「楊応龍の乱」の版間の差分

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[[1599年]](万暦27年)、朝鮮情勢が解決に向かうと、明朝は[[遼東]][[巡撫]]へ転出していた李化龍を湖広川貴軍務総督兼四川巡撫として起用し、郭子章と共に播州の鎮圧に向かわせた。李化龍は、楊応龍の軍勢は14、5万はおり、対抗するためには四川・貴州・湖広の財源は不足しており、当年に戦費のための増税を実施した<ref name="okano1971"/>。
 
翌年の[[1600年]](万暦28年)に楊応龍が龍泉を占領すると、重慶に駐屯していた李化龍は8路より各3万の軍勢を率いて進撃を行ったが、この時の兵士は3割が官兵で7割が土兵であったという<ref name="okano1971"/>。これらの軍勢には朝鮮で戦った[[劉テイ (明)|劉綎]]や[[陳璘]]が動員され、その家丁には朝鮮で投降した日本兵(降倭)が鉄砲兵力として編入されており[[仏郎機砲]]などの火器と共に、弓矢にて武装していた楊応龍軍を圧倒した<ref name="kuba2002">久芳崇「16世紀末、日本式鉄砲の明朝への伝播--万暦朝鮮の役から播州楊応龍の乱へ」2002年</ref>。苗族は楊応龍と協働作戦をしていたが、明朝による包囲が狭められると共に離反していった。楊応龍は海龍にて包囲され、籠城戦となり翌年の[[1601年]](万暦29年)66月に愛妾2人と共に自殺し、楊応龍の乱は収束した<ref name="okano1971"/>。
 
== 出典 ==
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