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{{otheruses|イギリスのミュージシャン|原題が ''Eric Clapton'' のアルバム|エリック・クラプトン・ソロ}}
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'''エリック・パトリック・クラプトン'''('''Eric Patrick Clapton''', [[大英帝国勲章|CBE]]、[[1945年]][[3月30日]] - )は、[[イングランド]]の[[音楽家|ミュージシャン]]、[[シンガーソングライター]]。これまでで最も重要で影響力のあるギタリストの1人とされる<ref name=AST>{{cite web|url=https://www.rollingstone.com/music/lists/100-greatest-artists-of-all-time-19691231/eric-clapton-19691231 |title=55 - Eric Clapton |work=[[Rolling Stone]] |access-date=11 November 2014 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20120718095057/http://www.rollingstone.com/music/lists/100-greatest-artists-of-all-time-19691231/eric-clapton-19691231 |archive-date=18 July 2012}}</ref>。クラプトンは[[ローリング・ストーン]]誌の「史上最高のギタリスト100人」で2位<ref name="RS"/>、[[ギブソン (楽器メーカー)|ギブソン]]の「史上最高のギタリストトップ50」で4位にランクされた<ref name="Gibson"/>。2009年には[[タイム (雑誌)|タイム]]誌の「エレクトリックギタープレーヤーベスト10」で5位に選ばれた<ref name="Tyrangiel-Time2009-08-14">{{cite magazine | last = Tyrangiel | first = Josh | title = The 10 Greatest Electric Guitar Players | date = 14 August 2009 | magazine = Time | url = http://content.time.com/time/photogallery/0,29307,1916544_1921860,00.html | access-date = 26 April 2011 | archive-url = https://web.archive.org/web/20130918082452/http://content.time.com/time/photogallery/0,29307,1916544_1921860,00.html | archive-date = 18 September 2013 | url-status = live }}</ref>。日本では[[ジェフ・ベック]]、[[ジミー・ペイジ]]と並ぶ3大ロック・ギタリストの一人とされている。
 
さまざまな地元のバンドで演奏した後、クラプトンは1963年に[[ヤードバーズ]]のギタリスト、[[トップ・トーパム]]に代わって加入した。ヤードバーズがブルースロックからラジオ向けのポップ指向を目指したことに不満を抱いたクラプトンは1965年に脱退、[[ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズ]]に加入した。1966年にメイオールを脱退、彼はドラマーの[[ジンジャー・ベイカー]]、ベーシストの[[ジャック・ブルース]]と[[スリーピース|パワートリオ]]の[[クリーム (バンド)|クリーム]]を結成、持続的なブルースの即興演奏と「芸術的でブルースベースのサイケデリックポップ」を演奏した<ref name="Rock Hall"/>。1968年11月にクリームが解散した後、彼はベイカー、[[スティーヴ・ウィンウッド]]、[[リック・グレッチ]]とブルースロックバンドの[[ブラインド・フェイス]]を結成、1枚のアルバムを発表し1度のツアーを行った。ブラインド・フェイスは1970年に解散し、クラプトンはソロキャリアに乗り出した。
'''エリック・パトリック・クラプトン'''({{Lang-en|Eric Patrick Clapton}}, [[大英帝国勲章|CBE]]、[[1945年]][[3月30日]] - )は、[[イングランド]]の[[音楽家|ミュージシャン]]、[[シンガーソングライター]]。「スローハンド」と呼ばれるギターの名手として知られ{{Sfn|Welch|2016|p=38}}、[[ソングライター|ソングライティング]]も優れ、世界的な支持と人気を持つ。日本では[[ジェフ・ベック]]、[[ジミー・ペイジ]]と並ぶ3大ロック・ギタリストの一人とされている。
 
ソロキャリアに加えて、クラプトンは[[デラニー&ボニー]]、[[デレク・アンド・ザ・ドミノス]]とも共演し、代表曲の1つである「[[いとしのレイラ]]」をレコーディングした。その後数十年にわたって多くのソロアルバムと曲を発表し、高い評価を得た。その中には、1974年にリリースした[[ボブ・マーリー]]のカバー「[[アイ・ショット・ザ・シェリフ]]」([[レゲエ]]が一般マーケットに受け入れられるきっかけとなった<ref>{{cite web|url=http://www.rockhall.com/inductees/eric-clapton|title=Inductee: Eric Clapton|publisher=Rockhall.com|access-date=22 September 2014|archive-url=https://web.archive.org/web/20141012231539/http://www.rockhall.com/inductees/eric-clapton/|archive-date=12 October 2014|url-status=live}}</ref>)、[[カントリー・ミュージック]]で満たされた『[[スローハンド]]』(1977)、ポップロックの『[[オーガスト (エリック・クラプトンのアルバム)|オーガスト]]』(1986)などが含まれる。息子コナーが1991年に事故死した後、クラプトンは悲しみを歌い上げた「[[ティアーズ・イン・ヘヴン]]」を『[[アンプラグド~アコースティック・クラプトン]]』で発表し、1996年にはリズム&ブルースのクロスオーバー、「[[チェンジ・ザ・ワールド (ワイノナ・ジャッドの曲)|チェンジ・ザ・ワールド]]」でトップ40のヒットを記録した。1998年には「[[マイ・ファーザーズ・アイズ]]」を発表し、グラミー賞を受賞する。1999年以来、彼は伝統的なブルースとブルースロックのアルバムを録音し、定期的に[[クロスロード・ギター・フェスティバル]]を主催してきた。最新のアルバムは2018年の『[[ハッピー・クリスマス (エリック・クラプトンのアルバム)|ハッピー・クリスマス]]』である。
『[[ロックの殿堂]]』を3度(ヤードバーズ、クリーム、ソロ)受賞。2015年『[[ブルースの殿堂]]』入り。[[ローリング・ストーン]]誌選出「最も偉大な100人のギタリスト」で[[ジミ・ヘンドリックス]]に次ぐ第2位<ref>{{Cite web |title=100 Greatest Guitarists: Eric Clapton |url=http://www.rollingstone.com/music/lists/100-greatest-guitarists-20111123/eric-clapton-20111122 |publisher=[[ローリング・ストーン|Rolling Stone]] |date=2011-11-23 |accessdate=2020-11-27 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121021001507/http://www.rollingstone.com/music/lists/100-greatest-guitarists-20111123/eric-clapton-20111122 |archivedate=2012-10-21 }}</ref>。
 
クラプトンは[[グラミー賞]]を18回受賞し、[[ブリット・アワード]]功労賞も受賞している<ref>{{cite web|url=https://www.allmusic.com/artist/eric-clapton-p64692/charts-awards/grammy-awards|title=Eric Clapton, All Music: Grammy Awards|publisher=AllMusic|access-date=22 September 2014}}</ref><ref name=Brits/>。2004年に彼は音楽への貢献で、[[バッキンガム宮殿]]で[[大英帝国勲章]]を授与された<ref>{{cite news|url=https://www.telegraph.co.uk/news/uknews/1475787/Ex-rebel-Clapton-receives-his-CBE.html|title=Ex-rebel Clapton receives his CBE|date=4 November 2004|work=The Daily Telegraph|access-date=22 September 2014|location=London|archive-url=https://web.archive.org/web/20141205052136/http://www.telegraph.co.uk/news/uknews/1475787/Ex-rebel-Clapton-receives-his-CBE.html|archive-date=5 December 2014|url-status=live}}</ref>。彼は英国作曲家賞、作曲家賞、作曲家賞、生涯功労賞を含む4つの[[アイヴァー・ノヴェロ賞]]を受賞している。また、彼はソロアーティスト、ヤードバーズ、クリームと3度[[ロックの殿堂]]入りした唯一のアーティストである。
== 概要 ==
1960年代から[[ヤードバーズ]]、[[クリーム (バンド)|クリーム]]などのバンドでギタリストとして活動。その演奏について、エリック・クラプトンは神だとロンドン市内に落書きされた。「'''[[スローハンド (アルバム)|スローハンド]]'''<ref group="注">音数が多い場合でもチョーキング(ベンド)を多用する為指の動きが遅いように見える、こだわるのでチューニング(弦の張り替え)が遅い、の2つの理由から。</ref>」という[[ニックネーム]]で知られる{{Refnest|group="注"|このニックネームの由来については、[[ヤードバーズ]]時代の[[マネージャー]]、バンドのメンバーであった[[クリス・ドレヤ]]、そして本人が複数の説を語っている
<ref>{{Cite web |title=Slowhand: How did Eric get his nickname? |url=http://www.whereseric.com/ecfaq/biography-ecs-life-career/slowhand-nickname.html |website=Eric Clapton Portal |date=2005-08-26 |accessdate=2020-11-27 |deadlinkdate=2020-11 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20061110092238/http://www.whereseric.com/ecfaq/biography-ecs-life-career/slowhand-nickname.html |archivedate=2006-11-10 }}</ref>。}}。
 
クラプトンはソロアーティストとして世界中で2億8000万枚以上のレコードを売り上げ、史上最も売れたミュージシャンの1人となった<ref>{{cite news|url=https://www.zdf.de/eric-clapton-slowhand-112.html|title=Eric Clapton - Von Fans und Musikern verehrt - (5/7)|language=de|publisher=[[ZDF|Zweites Deutsches Fernsehen]]|access-date=16 August 2021|archive-url=https://web.archive.org/web/20201214184047/https://www.zdf.de/eric-clapton-slowhand-112.html|archive-date=14 December 2020|url-status=dead}}</ref>。かつて[[アルコール依存症]]及び[[薬物依存症|麻薬中毒]]の治療を受けたクラプトンは1998年、薬物乱用者の治療を目的とする医療施設、[[クロスロード・センター]]を[[アンティグア島]]に設立した<ref name=":1">{{cite web|url=https://www.rollingstone.com/music/artists/eric-clapton/biography|title=Eric Clapton Biography|last=Kemp|first=Mark|year=2001|work=Rolling Stone|access-date=23 October 2011|archive-url=https://web.archive.org/web/20110919145624/http://www.rollingstone.com/music/artists/eric-clapton/biography|archive-date=19 September 2011|url-status=live}}</ref>。
[[1970年代]]には[[薬物依存症]]、[[1980年代]]には[[アルコール依存症]]・[[交通事故]]・[[胃潰瘍]]を経験。妻[[パティ・ボイド]](親友[[ジョージ・ハリスン]]の前妻)と結婚していたが、イボンヌ・ケリーと一年に渡って関係を持ち、1985年の1月に娘のルースを出産<ref group="注">クラプトンとケリーは娘の誕生について一切公表しておらず、<!-- さらに-->ボイドは1991年までルースの存在を知らなかった</ref>。1986年には[[イタリア]]人女優[[ローリ・デル・サント]]との間に息子をもうけ、1988年にパティとは離婚が成立した。しかし1991年3月に息子コナー(4歳)が[[ニューヨーク]]の高層マンション53階の[[窓]]から転落死する。波乱万丈の人生を送りながらも、大規模なワールドツアーやアルバム制作などで創作活動を続けている。
=== デビューからヤードバーズ脱退まで ===
クラプトンのキャリアは、ルースターズから始まる。クラプトンは[[1963年]]1月から8月まで在籍。その後、ケイシー・ジョーンズ・アンド・ジ・エンジニアズに参加。ほどなく[[ロンドン]]でも注目を集めていたバンド、[[ヤードバーズ]]に迎えられる。1963年の秋である。ヤードバーズでのプレイが認められ、その存在が注目されるようになったが、バンドは[[ポップ・ミュージック|ポップ]]路線を志向するようになり、クラプトンは他のメンバーと意見が対立。[[1965年]]にバンドを去ることになる。その後、[[ジェフ・ベック]]、[[ジミー・ペイジ]]が相次いで「ヤードバーズ」に参加する。
 
