「漢字廃止論」の版間の差分

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前島は[[1869年]]([[明治]]2年)、[[集議院]]に「国文教育之儀ニ付建議」を提出し、これに「国文教育施行ノ方法」、「廃漢字私見書」をそえて[[教育制度]]について建議したが、それらは漢字を廃して平仮名を[[国字]]とするものであった。さらに[[1872年]](明治5年)には「学制御施行に先ち国字改良相成度卑見内申書」を[[岩倉具視|岩倉]][[右大臣]]と[[大木喬任|大木文部卿]]に提出した。一方で[[柳川春三]]は布告書を仮名で発布すべきことを建白した。しかし、いずれも受け入れられることはなかった。
 
1872年(明治5年)、[[学制]]施行に際して、一部で[[日本語]]の[[文字]]の複雑さ・不規則性が[[障害]]であるとみなされ、[[福澤諭吉]]は「文字之教([[文字之教端書]])」のなか漢字仮名交じりは不便であるが徐々に漢字を全て廃止して仮名を用いべき事も不便であると主張しいいみだりに難しい漢字を使わずとも用は足りると説いている。また[[清水卯三郎]]は平仮名専用説を唱えた。
 
[[1881年]](明治14年)秋、[[吉原重俊]]、[[高崎正風]]、[[有島武]]、[[西徳三郎]]その他が仮名使用運動を展開し、[[丸山作楽]]、[[近藤真琴]]、[[物集高見]]、[[大槻文彦]]その他がこれに加わり、翌1882年(明治15年)「かなのとも」、同年夏には[[肥田浜五郎]]、[[丹羽雄九郎]]、[[後藤牧太]]、[[小西信八]]、[[辻敬之]]その他が「いろはくわい」、また一方で[[波多野承五郎]]、[[本山彦一]]、[[渡辺治 (新聞経営者)|渡辺治]]、[[高橋義雄 (茶人)|高橋義雄]]、[[伊藤欽亮]]その他は「いろはぶんくわい」を設立した。かくして1882年頃には3団体が鼎立(ていりつ)し、同年5月、「かなのとも」から機関雑誌「かなのみちびき」が発行され、仮名主義の団体を糾合し、同年7月には「かなのくわい」が組織された。