従||家督相続||天和2 - [[元禄]]7||毛利綱広 正室の子
|-
|5818||4||[[毛利吉広]]<br />&mdash; よしひろ||従四位下・大膳大夫、侍従||遺領相続||元禄7 - [[宝永]]4||[[養子]]、毛利綱広 側室の子・吉就弟
|-
|5919||5||[[毛利吉元]]<br />&mdash; よしもと||従四位下・長門守、侍従||遺領相続||宝永4 - [[享保]]16||養子、長府藩主 [[毛利綱元]] [[長男]]
|-
|6020||6||[[毛利宗広]]<br />&mdash; むねひろ||従四位下・大膳大夫、侍従||遺領相続||享保16 - [[宝暦]]元||毛利吉元 正室の子
|-
|6121||7||[[毛利重就]]<br />&mdash; しげたか||従四位下・[[式部省|式部大輔]]、侍従||遺領相続||宝暦元 - [[天明]]2||養子、長府藩主・[[毛利匡広]]の十男
|-
|6222||8||[[毛利治親]]<br />&mdash; はるちか||従四位下・大膳大夫、侍従||家督相続||天明2 - [[寛政]]3||毛利重就 正室の子
|-
|6323||9||[[毛利斉房]]<br />&mdash; なりふさ||従四位下・大膳大夫、侍従||遺領相続||寛政3 - [[文化 (元号)|文化]]6||毛利治親 正室の子
|-
|6424||10||[[毛利斉熙]]<br />&mdash; なりひろ||従四位下・大膳大夫、侍従||遺領相続||文化6 - [[文政]]7||毛利治親 正室の子・斉房弟
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|6525||11||[[毛利斉元]]<br />&mdash; なりもと||[[従四位上]]・大膳大夫<br/>[[近衛府|左近衛権少将]]||家督相続||文政7 - [[天保]]7||養子、毛利斉元は[[毛利親著]]の六男で、<br/>毛利斉熙の[[婿養子]]。<br/>毛利親著は毛利重就の側室の子。[[毛利匡芳]]の同母弟。
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|6626||12||[[毛利斉広]]<br />&mdash; なりとう||従四位下・大膳大夫||&nbsp;||天保7年12月<br/> - 12月29日||養子、毛利斉熙 正室の子・次男
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|6727||13||[[毛利敬親]]<br />&mdash; たかちか||従四位下・大膳大夫||遺領相続||天保8年4月<br/> - [[明治]]2年1月||養子、毛利斉元 側室の子(長男)<br/>毛利斉広の娘婿<br/>明治2年1月 [[版籍奉還]]
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|6828||14||[[毛利元徳]]<br />&mdash; もとのり||[[従三位]]・[[参議]]||&nbsp;||明治2年1月<br/> - 明治4||養子、[[徳山藩]]主・[[毛利広鎮]]の十男
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