「ピエール・ロティ」の版間の差分

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小説「お菊さん」に関する補筆。同小説は日本との関係も深く、ロティの代表作でもあるので、新たなぺージの作成が望まれる。
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==日本との関係==
ロティは1885年と1900~1901年の二度長崎に約1ヶ月滞在、いたり来ゆる現地妻として本人女性のおカネさんと同棲した経験を元に小説『{{仮リンク|マダム・クリザンテーム|fr|Madame Chrysanthème (novel)}}』(お菊さん)を著す1885の来日時には[[鹿鳴館]]のパーティにも参加した。そのときの見聞を「江戸の舞踏会」(短編集『秋の日本』に収録)に綴っているが、この中でロティはダンスを踊る日本人を、「しとやかに伏せた睫毛の下で左右に動かしている、巴旦杏のようにつり上がった眼をした、大そうまるくて平べったい、小っぽけな顔」「個性的な独創がなく、ただ自動人形のように踊るだけ」と表現した。『お菊さん』は、西欧人が日本に対して抱くイメージに、一時期大きな影響を与え、[[小泉八雲|ラフカディオ・ハーン]]の来日に一役を演じたり、日本に憧れていた[[フィンセント・ファン・ゴッホ]]は専らこの作品から日本人の生活についての情報を得ていたという<ref name="yakata2">岡谷公二『ピエル・ロティの館』 作品社 2000年9月 p.116-117</ref>。『お菊さん』の冒頭にも日本人について「何と醜く、卑しく、また何とグロテスクなことだろう!」という一節があり、ロティは日本人に対して蔑視の念を抱いていたという評価もある。[[アンドレ・メサジェ]]が小説「お菊さん」を原作として[[お菊さん_(オペラ)]]を作曲、1893年にパリで初演された。
 
他の日本を題材とした作品『お梅が三度目の春』は1900~1901年に再来日した折の作品である。「お梅」はロティが1885年に来日した際に同棲したお菊さん(本名:カネ)の義母。
他の日本を題材とした作品に『[[お菊さん]]』『お梅が三度目の春』の小説を出している。『お菊さん』は、西欧人が日本に対して抱くイメージに、一時期大きな影響を与え、[[小泉八雲|ラフカディオ・ハーン]]の来日に一役を演じたり、日本に憧れていた[[フィンセント・ファン・ゴッホ]]は専らこの作品から日本人の生活についての情報を得ていたという<ref name="yakata2">岡谷公二『ピエル・ロティの館』 作品社 2000年9月 p.116-117</ref>。『お菊さん』の冒頭にも日本人について「何と醜く、卑しく、また何とグロテスクなことだろう!」という一節があり、ロティは日本人に対して蔑視の念を抱いていたという評価もある。『お梅が三度目の春』は再来日した折の作品である。
 
ロティは、1885年8月7日付けの、長崎から姪に当てた手紙の中で、「私は相変らず退屈している。この国に関心を持つため、できることはなんでもしているんだが、だめだ。なにもかも私をうんざりさせる」(『ピエル・ロティ未刊書簡集』)と述べていたり、『お菊さん』執筆中にある友人に送った手紙には「(中略)大金の入る仕事だ。小説はばかげたものになるだろう」と書いている。[[クロード・ファレール]]は、「(中略)ロティは、日本を少しも理解しようとはしなかった。彼は日本をただ眺めただけだ」(『ロティ』)という記述を残している。日本と日本文化に対し、ハーンや[[ヴェンセスラウ・デ・モラエス|モラエス]]のように真の愛情と情熱を持っていなかった<ref name="yakata2" />。