==生い立ち==
=== ブルースブレイカーズ ===
クラプトンは1945年3月30日に[[イングランド]][[サリー州]][[リプリー (サリー)|リプリー]]で、16歳のパトリシア・モリー・クラプトン(1929年1月7日-1999年3月)と25歳のエドワード・ウォルター・フライヤー(1920年3月21日-1985年5月15日)の間に生まれた。父親のフライヤーは[[ケベック州]][[モントリオール]]出身の軍人で<ref>Harry Shapiro (1992) ''Eric Clapton: Lost in the Blues'' pg. 29. Guinness, 1992</ref>、クラプトンが生まれる前に出征し、その後[[カナダ]]に帰国した。クラプトンは祖母のローズとその2番目の夫であるジャック・クラップ(パトリシアの継父)を両親として育った。彼は母親のパトリシアを年の離れた姉と信じていた。姓が類似していたことで、クラプトンの本名はクラップであるという誤った説が流布した。(レジナルド・セシル・クラプトンがローズの最初の夫で、クラプトンというのは母方の祖父の姓であった。<ref>{{cite web|url=http://today.msnbc.msn.com/id/21196319/ns/today-books/|title=Ladies and gentlemen, Eric Clapton|work=TODAY.com|access-date=22 September 2014|archive-url=https://web.archive.org/web/20121003191356/http://today.msnbc.msn.com/id/21196319/ns/today-books/|archive-date=3 October 2012|url-status=dead}}</ref>)数年後、母親のパトリシアは別のカナダ人兵士と結婚して[[ドイツ]]に移り住み<ref name=CND>{{cite book|author=Vinita|title=Profiles in Popular Music|url=https://books.google.com/books?id=obs89cWwqZoC&pg=PA71|year=2005|publisher=Sura Books|isbn=978-81-7478-638-8|page=71}}</ref>、幼いエリックを祖父母と一緒にサリーに残した<ref name=GUI/>。
ヤードバーズ脱退後、[[ジョン・メイオール|ジョン・メイオール・ブルースブレイカーズ]]に参加。[[オーティス・ラッシュ]]、[[フレディ・キング]]らの曲を盛んに演奏した。彼らの楽曲はその後のクラプトンのキャリアにおいても度々取り上げられた他、本人たちとの共演も行っている。この頃、ロンドンの街中に“'''CLAPTON IS GOD'''”の落書きが現れ、「ギターの神」と呼ばれるようになった<ref>{{cite web| title = Gibson Eric Clapton 1960 Les Paul | work = Gibson.com| publisher = Gibson| url = http://www2.gibson.com/Products/Electric-Guitars/Les-Paul/Gibson-Custom/Eric-Clapton-1960-Les-Paul.aspx|accessdate=2014-12-30}}</ref>。
 
クラプトンは13歳の誕生日にドイツ製の[[ホイヤー・ギター|ホイヤー]]のアコースティックギターを貰ったが、安価なスチール弦のホイヤーは演奏が難しく、一時的に興味を失った<ref name=GUI>Bob Gulla (2008) [https://books.google.com/books?id=DL3I9qQWdeAC&pg=PA40&dq=eric+clapton+hoyer&ct=result&resnum=4#v=onepage&q=eric%20clapton%20hoyer Guitar Gods: The 25 Players Who Made Rock History] pgs. 40-41. Retrieved 29 December 2010</ref>。2年後に再び取り出し、集中して練習を始めた<ref name=GUI/>。クラプトンは幼い頃からブルースの影響を受けており、レコードに合わせて演奏し、ブルースのコードを学ぶために長時間練習した<ref name=clap/>。彼は[[グルンディッヒ]]製のテープレコーダーで演奏を録音し、正しく理解できるまで何度も繰り返して聴いていた<ref name=clap>Clapton, Eric (2007) ''Eric Clapton: The Autobiography'', pg. 22. Century, 2007</ref><ref name=thomp/>。
=== クリーム〜ブラインド・フェイス時代 ===
その後、[[ジャック・ブルース]]や[[ジンジャー・ベイカー]]らと「[[クリーム (バンド)|クリーム]]」を結成<ref>[http://www.tapthepop.net/day/47784 クリームの誕生と解散〜ロック史に新たな潮流を生み出したトリオバンドの強烈なグルーヴと不協和音〜] - TAP the POP</ref>。メンバーの[[即興演奏]]を中心としたジャム・セッションや実験的な音楽を追求。しかし、メンバーの人間関係の悪化により、バンドは空中分解する形で解散。その直後、[[スティーヴ・ウィンウッド]]や先のベイカーらと[[ブラインド・フェイス]]を結成し、1枚のアルバムを残して解散した。
 
1961年、[[サービトン]]の[[:w:en:Hollyfield School|ホリーフィールド・スクール]]を卒業した後、クラプトンは[[キングストン大学|キングストン美術学校]]で学んたが、美術よりも音楽に重点を置いていたため、学年の終わりに放校となった。彼のギターテクニックは卓越しており、16歳までに注目を集めるようになった<ref name=thomp/>。この頃、クラプトンは[[キングストン・アポン・テムズ|キングストン]]、[[リッチモンド (ロンドン)|リッチモンド]]、そして[[ウエスト・エンド (ロンドン)|ウエスト・エンド]]の周りで[[大道芸|ストリートパフォーマンス]]を始めた<ref>Welch, Chris (1994) [http://www.cream2005.com/theband_ericclapton.lasso Extract] {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20120918215814/http://www.cream2005.com/theband_ericclapton.lasso |date=18 September 2012 }}</ref>。
<gallery widths="180px" heights="130px">
File:Cream Clapton Bruce Baker 1960s.jpg|クリーム - 左から、ベイカー、ブルース、クラプトン(1966年)
File:Blind Faith (1969).jpg|ブラインド・フェイス - 右クラプトン(1969年)
File:Derek and the Dominos.png|デレク・アンド・ザ・ドミノス - 右クラプトン(1971年)
</gallery>
 
1962年、クラプトンはブルース好きの[[デヴィッド・ブロック]]とデュオを組み、サリー周辺のパブで演奏を始めた<ref name=thomp>{{cite book |last=Thompson |first=Dave |date=2006 |title=Cream: How Eric Clapton Took the World by Storm |location=London |publisher=Virgin Books |pages=31-32 |author-link=Dave Thompson (author)}}</ref>。その後クラプトンはR&Bグループのルースターズに加入した。ルースターズの他のギタリストは[[トム・マクギネス]]であった。彼は1963年1月から8月までこのバンドで活動した<ref name=":1" />。10月には[[ブライアン・カッサー|ケーシー・ジョーンズ&エンジニアズ]]と7度の[[ギグ]]を行った<ref name=":1" />。
=== 「レイラ」の発表とソロ活動の開始 ===
クラプトンは新天地を求めて[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に渡り、アメリカ南部のミュージシャンと[[デレク・アンド・ザ・ドミノス]]を結成。[[デュアン・オールマン]]をゲストに迎えて「レイラ」を録音した。
 
== 音楽経歴 ==
その後もクラプトンは様々なセッションにギタリストとして参加する。その一方で本格的なソロ活動もスタートした。[[1974年]][[9月14日]]付のシングルチャートでは[[ボブ・マーリー]]のカバー曲である、「アイ・ショット・ザ・シェリフ」 (''I Shot The Sheriff'') でナンバー1を獲得している<ref group="注">現在の所、クラプトンの[[シングル]]第1位は、この1曲のみとなっている</ref>。
=== ヤードバーズとブルースブレイカーズ ===
{{Main|ヤードバーズ|ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズ}}
1963年10月、クラプトンはブルースの影響を受けた[[ロックンロール]]バンドである[[ヤードバーズ]]に参加し、1965年3月まで共に活動した。[[シカゴ・ブルース]]と、[[バディ・ガイ]]、[[フレディ・キング]]、[[B.B.キング]]などの主要なブルースギタリストの影響を統合したクラプトンは、独特のスタイルを作り上げ、急速にイギリスの音楽シーンで最も話題のギタリストの1人になった<ref name="unuhsh">Romanowski, Patricia (2003)</ref>。バンドは最初に[[チェス・レコード|チェス]]/[[チェッカー・レコード|チェッカー]]/[[ヴィージェイ・レコード|ヴィージェイ]]のブルースナンバーを演奏し、[[リッチモンド (ロンドン)|リッチモンド]]の[[クロウダディ・クラブ]]で[[ローリング・ストーンズ]]の後釜として出演するようになると、大勢の熱狂的なファンを魅了し始めた。彼らはアメリカのブルースマン、[[サニー・ボーイ・ウィリアムソンII]]と一緒にイギリスツアーを行った。1963年12月に録音されたライブアルバムは1965年にリリースされた。
 
