「三宅重利」の版間の差分

修正
m (lk)
(修正)
のちに細川家を辞去し、父・明智秀満の元家臣であった天野源右衛門([[安田国継|安田国継(安田作兵衛)]]が改名)の縁により300石で唐津藩([[寺沢氏|寺沢家]])初代藩主の[[寺沢広高]]に仕えた。[[元和 (日本)|元和]]7年([[1621年]])には2代藩主[[寺沢堅高]]によって唐津藩の飛地であった[[天草]]を統括する富岡城の[[城代]]に取り立てられた(知行は計1万500石)。
 
元は[[キリシタン]]だったが[[棄教]]し、寛永14年([[1637年]])の[[島原の乱]]では富岡城代として[[天草四郎]]率いる[[一揆]]勢と戦った。しかし、[[本渡市|本渡]]での戦いに敗れて敗走し、のち自刃した。首は一揆勢によって獄門に処されたという。
 
妻は[[妻木範煕]]の娘で、子に[[三宅重元]](藤右衛門)、重信(吉田庄之助)、重豊(加右衛門)、重行(新兵衛)らがいる。