「ギデオン・マンテル」の版間の差分

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この後、マンテルにとって辛い出来事が続く。1839年、妻メアリーは彼を見限って出て行った。同じ年、息子ウォルター ([[:en:Walter Mantell|Walter Mantell]]) は[[ニュージーランド]]へと移住してしまう<ref>後年、ウォルターはニュージーランドで採取された貴重な化石を父に送り届けることになる。</ref>。さらにマンテルの傷心を深くしたのは、[[1840年]]の娘ハンナ (Hannah) の死であった。
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Mantell suffered a terrible carriage accident on [[Clapham Common]], in 1841 and was left with a debilitating spinal injury. Despite being bent over with crippling deformity and in constant pain, he continued to work with fossilized reptiles and published a number of scientific books and papers, until his death. He moved to [[Pimlico]] in 1844 and began to take [[opium]], as a [[painkiller]], in 1845.
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[[1841年]]、クラハムコモンで彼はひどい馬車事故に遭い、[[脊椎]]を損傷し手足が[[麻痺]]するようになってしまう。それでも身体の麻痺と絶え間ない痛みに耐えつつ研究を続け、死の間際までいくつかの本と論文を発表した。[[1844年]]には[[ピムリコ]] ([[:en:Pimlico|Pimlico]]) に移ったが、そこで痛みを紛らわすために[[アヘン]]に手を出した。
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Mantell's surgery, on the south side of Clapham Common, is now a dental surgery.
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1852年、マンテルは急性[[アヘン中毒]]に陥り昏倒し、その日の午後に亡くなった。検死の結果、彼の脊椎は歪曲しており、事故後ずっと痛みに苦しんでいたことがわかった。彼のライバルであったリチャード・オーウェンはマンテルの脊椎の一部を取り出し、王立外科医科大学の棚に保存していたが、[[第二次世界大戦]]の[[ドイツ軍]]の爆撃によって行方不明となった。and
 
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