[[File:Royal Albert Hall.001 - London.JPG|thumb|upright=0.95|1964年に[[ロンドン]]の[[ロイヤル・アルバート・ホール]]で初めて出演したクラプトンは、それ以来、200回以上同会場で演奏してきた<ref name="Royal Albert Hall">{{cite news|title=Exclusive pictures: Eric Clapton hits 200 Royal Albert Hall shows|url=http://www.royalalberthall.com/about-the-hall/news/2015/may/exclusive-pictures-eric-clapton-hits-200-royal-albert-hall-shows/|issue=24 May 2015|publisher=Royal Albert Hall.com|date=12 July 2015|access-date=12 July 2015|archive-url=https://web.archive.org/web/20150909172857/http://www.royalalberthall.com/about-the-hall/news/2015/may/exclusive-pictures-eric-clapton-hits-200-royal-albert-hall-shows/|archive-date=9 September 2015|url-status=dead}}</ref>。]]
<gallery widths="180px" heights="130px">
ヤードバーズのリズムギタリスト、[[クリス・ドレヤ]]は、クラプトンがコンサート中にギターの弦を切ったときはいつでも、ステージにとどまって交換していたことを思い出す。イギリスの聴衆はいわゆる「スロー・ハンドクラップ(遅い手拍子)」をすることによってコンサートの中断を待っていた。クラプトンのニックネーム「スローハンド」は、[[ジョルジオ・ゴメルスキー]]が言った、クラプトンが弦の交換のために演奏を停止しているときに続いた観客の遅い手拍子の駄洒落に由来する<ref>{{cite book|last1=Welch|first1=Chris|title=Clapton|publisher=Voyageur Press|page=38}}</ref>。1964年12月、クラプトンはヤードバーズと共にロンドンの[[ロイヤル・アルバート・ホール]]に初登場した<ref name="Royal Albert Hall"/>。それ以来、クラプトンは同ホールで200回以上演奏し、会場での演奏は「僕の居間で演奏する」ようなものだと述べている<ref>{{cite web|url=https://www.rollingstone.com/music/news/eric-clapton-starts-royal-albert-hall-run-with-classics-and-covers-20090518|title=Eric Clapton Starts Royal Albert Hall Run With Classics and Covers|work=Rolling Stone|date=18 May 2009|access-date=22 September 2014|archive-url=https://web.archive.org/web/20180109235404/https://www.rollingstone.com/music/news/eric-clapton-starts-royal-albert-hall-run-with-classics-and-covers-20090518#ixzz2HFkFECoM|archive-date=9 January 2018|url-status=live}}</ref><ref>{{cite web|url=http://life.royalalberthall.com/2012/09/eric-clapton-celebrates-50-years-as-a-professional-musician/ |title=Eric Clapton celebrates 50 years as a professional musician |publisher=Life.royalalberthall.com |access-date=22 September 2014 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20131010062802/http://life.royalalberthall.com/2012/09/eric-clapton-celebrates-50-years-as-a-professional-musician/ |archive-date=10 October 2013 }}</ref>。
File:Eric "slowhand" Clapton.jpg|(1974年)
File:Clapton and Elliman.jpg|イヴォンヌ・エリマン&クラプトン(1975年)
File:Eric Clapton 1983.jpg|(1983年)
File:TinaTurner&Clapton.jpg|ティナ・ターナー&クラプトン(1987年)
</gallery>
 
1965年3月、ヤードバーズはソングライターの[[グレアム・グールドマン]]が書いた最初の大ヒット曲「[[フォー・ユア・ラヴ]]」を発表した。グールドマンは、[[ハーマンズ・ハーミッツ]]や[[ホリーズ]]のヒット曲も作曲しており、後に[[10cc]]のメンバーとして成功を収めた。ヤードバーズは「フォー・ユア・ラヴ」の成功もあって、ポップ志向のサウンドに移行することを選択した。これは、商業的な成功ではなくブルースに専念していたクラプトンの苛立ちに大きく影響することとなる。彼は「フォー・ユア・ラヴ」がリリースされた日にヤードバーズを脱退した。バンドは最も熟練したメンバーを失うこととなった。クラプトンは自分の代わりとして[[ジミー・ペイジ]]を提案したが、ペイジはこの推薦を断り<ref>{{cite web |url=http://www.iem.ac.ru/zeppelin/docs/interviews/page_77.trp |title=Trouser Press : Jimmy Page interview transcript |publisher=Iem.ac.ru |access-date=17 April 2014 |archive-url=https://www.webcitation.org/61GoJ7OdH?url=http://www.iem.ac.ru/zeppelin/docs/interviews/page_77.trp |archive-date=28 August 2011 |url-status=live }}</ref>、[[ジェフ・ベック]]を推薦した<ref name="unuhsh"/>。ペイジは後にヤードバーズに加わり、ベックとしばらくの間一緒に活動したが、ベック、ペイジ、クラプトンは一緒にグループで活動することは無かった。彼らが初めて共にステージに上がったのは1983年にロイヤル・アルバート・ホールで行われたARMS(Action into Research for Multiple Sclerosis:[[多発性硬化症]]の研究を促す行動)チャリティーコンサートでのことであった<ref>{{cite magazine|url=https://www.rollingstone.com/rockdaily/index.php/2009/01/16/jeff-beck-opens-up-about-rock-and-roll-hall-of-fame-gigs-with-clapton-jeff-beck-group-reunion-prospects/|title=Jeff Beck Opens Up About Rock and Roll Hall of Fame Gigs with Clapton Jeff Beck Group Reunion Prospects|magazine=[[Rolling Stone]]|date=16 January 2017|access-date=5 December 2017|archive-url=https://web.archive.org/web/20090719164046/http://www.rollingstone.com/rockdaily/index.php/2009/01/16/jeff-beck-opens-up-about-rock-and-roll-hall-of-fame-gigs-with-clapton-jeff-beck-group-reunion-prospects/|archive-date=19 July 2009|url-status=dead}}</ref>。クラプトンは1965年4月に[[ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズ]]に加入したが、数か月後に脱退した。6月、クラプトンはペイジと共にジャムに招待され、多くの曲を録音した。後にそれは[[:w:en:All-Stars (band)|ザ・イミディエイト・オールスターズ]]のクレジットでリリースされた。1965年の夏、彼は旧友のベン・パーマーを含むグランドと呼ばれるバンドと共にギリシャでのツアーに向かった。ギリシャのバンド、ザ・ジュニアーズは悲劇的な自動車事故でベーシストのサーノス・ソウジオウルが死亡し、ギタリストのアレコス・カラカンタスが負傷したが、生き残ったメンバーは1965年10月17日にクラプトンと共に記念のショーを開催した<ref>{{Cite web|url=https://www.mixanitouxronou.com.cy/stiles/rok-istories/to-kalokeri-pou-o-erik-klapton-epexe-rok-stin-athina-itan-apentaros-ke-antikatestise-ton-kitharista-sto-elliniko-sigkrotima-juniors-to-sigkrotima-iche-apodekatisti-prin-apo-liges-meres-se-ena-t/|title = Το καλοκαίρι που ο Έρικ Κλάπτον έπαιξε ροκ στην Αθήνα. Ήταν απένταρος και αντικατέστησε τον κιθαρίστα στο ελληνικό συγκρότημα "Juniors". Το συγκρότημα είχε αποδεκατιστεί πριν από λίγες μέρες σε ένα τρομερό τροχαίο (βίντεο)|date = 30 March 2015}}</ref>。クラプトンは10月にブルースブレイカーズに再加入した。1966年3月、ブルースブレイカーズのメンバーである間にクラプトンは[[ジャック・ブルース]]や[[スティーヴ・ウィンウッド]]とサイドプロジェクトで協力し、[[エリック・クラプトン・アンド・ザ・パワーハウス]]の名前で何曲か録音した。2度目のブルースプレイカーズでの活動期間中、クラプトンはクラブサーキットで最高のブルースギタリストとしての評判を得た。アルバム『[[ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズ・ウィズ・エリック・クラプトン]]』での演奏でクラプトンは世界的に有名になったが、このアルバムは彼が1966年7月にバンドを離れるまでリリースされなかった。
=== ジョージ・ハリスンとの共演 ===
[[1991年]]、[[ジョージ・ハリスン]]のサポートとして自分のバンドを引き連れて日本だけのツアーを敢行。コンサートの中ほどで(ジョージの休憩を兼ねて)自らの楽曲を演奏するコーナーもあった。ジョージからは世界ツアーの提案もなされたが、亡くなった自分の息子に捧げる楽曲の録音のため、クラプトンはこれを断った(ジョージは、これが最後のツアーとなった)。この時に録音されたのが「[[ティアーズ・イン・ヘヴン]]」 (''Tears In Heaven'') である。この曲は[[1992年]]に全米シングルチャート第2位を記録し、[[1993年]]には年間最優秀曲に選ばれ、この歌が収録されたアルバムも最優秀アルバム賞を獲得。
 
[[フェンダー・テレキャスター]]と[[:w:en:Vox AC30|Vox AC30]]アンプを1960年の[[ギブソン・レスポール]]・スタンダードと[[マーシャル (アンプ)|マーシャルアンプ]]に交換したクラプトンのサウンドと演奏は、有名なスローガン「[[:w:en:Clapton is God|Clapton is God]]」に大きな影響を与えた。それは1967年に[[イズリントン区]]の壁にスプレーで書かれた物で<ref>{{cite news| first= Neil| last= McCormick| title= Just how good is Eric Clapton?| date= 24 July 2015| work= The Telegraph| location= London| url= https://www.telegraph.co.uk/culture/music/rockandpopfeatures/11501274/Just-how-good-is-Eric-Clapton.html| access-date= 3 April 2018| archive-url= https://web.archive.org/web/20171124071909/http://www.telegraph.co.uk/culture/music/rockandpopfeatures/11501274/Just-how-good-is-Eric-Clapton.html| archive-date= 24 November 2017| url-status= live}}</ref>、その落書きの下で犬が壁に排尿している有名な写真で記録される。クラプトンはそのスローガンに対して恥ずかしいという気持ちを表し、1987年の[[:w:en:The South Bank Show|サウスバンクショー]]のプロフィールで、「僕は自分が世界で最も偉大なギター奏者であることを決して受け入れなかった。僕は常に世界で最も偉大なギタープレーヤーになりたいと思っていたけど、それは理想であり、理想として受け入れている。<ref>Clapton Documentary (1987). ''South Bank Show''. ITV.</ref>」と語っている。
[[1996年]]、映画『[[フェノミナン]]』にカバー曲、「[[チェンジ・ザ・ワールド (ワイノナ・ジャッドの曲)|チェンジ・ザ・ワールド]]」を提供している(元々はカントリー・シンガーの[[ワイノナ・ジャッド]]が歌っている)。この曲でクラプトンは[[グラミー賞]]のソング・オブ・ザ・イヤーを獲得している。プロデューサーは[[ベイビーフェイス (音楽)|ベイビーフェイス]]。
 
===クリーム===
[[1998年]]にはB.B.キングらとともに[[アメリカ合衆国の映画|アメリカ映画]]『[[ブルース・ブラザース2000]]』に出演した。[[1999年]]には、かねてから自身の所有するドラッグ更生診療所「クロスロードセンター」への資金捻出のために所有するギター104本を[[ニューヨーク]]の[[クリスティーズ]]のオークションに出品した。その中には「いとしのレイラ」をレコーディングしたストラトキャスター「[[ブラウニー (ギター)|ブラウニー]]」が含まれていた。
{{Main|クリーム (バンド)}}
[[File:Cream Clapton Bruce Baker 1960s.jpg|thumb|クリーム - 左から、ベイカー、ブルース、クラプトン(1966年)]]
クラプトンは1966年7月にブルースブレイカーズを去り([[ピーター・グリーン (ミュージシャン)|ピーター・グリーン]]が代わりに加入した。)、ドラマーの[[ジンジャー・ベイカー]]に誘われて、ベースの[[ジャック・ブルース]](ブルースはかつてブルースブレイカーズ、[[グラハム・ボンド]]・オーガニゼーション、[[マンフレッド・マン]]に所属していた。<ref>{{Pop Chronicles|53}}</ref>)と共にクリームを結成した。クリームは初期の[[スーパーグループ]]の一つであった。クラプトンはクリームを結成する以前は、アメリカでは余り知られていなかった。彼は「フォー・ユア・ラブ」がアメリカのトップ10入りする前にヤードバーズを去り、アメリカではショーに出演したことが無かった<ref>{{cite web|last=Unterberger |first=Richie |url={{AllMusic|class=artist|id=p3983|pure_url=yes}} |title=Cream |publisher=AllMusic |access-date=22 August 2010}}</ref>。クリーム在籍中、クラプトンはシンガー、ソングライター、ギタリストとして成長し始めたが、バンドのリードヴォーカルはブルースが大部分を担当し、作詞家の[[ピート・ブラウン]]と一緒に曲の大半を書いた<ref name="unuhsh"/>。クリームの最初のギグは1966年7月29日にマンチェスターの[[:w:en:Twisted Wheel Club|ツイステッド・ホイール・クラブ]]で行われ非公式な物で、正式なデビューはその二日後、[[ウィンザー (イングランド)|ウィンザー]]の[[:w:en:National Jazz and Blues Festival|ナショナル・ジャズ・アンド・ブルース・フェスティバル]]であった。クリームは大音量のブルース・ジャムと、ソロのライブステージでその永続的な伝説を確立した。
 
1967年の初めまでに、イギリスで出現したブルースロックのファンは、クラプトンをイギリスのトップギタリストとして描写し始めた。しかしクラプトンは、[[アシッドロック]]を吹き込んだギタリストである[[ジミ・ヘンドリックス]]の登場で、彼がライバルであることに気がついた。ヘンドリックスは、[[ハウリング|フィードバック奏法]]と[[エフェクター|エフェクトペダル]]を使用して新しいサウンドを作り出した<ref name="Jam"/>。ヘンドリックスは1966年10月1日に[[ウェストミンスター大学|セントラル・ロンドン・ポリテクニック]]で行われたクリームのライブに出演し、その間彼は「[[キリング・フロアー]]」のダブルタイムバージョンを演奏した<ref name="Jam">{{cite news|title=Hendrix jams with Cream|url=https://www.bbc.co.uk/music/sevenages/events/blues-based-rock/hendrix-jams-with-cream/|publisher=BBC|date=24 April 2016|access-date=13 February 2018|archive-url=https://web.archive.org/web/20171220045148/http://www.bbc.co.uk/music/sevenages/events/blues-based-rock/hendrix-jams-with-cream/|archive-date=20 December 2017|url-status=live}}</ref>。クラプトン、[[ピート・タウンゼント]]、[[ローリング・ストーンズ]]や[[ビートルズ]]のメンバーを含むイギリスのトップスター達は、ヘンドリックスの初期のクラブパフォーマンスに熱心に参加した。ヘンドリックスの到着は、クラプトンのキャリアの次の段階に即座に大きな影響を及ぼした<ref>Shadwick, Keith (2003). Jimi Hendrix: Musician. P. 84. Backbeat Books</ref>。
<gallery widths="180px" heights="130px">
File:Harrison and Clapton.jpg|ジョージ・ハリスン&クラプトン(1987年)
File:B.B.King&EricClapton.jpg|B.B.キング&クラプトン
</gallery>
 
[[File:The Fool guitar (replica).jpg|thumb|upright=.65|クラプトンの[[:w:en:The Fool (guitar)|ザ・フール・ギター]](レプリカ)、そのデザインと有名な「ウーマン・トーン」は1960年代のサイケデリックロック時代の象徴であった。]]
=== 受勲と「ブラッキー」の売却 ===
クラプトンがアメリカを初めて訪れたのは、クリームのツアーでのことであった。1967年3月、クリームはニューヨークのRKOシアターで9回のライブを行った。クラプトンによると、1964年製の彩色された[[ギブソン・SG]] - 「サイケデリック・ファンタジー」[[:w:en:The Fool (guitar)|ザ・フール]] - は、RKOシアターでデビューした<ref>{{cite book|last=Welch|first=Chris|title=Clapton: The Ultimate Illustrated History|url=https://books.google.com/books?id=M-BMCFL_c3AC&pg=PA87|access-date=2 January 2012|year=2011|publisher=Voyageur|isbn=978-0-7603-4046-2|page=87}}</ref>。クラプトンはそのギターを『[[フレッシュ・クリーム]]』の後、特に『[[カラフル・クリーム]]』で多用し、バンドが解散した1968年まで使用した<ref name="fool">{{cite news|title=Clapton's Fool: History's Greatest Guitar?|last=Oxman|first=J. Craig|date=December 2011|work=[[Vintage Guitar (magazine)|Vintage Guitar]]|pages=62-66}}</ref>。「ザ・フール」は世界で最も有名なギターの1つであり、[[サイケデリック]]な時代を象徴している<ref name="fool"/>。彼らは1967年5月11日から15日までニューヨークで『カラフル・クリーム』を録音した。クリームのレパートリーはハードロック(「[[アイ・フィール・フリー]]」)から、ブルースベースの長いインストルメンタルジャム(「[[スプーンフル]]」)までさまざまであった。『カラフル・クリーム』にはクラプトンの灼熱のギターライン、ブルースの急上昇するボーカルと際立った滑らかなベース、ベイカーのパワフルでポリリズムのジャズの影響を受けたドラムが収められた。一緒に、彼らの才能は影響力のあるパワートリオとしてクリームを確立した。クラプトンの声は、[[フランク・ザッパ]]のアルバム『[[ウィー・アー・オンリー・イン・イット・フォー・ザ・マニー]]』のA面1曲目、「[[:w:en:Are You Hung Up?|アー・ユー・ハング・アップ?]]」とB面1曲目「鼻で記憶している蒸気オルガン音楽」で聞くことができる。
[[File:EricClaptonCrash12002.jpg|thumb|right|170px|(2002年)]]
[[2002年]]のイギリス女王即位50周年式典のライヴでは、ジョージ・ハリスン死去への追悼として[[ポール・マッカートニー]]と共に、[[ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス]]を演奏し、当時の録音同様[[リードギター]]を担当し、加えて特別にリードボーカルも担当する。[[2004年]]11月3日、イギリス政府より、ナイトの爵位に次ぐ「[[大英帝国勲章#コマンダー|大英帝国勲章 CBE]]」が授与された。
 
28か月でクリームは商業的な成功を収め、数百万のレコードを売り上げ、アメリカとヨーロッパでライブを行った。彼らはロックにおける演奏者の役割を再定義し、熟練した楽器演奏と長いジャズスタイルの即興セッションを強調した最初のブルースロックバンドの1つであった。彼らのアメリカにおけるヒットシングルには、「[[サンシャイン・ラヴ]]」(1968年、第5位)、「[[ホワイト・ルーム (クリームの曲)|ホワイト・ルーム]]」(1968年、第6位)、「[[クロスロード・ブルース|クロスロード]]」(1969年、第28位)などがある。「クロスロード」は[[ロバート・ジョンソン]]の「クロスロード・ブルース」のライブバージョンである。クリームは当時の最も偉大なグループの1つとして称えられ、ギターの伝説としてのクラプトンの称賛は新たな高みに達したが、スーパーグループは短命であった。ドラッグとアルコールの使用は3人のメンバー間の緊張を高め、ブルースとベイカーの対立は最終的にクリームの解散につながった。バンドの2回目のアメリカツアーに対する非常に批判的なローリング・ストーン誌のレビューは、解散のもう一つの重要な要因であり、それはクラプトンに大きな影響を与えた<ref>Welch, Chris: "Cream" (2000), page 131</ref>。クラプトンはまた、[[ザ・バンド]]のデビューアルバムである『[[ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク]]』の革命的な[[アメリカーナ (音楽)|アメリカーナ]]サウンドが、クリームを去るという決定に影響を与えたと考えている<ref>Runtagh, J. (1 July 2018) {{cite news|url=https://www.rollingstone.com/music/music-features/the-bands-music-from-big-pink-10-things-you-didnt-know-666161/|title=The Band's 'Music From Big Pink': 10 Things You Didn't Know|work=[[Rolling Stone]]|access-date=15 April 2020}}</ref><ref>Erlewine, S.T. (1 September 2018) {{cite web|url=https://pitchfork.com/reviews/albums/the-band-music-from-big-pink/|title=Music from Big Pink|publisher=[[Pitchfork (website)]]|access-date=15 April 2020}}</ref>。
2004年6月24日には自身のギターコレクションの2度目のオークションを開催。出品された56本の中には彼の使用したギターで最も有名で長年愛用した[[ブラッキー (ギター)|ブラッキー]]('56年製の[[フェンダー・ストラトキャスター]])の愛称を持つギターも含まれていた。「ブラッキー」は当初の落札予想価格を大幅に越え最終的に95万9,500ドル(およそ1億520万円)の価格がつけられ当時「世界一値段の高いギター」となった(現在は塗り替えられている)。
 
クリームのラストアルバム『[[グッバイ・クリーム]]』には1968年10月19日に[[ロサンゼルス]]の[[ザ・フォーラム (アリーナ)|フォーラム]]で行われたライブが収められ、解散の直後にリリースされた。同作にはクラプトンと[[ジョージ・ハリスン]]が共作した「[[バッジ (曲)|バッジ]]」が収められ、これはシングルでも発売された。クラプトンはヤードバーズ時代に[[ロンドン・パラディアム]]でビートルズと共演し、そこでハリスンと出会い、二人は親しい友人となった。1968年、クラプトンはビートルズの『[[ザ・ビートルズ (アルバム)|ホワイトアルバム]]』でハリスン作の「[[ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス]]」に参加、リードギターソロを演奏した。ハリスンのソロデビューアルバム『[[不思議の壁 (アルバム)|不思議の壁]]』はクラプトンが参加した初のハリソンのアルバムである。クラプトンは契約上の制約のため、ハリスンのアルバムではほとんどクレジットされず、またクリームの「バッジ」でハリスンは「ランジェロ・ミステリオーソ」としてクレジットされた。二人はしばしばお互いのライブにゲスト出演し、共に演奏した。2001年にハリスンが死去してから1年後、クラプトンは[[コンサート・フォー・ジョージ]]の音楽監督を務めた<ref>{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/entertainment/3138096.stm|title=Ex-Beatles at Harrison film tribute|publisher=BBC|access-date=22 September 2014|date=25 September 2003}}</ref>。
[[2005年]]にはクリームの再結成ライヴが5月に4公演(5月2、4、5、6日)、ロンドンの[[ロイヤル・アルバート・ホール]]、10月に[[ニューヨーク]]の[[マディソン・スクエア・ガーデン]]で3夜連続で当時のオリジナルメンバーで行われた。
 
1969年1月、ビートルズは[[ゲット・バック・セッション]]でメンバー間の緊張感が高まり、ハリスンは数日間グループから離れた。[[ジョン・レノン]]はハリスンが戻らなかった場合、クラプトンと一緒にプロジェクトを完了することを提案した<ref>Elliot J. Huntley (2004). ''Mystical One: George Harrison - After the Break-up of the Beatles''. p. 25. Guernica Editions, 2004.</ref>。セッションの撮影ディレクターである[[マイケル・リンゼイ=ホッグ]]は、後に次のように回想している。「ジョンがクラプトンについて言及したとき、私はそこにいた - しかし、それは起こらなかった。エリックはビートルズになっていただろうか? いいえ。[[ポール・マッカートニー|ポール]]はそこに行きたくなかった。彼は解散を望まなかった。それからジョージは戻ってきたんだ。<ref>{{cite magazine|title=That Time Eric Clapton Almost Became a Beatle|url=http://www.esquire.com/entertainment/news/a39896/beatles-eric-clapton-last-days/|magazine=Esquire|date=23 April 2016|url-status=dead|archive-url=https://web.archive.org/web/20160426004245/http://www.esquire.com/entertainment/news/a39896/beatles-eric-clapton-last-days/|archive-date=26 April 2016}}</ref>」クラプトンはビートルズの4人全員と仲が良かった。1968年12月、彼は[[ローリング・ストーンズ]]の『[[ロックンロール・サーカス]]』で、この日限りのグループ、[[ザ・ダーティー・マック]]の一員としてレノンと共演した<ref>{{cite book|last1=Urish|first1=Ben|title=The Words and Music of John Lennon|date=2007|publisher=Greenwood Publishing Group|page=7}}</ref>。
[[2007年]]5月19日には旧友スティーヴ・ウィンウッドのライヴにゲスト参加し、同年7月28日に開催されたクロスロード・ギター・フェスティバルでは、ウィンウッドがクラプトンのステージにゲスト参加した<ref>{{Cite album-notes |last=大友博 |title=ライヴ・フロム・マディソン・スクエア・ガーデン |artist=エリック・クラプトン |year=2009年 }}</ref>。そして、[[2008年]]2月にはマディソン・スクエア・ガーデンで3日にわたってウィンウッドとの共演ライヴを行い、その模様は[[2009年]]にライヴ・アルバム『[[ライヴ・フロム・マディソン・スクエア・ガーデン]]』として発表された。
 
クリームは1993年に一時的に再結成し、[[ロックの殿堂]]入りの記念ステージで演奏した。2005年5月には完全に再結成し、[[ロイヤル・アルバート・ホール]]での4回のコンサートはチケットが全て完売した<ref>{{cite magazine|magazine=Billboard|first=Michael|last=Paoletta|title=Inside Track|url=https://books.google.com/books?id=rRQEAAAAMBAJ&pg=PA62|date=23 July 2005|page=62}}</ref>。その年の10月にはニューヨークの[[マディソン・スクエア・ガーデン]]で3回のショーを行った<ref>{{cite news|url=https://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2005/10/25/AR2005102501667.html|title=Cream, Rising to the Occasion at Madison Square Garden|publisher=Washingpost.com|access-date=22 September 2014|first=Peter|last=Eisner|date=26 October 2005|archive-url=https://web.archive.org/web/20140406213420/http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2005/10/25/AR2005102501667.html|archive-date=6 April 2014|url-status=live}}</ref>。ロンドンでのショーは『[[リユニオン・ライヴ 05]]』として2005年後半にCD、LP、DVDでリリースされた<ref>{{cite web|url={{AllMusic|class=album|id=royal-albert-hall-london-may-2-3-5-6-2005-main-entry-r794100|pure_url=yes}} |title=Royal Albert Hall: London May&nbsp;2-3-5-6 2005 |author=Stephen Thomas Erlewine |author-link=Stephen Thomas Erlewine |publisher=[[AllMusic]] |access-date=30 December 2010 |url-status=dead |archive-url=https://www.webcitation.org/query?url=http%3A%2F%2Fwww.billboard.com%2F%23%2Fartist%2FRihanna%2Fchart-history%2F658897%3Ff%3D793%26g%3DSingles&date=2011-10-02 |archive-date= 2 October 2011 }}</ref>。
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File:Cream1993.jpg|旧クリームメンバーとのショット(2003年)
File:Clapton, Trucks, and Weeks and 2007 Crossroads.jpg|クロスロード・ギター・フェスティバル(2007年)
File:CrossroadsGuitarFestival2007.jpg|クラプトン&ビル・マーレイ(2007年)
File:Eric Clapton, Keb Mo and Buddy Guy 26Jun2010.jpg|クラプトン&ケブ・モ&バディ・ガイ(2010年)
File:Steve Winwood in Munich, 2010.jpg|スティーヴ・ウィンウッド&クラプトン(2010年)
</gallery>
 
===ブラインド・フェイス、デラニー&ボニー&フレンズ===
=== 近年の動向 ===
{{Main|ブラインド・フェイス|デラニー&ボニー}}
[[2015年]]、『[[ブルースの殿堂]]』入り<ref>[http://www.whereseric.com/eric-clapton-news/303-eric-clapton-2015-blues-hall-fame-inductee Eric Clapton 2015 Blues Hall Of Fame Inductee] THE ERIC CLAPTON FAN CLUB MAGAZINE 2015年2月19日</ref>。
[[File:Blind Faith (1969).jpg|thumb|right|ブラインド・フェイス - 右端がクラプトン(1969年)]]
1969年に結成されたクラプトンの次のグループである[[ブラインド・フェイス]]は、クリームのドラマーであったジンジャー・ベイカー、[[トラフィック (バンド)|トラフィック]]の[[スティーヴ・ウィンウッド]]、[[ファミリー (バンド)|ファミリー]]の[[リック・グレッチ]]で構成され、アルバムを一枚発表し、アリーナサーキットツアーを1回行った。この[[スーパーグループ]]は1969年6月7日にロンドンの[[ハイド・パーク (ロンドン)|ハイド・パーク]]で10万人のファンの前にデビューした<ref>Welch, Chris (2016). Clapton - Updated Edition: The Ultimate Illustrated History. p. 12. Voyageur Press.</ref>。彼らはスカンジナビアで何回かのライブを行い、7月にはアメリカツアーを行い、そのチケットは全て完売した。デビューアルバム『[[スーパー・ジャイアンツ]]』は8月にリリースされた。アルバムは6曲で構成され、そのうちの1曲はヒット曲「[[マイ・ウェイ・ホーム]]」であった。もう1曲「プレゼンス・オブ・ザ・ロード」はクラプトンのみがクレジットされた初の曲である<ref>{{cite book| last = Turner| first = Steve| author-link = Steve Turner (writer)| year = 1976| title = Conversations with Eric Clapton| location = New York City| publisher = [[Abacus (publishers)|Abacus]]| isbn = 978-0349134024| page = 94}}</ref>。アルバムジャケットの写真は銀色の宇宙船を持ったトップレスの少女であったため、アメリカで論争が巻き起こり、バンドの写真に置き換えられた。ブラインド・フェイスは7か月足らずで解散した<ref>{{cite news |title=Dylan Jones: 'In the film of 'London Hyde Park 1969', Steve Winwood is a revelation; a genuine pop icon |url=https://www.independent.co.uk/voices/columnists/dylan-jones/dylan-jones-in-the-film-of-london-hyde-park-1969-steve-winwood-is-a-revelation-a-genuine-pop-icon-1219611.html |access-date=24 October 2018 |work=The Independent |archive-url=https://web.archive.org/web/20181024195144/https://www.independent.co.uk/voices/columnists/dylan-jones/dylan-jones-in-the-film-of-london-hyde-park-1969-steve-winwood-is-a-revelation-a-genuine-pop-icon-1219611.html |archive-date=24 October 2018 |url-status=live }}</ref>。
 
ブラインド・フェイスの解散後、クラプトンは[[デラニー&ボニー]]&フレンズのサポートメンバーとしてツアーを行った。彼はまた、[[プラスティック・オノ・バンド]]のメンバーとして1969年9月の[[:w:en:Toronto Rock and Roll Revival|トロント・ロックンロール・リバイバル]]に出演し、その様子はアルバム『[[平和の祈りをこめて]]』としてリリースされた<ref name=lenn>{{cite book|first1=Ben|last1=Urish|first2=Kenneth G.|last2=Bielen|title=The Words and Music of John Lennon|url=https://books.google.com/books?id=LJ9Y0YgSE1oC&pg=PA15|year=2007|publisher=Greenwood Publishing Group|isbn=978-0-275-99180-7|page=15}}</ref>。9月30日、クラプトンはレノンのセカンドソロシングル「[[コールド・ターキー]]」の録音に参加し、リードギターを演奏した<ref>{{cite book|last=Noyer|first=Paul Du|title=John Lennon: The Stories Behind Every Song 1970-1980|year=2010|publisher=Carlton Books Ltd.|location=London|isbn=978-1-84732-665-2|edition=Rev.|pages=25-26|chapter=John Lennon/Plastic Ono Band}}<!--|access-date=19 December 2012--></ref>。その年の12月15日、クラプトンはロンドンで[[国際連合児童基金|ユニセフ]]の募金活動でプラスティック・オノ・スーパーグループとしてレノン、ハリスンらと共演した<ref name=lenn/>。
[[2016年]]、通算21回目の来日公演を果たし<ref>[https://rockinon.com/news/detail/133987 エリック・クラプトン、2016年4月に来日公演が決定] - RO69</ref>、初日はクラプトンのファンであるエドシーランが飛び入りで参加した。
 
[[デラニー・ブラムレット]]はクラプトンの歌と作曲を励ました。ブラムレットのバックバンドとセッションプレーヤーのオールスターキャスト([[レオン・ラッセル]]と[[スティーヴン・スティルス]]を含む)を使って、クラプトンは初のソロアルバム『[[エリック・クラプトン・ソロ]]』を録音した。デラニー・ブラムレットはクラプトンと6曲を共作し、アルバムのプロデュースも担当した<ref>{{cite web| url={{AllMusic|class=album|id=r4028|pure_url=yes}}| title=allmusic ((( Eric Clapton > Overview )))| access-date=5 December 2009}}</ref>。[[ボニー・ブラムレット]]は「[[レット・イット・レイン]]」を共作した<ref>{{cite web| url={{AllMusic|class=song|id=t2546826|pure_url=yes}}| title=allmusic ((( Let It Rain )))| access-date=5 December 2009}}</ref>。このアルバムには[[J・J・ケイル]]の「[[:w:en:After Midnight (J. J. Cale song)|アフター・ミッドナイト]]」も収められたが、アメリカではチャート18位と予想外のヒットとなった。クラプトンはまたデラニー&ボニーのメンバーと共に、1970年春にジョージ・ハリスンの『[[オール・シングス・マスト・パス]]』を録音した。
[[2017年]]9月17日には、リリー・フィニー・ザナック監督による自身のドキュメンタリー映画、『Eric Clapton: Life in 12 Bars』がトロント映画祭にて上映された。
 
この期間中、クラプトンは[[ドクター・ジョン]]、[[レオン・ラッセル]]、[[ビリー・プレストン]]、[[リンゴ・スター]]、[[デイブ・メイソン]]などのアーティストともレコーディングを行っている。シカゴブルースのアーティスト、[[ハウリン・ウルフ]]とは『[[ザ・ロンドン・ハウリン・ウルフ・セッションズ]]』を録音した。このセッションには、ウルフのバンドで長年ギタリストを務める[[ヒューバート・サムリン]]と[[ローリング・ストーンズ]]のメンバー、ウィンウッド、スターも参加した<ref name="Koda">{{cite web
[[2018年]]1月には、自らの聴覚障害やギターを弾くのが難しい状態であることを明かしていたが<ref>{{Cite news|url=http://rollingstonejapan.com/articles/detail/27956|title=エリック・クラプトン、聴覚障害を告白|agency=[[ローリング・ストーン]]|date=2018-01-24|accessdate=2018-01-23}}</ref>、翌[[2019年]]4月から通算22回目の来日ツアーを開催し健在ぶりを魅せた<ref>{{Cite web |url=https://spice.eplus.jp/articles/235573 |title=エリック・クラプトン96回目の武道館公演を観た【SPICEライブレポート】 |publisher=eplus |date=2019.5.10 |accessdate=2021.7.2 }}</ref>。
| url = https://www.allmusic.com/album/the-london-howlin-wolf-sessions-mw0000200293
| title = The London Howlin' Wolf Sessions - Review
| last = Koda
| first = Cub
| author-link = Cub Koda
| publisher = [[AllMusic]]
| access-date = 23 July 2018
| archive-url = https://web.archive.org/web/20180723003650/https://www.allmusic.com/album/the-london-howlin-wolf-sessions-mw0000200293
| archive-date = 23 July 2018
| url-status = live
}}</ref>。スーパースターのラインナップにもかかわらず、批評家の[[カブ・コダ]]は次のように述べている。「普段自分がアイドル視しているアーティストとの共演を歓迎しているエリック・クラプトンでさえ、インタビューではこのアルバムを繰り返し批判している。それ自体がボリュームを語っている。<ref name="Koda"/>」この時期の他の有名な録音には、[[スティーヴン・スティルス]]の[[:w:en:Stephen Stills (album)|ファーストソロアルバム]]の「ゴー・バック・ホーム」での演奏が含まれる<ref>{{cite web |publisher=[[Robert Christgau]] |first=Robert |last=Christgau |title=Stephen Stills > Consumer Guide Reviews |url=http://www.robertchristgau.com/get_artist.php?id=3819&name=Stephen+Stills |access-date=16 December 2017 |archive-url=https://web.archive.org/web/20180713073931/http://www.robertchristgau.com/get_artist.php?id=3819&name=Stephen+Stills |archive-date=13 July 2018 |url-status=dead }}</ref>。
 
===デレク・アンド・ザ・ドミノス===
{{Main|デレク・アンド・ザ・ドミノス}}
クラプトンは、彼の周りに形成され始めた「スター」としてのカルト的賞賛を打ち消す意図で、デラニー&ボニーのリズムセクションを担当していたキーボーディストの[[ボビー・ウィットロック]]、ベーシストの[[カール・レイドル]]、ドラマーの[[ジム・ゴードン]]を誘い、新しいバンドを結成した。クラプトンは自らが主役を演じる必要がなく、アンサンブルのメンバーとしてうまく機能することを示したかった<ref>''[[The Layla Sessions]]'' liner notes, page 4.</ref>。この期間にクラプトンはザ・バンドの『[[ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク]]』の影響をますます受け、「僕がバンドについて感謝したのは、彼らが歌と歌うことにもっと関心を持っていたということだった。彼らは3パートと4パートのハーモニーを持ち、ギターは伴奏としての視点に戻された。それは僕にぴったりだった。なぜなら僕は、期待されていたという理由だけで、長くて退屈なギターソロの美徳(または疑似美徳)を演奏しなければならなかったことにとても飽きていたからだ。バンドは物事を見通しに戻したんだ。 優先順位は歌だった。」と語っている<ref>{{cite magazine|last=Fox|first=Darrin|title=Guitar Player magazine|date=June 2001|page=108}}</ref>。
 
[[File:Derek and the Dominos.png|thumb|left|デレク・アンド・ザ・ドミノス - 右端がクラプトン(1971年)]]
<gallery widths="180px" heights="120px">
彼らはもともと「エリック・クラプトン・アンド・フレンズ」と呼ばれていた。最終的な名前は、バンドの暫定的な名前である「デル・アンド・ザ・ダイナモス」が誤解され「デレク・アンド・ザ・ドミノス」となり、気まぐれでそれに決定した<ref>{{cite web|url=http://www.artistfacts.com/detail.php?id=100|work=Artistfacts|title=Derek And The Dominoes|access-date=17 February 2007|archive-url=https://web.archive.org/web/20070202112652/http://www.artistfacts.com/detail.php?id=100|archive-date=2 February 2007|url-status=live}}</ref>。クラプトンの伝記によると、[[:w:en:Ashton, Gardner and Dyke|アシュトン、ガードナー・アンド・ダイク]]の[[トニー・アシュトン]]はクラプトンにバンドを「デル・アンド・ドミノス」と呼ぶように言ったとする。当時「デル」はエリック・クラプトンのニックネームだった。デルとエリックは結合され、最終的な名前は「デレク・アンド・ザ・ドミノス」になった<ref name = "nxfddy">Schumacher, Michael (1992)</ref>。
File:Eric Clapton in concert.jpg|(2010年)
 
File:ECPrague2013.jpg|(2013年)
クラプトンはジョージ・ハリスンと親密な交際をするようになり、その過程でハリソンの妻の[[パティ・ボイド]]と出会う。彼はボイドに深く夢中になった。ボイドはクラプトンの恋心に拍車をかけ、彼の片思いはドミノスのアルバム『[[いとしのレイラ (アルバム)|いとしのレイラ]]』の曲の大半に現れた。ブルースの影響を強く受けたこのアルバムは、クラプトンと[[デュアン・オールマン]]のツインリードギターをフィーチャーし、オールマンのスライドギターがサウンドの重要な要素となっている。ドミノスは[[マイアミ]]の[[クライテリア・スタジオ]]で、[[アトランティック・レコード]]のプロデューサーの[[トム・ダウド]]と共に2枚組アルバムのレコーディングを行った。
File:Eric clapton-1547303987.jpg|(2018年)
 
</gallery>
アルバムにはヒット曲「[[いとしのレイラ]]」が含まれる。これは12世紀の[[ペルシア文学]]の詩人、[[ニザーミー|ニザーミー・ギャンジェヴィー]]による『[[ライラとマジュヌーン]]』にインスパイアされたものである。この本は[[イスラム教]]に改宗した友人の[[イアン・ダラス]]がクラプトンに渡した。物語は、父親に結婚を禁じられた月の王女と、彼女を絶望的に恋する若者マジュヌーンが気が狂ってしまうと言うもので、クラプトンに深い感銘を与えた<ref>{{Cite book|first=William |last=McKeen |title=Rock and roll is here to stay: an anthology |publisher=W. W. Norton & Company |year=2000 |page=127 |quote=Clapton poured all he had into Layla's title track, which was inspired by the Persian love story he had read, the story of Layla and Majnun.}}</ref><ref>{{Cite book |first=Gene |last=Santoro |title=Dancing in Your Head: Jazz, Blues, Rock, and Beyond |publisher=Oxford University Press US |year=1995 |page=62 |quote=At the time, he started to read ''The story of Layla and Majnun'' by the Persian poet [[ニザーミー|Nizami Ganjavi]]}}</ref>。「レイラ」の2つのパートは別々のセッションで録音された。最初にオープニングのギターセクションが録音され、数週間後に加えられた2番目のセクションでは、ドラマーのジム・ゴードンがピアノパートのメロディーを演奏した。この部分はゴードンの作曲となっているが、ボビー・ウィットロックは[[リタ・クーリッジ]]がそのメロディーを作曲したと語っている<ref name="nxfddy"/>。
 
アルバム『レイラ』は、オールマン・ブラザーズ・バンドのギタリストである[[デュアン・オールマン]]の予期せぬ参加のおかげで、実際には5人編成で録音された。セッションの数日後、オールマンズをプロデュースしていたダウドは、クラプトンをマイアミでのオールマン・ブラザーズの野外コンサートに招待した。2人のギタリストは最初にステージで出会い、次にスタジオで一晩中演奏し、友人となった。デュアンは最初に「[[テル・ザ・トゥルース]]」と「[[だれも知らない]]」でスライドギターを演奏した。5ピースのドミノスは4日間で、「[[ハイウェイへの関門]]」、「[[愛の経験]]」(フレディ・キングなどによって普及したブルースの標準)、「[[恋は悲しきもの]]」を録音した。9月にデュアンは自分のバンドとのギグのためにセッションを一時的に離れ、4ピースのドミノスは「アイ・ルックト・アウェイ」、「[[ベル・ボトム・ブルース]]」、「キープ・オン・グロウイング」を録音した。デュアンはレコーディングに戻り、「アイ・アム・ユアーズ」、「エニイデイ」、「イッツ・トゥー・レイト」を録音した。9月9日、彼らはヘンドリックスの「[[リトル・ウィング]]」とタイトルトラックをレコーディングした。翌日、最終曲「イッツ・トゥー・レイト」が録音された<ref>"[[The Layla Sessions]]" CD liner notes.</ref>。
 
[[File:Eric "slowhand" Clapton.jpg|thumb|right|[[バルセロナ]]で、1974年]]
悲劇はその短いキャリアを通してグループを悩ませた。セッション中にクラプトンは[[ジミ・ヘンドリックス]]の死去のニュースに打ちのめされた。8日前にバンドはトリビュートとして「リトル・ウィング」のカバーを録音していた。ヘンドリックスの死の1日前の1970年9月17日、クラプトンは誕生日プレゼントとしてヘンドリックスに贈る予定だった左利き用のフェンダー・ストラトキャスターを購入していた。クラプトンの悩みに加えて、『レイラ』リリース時のレビューは芳しいものでなかった。動揺したグループは、オールマン・ブラザーズ・バンドに戻ったオールマンなしでアメリカツアーを行った。クラプトンが後にツアーはドラッグとアルコールにまみれた中で行われたことを認めたにもかかわらず、結果として二枚組のライブアルバム『[[イン・コンサート (デレク・アンド・ザ・ドミノスのアルバム)|イン・コンサート]]』をもたらし、それは高く評価された<ref>''[[The Layla Sessions]]'' liner notes, page 12.</ref>。
 
ドミノスは2枚目のスタジオアルバムのレコーディングを行っていたが、エゴの衝突が起こりクラプトンが出て行き、グループは解散した。オールマンは1971年10月29日のオートバイ事故で死去した。クラプトンは後に自伝で、フロリダでのレイラセッション中に彼とオールマンは切っても切れない関係になったと書いている。彼はオールマンのことを「僕がかつてなかったが、僕がしたかった音楽の兄弟」として語った<ref>Clapton, ''The Autobiography'', 128.</ref>。レイドルは1979年の夏までクラプトンのベーシストであり続けたが、1980年5月にアルコールと麻薬の影響で死去した。クラプトンとウィットロックは2000年まで共演することは無かった。2人は2000年に[[BBC]]の[[ジュールズ・ホランド]]の番組「''[[:w:en:Later... with Jools Holland|Later... with Jools Holland]]''」で再共演した。ドミノスのもう一つの悲劇は、ジム・ゴードンの運命であった。ゴードンは1983年に母親をハンマーで殺害した。当時彼は[[統合失調症]]であったものの診断されておらず、逮捕後に初めて正しく診断が下された。ゴードンは懲役16年の判決を受け収監された後精神病院に移され、現在もそこに留まっている<ref name="unuhsh"/>。
 
===個人的問題と初期のソロでの成功===
1970年代のクラプトンの成功は、ロマンチックな憧れとドラッグやアルコール中毒に悩まされ、もがき苦しんだ個人的生活とは全く対照的であった<ref>Marc Roberty, Chris Charlesworth (1995) [https://books.google.com/books?id=qpvlUrpH_xoC&pg=PA67&dq=eric+clapton+DRUGS+1970s&ct=result&resnum=4#v=onepage The complete guide to the music of Eric Clapton] p.67. Omnibus Press, 1995</ref>。クラプトンは未だボイドに夢中で、ハリスンとの友情に引き裂かれていたが、ドミノスの解散後はサリーの自宅に閉じこもりツアーやレコーディングから距離を置いた。彼は[[薬物乱用|ヘロイン中毒]]の療養に入り、活動を中断した。1971年8月にニューヨークで開催されたハリスンの[[バングラデシュ・コンサート]]に出演したが、ステージ上で気絶した物の復帰し、なんとかパフォーマンスを終えることができた<ref name="unuhsh"/>。1973年1月、[[ザ・フー]]の[[ピート・タウンゼント]]は、クラプトンの復帰を支援するために、ロンドンの[[レインボー・シアター]]で「[[レインボー・コンサート]]」と題されたコンサートを開催した。クラプトンは、1975年に[[ケン・ラッセル]]の映画版「[[トミー (映画)|トミー]]」で「The Preacher」(伝道師)を演じることで人気を取り戻した。クラプトンは映画では、(「Eyesight to the Blind」を演奏する)いくつかのショットで明らかに偽のひげを生やしているため、注目に値する。初期のテイクでは本当のひげを剃って撮影を行ったが、監督はそのテイクを削除することを決定したため、付けひげを付けて撮り直しが行われた<ref name="nxfddy"/>。
 
[[File:Clapton and Elliman.jpg|thumb|[[イヴォンヌ・エリマン]]とクラプトン、1974年]]
クラプトンは1974年にボイドと同居を始め(2人は1979年まで結婚しなかった。)、もはやヘロインは使用していなかった(代わりに飲酒量が増えていった。)。彼は控えめなツアーバンドを結成し、メンバーはレイドル、マイアミのギタリスト[[ジョージ・テリー]]、キーボーディストのディック・シムズ(2011年死去)<ref>{{cite web |url=http://www.gibson.com/en-us/Lifestyle/News/dick-sims-death-1209-2011/ |title=Longtime Eric Clapton Keyboardist Dick Sims Dies |publisher=Gibson.com |date=24 June 2008 |access-date=30 December 2011 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20120113052349/http://www.gibson.com/en%2Dus/Lifestyle/News/dick%2Dsims%2Ddeath%2D1209%2D2011/ |archive-date=13 January 2012 }}</ref>、ドラマーの[[ジェイミー・オールデイカー]]、ヴォーカリストの[[イヴォンヌ・エリマン]]とマーシー・レヴィ([[マルセラ・デトロイト]]としても知られる)が含まれた。このバンドでクラプトンは『[[461 オーシャン・ブールヴァード]]』(1974)を録音した。これはよりコンパクトな曲とより少ないギターソロに重点を置いたアルバムであった。「[[アイ・ショット・ザ・シェリフ]]」のカバーバージョンはクラプトンの最初のナンバーワンヒットであり、[[レゲエ]]と[[ボブ・マーリー]]の音楽をより多くの聴衆に届けるのに貢献した。1975年のアルバム『[[安息の地を求めて]]』もこの傾向を続けた。アルバムのオリジナルタイトルである『''The World's Greatest Guitar Player (There's One in Every Crowd)''』は、その皮肉な意図が誤解されると感じられたため、プレス前に変更された。バンドはワールドツアーを行い、その様子は『[[エリック・クラプトン・ライヴ]]』となってリリースされた<ref>{{cite book|first1=Pete|last1=Prown|first2=Harvey P.|last2=Newquist|title=Legends of Rock Guitar: The Essential Reference of Rock's Greatest Guitarists|url=https://books.google.com/books?id=60Jde3l7WNwC&pg=PA70|year=1997|publisher=Hal Leonard Corporation|isbn=978-0-7935-4042-6|page=70}}</ref>。クラプトンはその後もアルバムをリリースし続け、定期的にツアーを行った。この期間のハイライトとして、『[[ノー・リーズン・トゥ・クライ]]』([[ボブ・ディラン]]と[[ザ・バンド]]とのコラボレーション)、『[[スローハンド (アルバム)|スローハンド]]』(「[[ワンダフル・トゥナイト]]」と2度目の[[J・J・ケイル]]のカバー「[[コカイン (曲)|コカイン]]」を含む)が挙げられる。1976年、彼は[[マーティン・スコセッシ]]のドキュメンタリー「[[ラスト・ワルツ]]」で撮影された[[ザ・バンド]]の解散ライブで、一連の著名なゲストの1人として出演した<ref>{{cite web | last = Christgau | first = Robert | author-link = Robert Christgau | title = Robert Christgau Consumer Guide: The Band | url = http://www.robertchristgau.com/get_artist.php?name=The+Band | access-date = 7 January 2007 | archive-url = https://web.archive.org/web/20071001000639/http://www.robertchristgau.com/get_artist.php?name=The+Band | archive-date = 1 October 2007 | url-status = dead }}</ref>。
 
===成功の発展===
[[File:RIAAEric ClaptonTimepiecesTheBestOfEricClapton7xPlatinum.jpg|thumb|7度の[[RIAA]]プラチナ認定を受賞した『[[ベスト・オブ・エリック・クラプトン]]』(1982)]]
1981年、クラプトンはプロデューサーの[[マーティン・ルイス]]に招待され、[[アムネスティ・インターナショナル]]のチャリティーコンサートであるロンドンの「[[:w:en:The Secret Policeman's Other Ball|シークレット・ポリスマンズ・アザー・ボール]]」に出演した。クラプトンは招待を受け入れ、[[ジェフ・ベック]]と組んで数曲をデュエットした。伝えられるところによると、彼らの最初のステージにおけるコラボレーションであった。公演のうち3曲はショーのアルバムでリリースされ、1曲は映画に登場した。ロンドンの[[ドゥルリー・レーン劇場]]での公演は、新しい10年でクラプトンの形と卓越性への回帰を告げた。ヘロイン中毒の前に改宗した「キリスト教への深いコミットメント」など、多くの要因がクラプトンの復帰に影響を与えた<ref>Conversations with Eric Clapton, Steve Turner</ref><ref>Moritz, Charles (1987)</ref><ref name="amg">{{cite web| url={{AllMusic|class=artist|id=p64692|pure_url=yes}} |publisher=AllMusic | access-date=17 February 2007 | title = Eric Clapton | first = William | last = Ruhlmann}}</ref>。
 
クラプトンはマネージャーに電話し、アルコール依存症であることを認めた後、1982年1月に[[ミネアポリス・セントポール都市圏|ミネアポリス・セントポール]]に飛び、[[ミネソタ州]][[センターシティ (ミネソタ州)|センターシティ]]にある[[:w:en:Hazelden Foundation|ヘーゼルデン・トリートメントセンター]]にチェックインした。飛行機の中で、クラプトンは二度と飲むことができないのではないかと恐れて、たくさんの酒を飲んだ。クラプトンは自伝に次のように書いている:<ref>{{cite book|author = Clapton, Eric|title = Clapton, The Autobiography|url = https://archive.org/details/claptonautobiogr00clap|url-access = registration|date = 2007|publisher = Broadway Books|page = [https://archive.org/details/claptonautobiogr00clap/page/198 198]|isbn = 9780385518512}}</ref>
 
{{Quote|僕の人生の最悪の瞬間に、自殺しなかった唯一の理由は、死んだらもう飲むことができないだろうと知っていたということだった。それは僕が生きる価値があると思った唯一のことだった、そして人々が僕をアルコールから遠ざけようとしているという考えはひどいものだった。なぜなら僕は飲んで飲んで飲んで、そして彼らは実際に僕を診療所に連れて行かなければならなかった。}}
 
[[File:TinaTurner&Clapton.jpg|thumb|1987年6月18日、[[ウェンブリー・アリーナ]]で演奏する[[ティナ・ターナー]]とクラプトン]]
退院後ヘーゼルデンの医師は、クラプトンがアルコール依存症やストレスの引き金となるような活動に参加しないように勧めた。しかし、それは起こった。クラプトンは1987年11月にヘーゼルデン・トリートメントセンターに戻ることとなる。それ以来、彼は冷静さを保っている。最初のリハビリから退院してから数か月後、クラプトンは医師の指示に反して次のアルバムの制作を始めた。[[トム・ダウド]]と協力して、彼はこれまで「最も強制的な」アルバム『[[マネー・アンド・シガレッツ]]』を制作した。クラプトンは、アルコール依存症からの最初のリハビリの後、「それ(金とタバコ)が自分が去ったのを見たすべてだったから」このアルバム名を選んだ<ref>{{cite book|title=Clapton: The Autobiography|url=https://archive.org/details/claptonautobiogr00clap|url-access=registration|first=Eric|last=Clapton|year=2007|isbn=978-0-385-51851-2}}</ref>。
 
1984年にクラプトンは[[ピンク・フロイド]]の元メンバーである[[ロジャー・ウォーターズ]]のソロアルバム『[[ヒッチハイクの賛否両論]]』に出演し、サポートツアーに参加した。それ以来、ウォーターズとクラプトンは密接な関係を築いてきた。2005年に彼らは津波救援基金のために共演した。2006年、彼らは[[:w:en:Countryside Alliance|カントリーサイド・アライアンス]]の支援を受けて、[[ハイクレア・カースル]]で「[[あなたがここにいてほしい (ピンク・フロイドの曲)|あなたがここにいてほしい]]」と「[[コンフォタブリー・ナム]]」の2曲を演奏した。現在は定期的にチャリティーパフォーンスを行っているクラプトンだが、1985年7月13日に[[フィラデルフィア]]の[[ジョン・F・ケネディ・スタジアム]]で開催された[[ライヴエイド]]コンサートで、[[フィル・コリンズ]]、[[ティム・レンウィック]]、[[クリス・ステイントン]]、[[ジェイミー・オールデイカー]]、[[マーシー・レビー]]、[[ショーン・マーフィー]]、[[ドナルド・ダック・ダン]]らと共演した<ref>{{cite book|first1=Pete|last1=Prown|first2=Harvey P.|last2=Newquist|title=Legends of Rock Guitar: The Essential Reference of Rock's Greatest Guitarists|url=https://books.google.com/books?id=60Jde3l7WNwC&pg=PA69|year=1997|publisher=Hal Leonard Corporation|isbn=978-0-7935-4042-6|page=69}}</ref>。視聴時間のピークに近いスロットを提供されたとき、彼は明らかに照れていたようだった。彼は1980年代もコンスタントにアルバムを発表し、1985年には「フォーエヴァー・マン」と「シーズ・ウェイティング」の2つのヒット曲を含んだ『[[ビハインド・ザ・サン]]』をフィル・コリンズと共に制作し、1986年の『[[オーガスト (エリック・クラプトンのアルバム)|オーガスト]]』でもコリンズを起用した<ref>{{cite web | url = https://www.rollingstone.com/music/albumreviews/august-19870212 | title = Eric Clapton August | access-date = 15 August 2017 | last = DeCurtis | first = Anthony | date = 12 February 1987 | work = [[Rolling Stone]] | archive-url = https://web.archive.org/web/20170829190802/http://www.rollingstone.com/music/albumreviews/august-19870212 | archive-date = 29 August 2017 | url-status = live }}</ref>。
 
[[File:Harrison and Clapton 1987 cropped.jpg|thumb|left|[[:w:en:Prince's Trust|プリンス・トラスト]]・コンサートで演奏する[[ジョージ・ハリスン]]とクラプトン、ウェンブリー・アリーナで、1987年]]
『オーガスト』はコリンズのトレードマークであるドラムとホーンのサウンドに溢れ、クラプトンのこれまでのイギリスにおける最大の売り上げとなり、チャートの最高位でとなる3位に到達した。アルバムの最初のトラックであるヒット曲「[[:w:en:It's in the Way That You Use It|イッツ・イン・ザ・ウェイ・ザット・ユー・ユーズ・イット]]」は[[トム・クルーズ]]と[[ポール・ニューマン]]の映画「[[ハスラー2]]」で使用された。ホーンがフィーチャーされた「ラン」はコリンズの「[[:w:en:Sussudio|ススーディオ]]」やその他の作品の作風を反映し、一方「[[:w:en:Tearing Us Apart|ティアリング・アス・アパート]]」([[ティナ・ターナー]]と共演)や「ミス・ユー」ではクラプトンのより激しいサウンドが続けられた。このリバウンドとして、クラプトンはコリンズ、ベーシストの[[ネイザン・イースト]]、キーボーディストの[[グレッグ・フィリンゲインズ]]と共に2年に及ぶツアーを開始した。『オーガスト』ツアーでは4人のバンドの2本のコンサートビデオが撮影された。『''Eric Clapton Live from Montreux''』と『''Eric Clapton and Friends''』である。クラプトンは後に「アフター・ミッドナイト」を、[[アンハイザー・ブッシュのブランド|ミケロブ]]ビールのプロモーション用シングルとして作り直した。同ブランドはコリンズや[[スティーヴ・ウィンウッド]]の曲も使用していた。クラプトンは1985年の[[BBCテレビジョン]]のスリラーシリーズ、「[[エッジ・オブ・ダークネス]]」のスコアを[[マイケル・ケイメン]]とコラボレーションし、[[英国アカデミー賞テレビ部門]]を受賞した。ロンドンで開催された1987年の[[ブリット・アワード]]で、クラプトンは音楽への優れた貢献に対して賞を受賞した<ref name=Brits>{{cite web|url=http://www.brits.co.uk/history/shows/1987|title=Brit Awards 1987|publisher=Brit Awards|access-date=22 September 2014|archive-url=https://archive.today/20140317150236/http://www.brits.co.uk/history/shows/1987|archive-date=17 March 2014|url-status=live}}</ref>。また同年、[[ジョージ・ハリスン]]のアルバム『[[クラウド・ナイン (ジョージ・ハリスンのアルバム)|クラウド・ナイン]]』に参加し、「[[:w:en:Cloud 9 (George Harrison song)|クラウド・ナイン]]」、「ザッツ・ホワット・イット・テイクス」、「[[:w:en:Devil's Radio|デヴィルズ・レイディオ]]」、「金星の崩壊」でギターを演奏した<ref>Huntley, Elliot J. (2006). Mystical One: George Harrison - After the Break-up of the Beatles. Toronto, ON: Guernica Editions. p. 205. {{ISBN|1-55071-197-0}}.</ref>。
 
クラプトンはまた、[[ビージーズ]]と共にチャリティーを行った。スーパーグループはザ・バンバリーズと名乗り、収益を[[チェシャー]]のバンバリー・クリケットクラブに寄付するチャリティーアルバムを録音した。このクラブは、イギリスの非営利団体への資金を集めるためにクリケットのエキシビションマッチを行った。ザ・バンバリーズは、''The Bunbury Tails''のために「"We're the Bunburys"」「"Bunbury Afternoon"」「"Fight (No Matter How Long)"」の3曲を録音した。「"Fight (No Matter How Long)"」は『[[:w:en:1988 Summer Olympics Album: One Moment in Time|1988 Summer Olympics Album: One Moment in Time]]』に収録され、ロック・チャートで8位になった<ref name="Bunburys">{{cite web | url=https://www.bathroomreader.com/2014/06/bee-gees-meet-eric-clapton-bunbury-tails/ | title=The Bee Gees Meet Eric Clapton | work=Uncle John's Bathroom Reader | date=27 June 2014 | access-date=29 July 2017 | archive-url=https://web.archive.org/web/20170729221353/https://www.bathroomreader.com/2014/06/bee-gees-meet-eric-clapton-bunbury-tails/ | archive-date=29 July 2017 | url-status=dead }}</ref>。クラプトンは2011年にロンドンのグロブナー・ハウス・ホテルで開催されたクリケットクラブの25周年記念式典でも演奏している<ref>{{cite news|url=http://www.ericclapton.com/news/eric-clapton-helps-celebrate-bunbury-cricket-clubs-25th-birthday-24056|title=Clapton Helps Celebrate Bunbury Cricket Club's 25th Birthday|agency=EricClapton.com.|date=4 December 2017|access-date=4 December 2017|archive-url=https://web.archive.org/web/20171205042351/http://www.ericclapton.com/news/eric-clapton-helps-celebrate-bunbury-cricket-clubs-25th-birthday-24056|archive-date=5 December 2017|url-status=dead}}</ref>。1988年に彼は[[ウェンブリー・スタジアム (1923)|ウェンブリー・スタジアム]]で行われた[[:w:en:Nelson Mandela 70th Birthday Tribute|ネルソン・マンデラ70歳の誕生日トリビュート]]で[[ダイアー・ストレイツ]]、[[エルトン・ジョン]]と共に演奏し、[[ロイヤル・アルバート・ホール]]で行われた[[:w:en:The Prince's Trust|プリンス・トラスト]]ロックガーラにも出演した<ref>{{cite news|title=Eric Clapton on stage at Nelson Mandela 70th Birthday Tribute ..|url=http://www.gettyimages.co.uk/detail/news-photo/eric-clapton-on-stage-at-nelson-mandela-70th-birthday-news-photo/639741272?#eric-clapton-on-stage-at-nelson-mandela-70th-birthday-tribute-concert-picture-id639741272|agency=Getty Images|date=17 December 2017|access-date=17 December 2017|archive-url=https://web.archive.org/web/20171221224336/http://www.gettyimages.co.uk/detail/news-photo/eric-clapton-on-stage-at-nelson-mandela-70th-birthday-news-photo/639741272#eric-clapton-on-stage-at-nelson-mandela-70th-birthday-tribute-concert-picture-id639741272|archive-date=21 December 2017|url-status=live}}</ref>。1989年にクラプトンは、ブルース、ジャズ、ソウル、ポップなど、幅広いスタイルをカバーした『[[ジャーニーマン (アルバム)|ジャーニーマン]]』をリリースした。共演ミュージシャンは[[ジョージ・ハリスン]]、[[フィル・コリンズ]]、[[ダリル・ホール]]、[[チャカ・カーン]]、[[ミック・ジョーンズ]]、[[デイヴィッド・サンボーン]]、[[ロバート・クレイ]]が含まれた。「[[バッド・ラヴ (エリック・クラプトンの曲)|バッド・ラヴ]]」はシングルとしてリリースされ、後に[[グラミー賞]]の最優秀男性ロックボーカルパフォーマンスを受賞した<ref>{{cite web|url=http://www.grammy.com/nominees/search?artist=&title=&year=1990&genre=All|title=Past Winners Search &#124; GRAMMY.com|publisher=Grammy Awards|access-date=22 August 2015|archive-url=https://www.webcitation.org/6JFOXVxx9?url=http://www.grammy.com/nominees/search?artist=&title=&year=1990&genre=All|archive-date=30 August 2013|url-status=live}}</ref>。
 
===1990年代===
1990年代はロイヤル・アルバート・ホールでのコンサートで始まった。『[[24ナイツ]]』は同会場で1990年1月から2月頃、1991年2月から3月にかけて行われた演奏が収められた。1990年6月30日、ダイアー・ストレイツ、クラプトン、エルトン・ジョンがイギリスの[[ネブワース・フェスティバル|ネブワース]]で開催された[[ノードフ=ロビンズ・ミュージック・セラピー|ノードフ=ロビンズ]]のチャリティーショーにゲスト出演した<ref>Tobler, John: ''Who's who in rock & roll'' p.1988. Crescent Books, 1991</ref>。1990年8月27日、クラプトンと一緒にツアーを行っていたブルースギタリストの[[スティーヴィー・レイ・ヴォーン]]とそのロードクルーのメンバー3名が、コンサート後の移動で乗り込んだヘリコプターが墜落し、死亡した。1991年3月20日、クラプトンの4歳の息子コナーが母親の友人のニューヨーク市東57丁目117番のアパートの53階の窓から転落して死亡した。コナーの葬儀は3月28日にサリー州リプリーのクラプトンの故郷の村にあるマグダラのマリア教会で行われた<ref>{{cite magazine|url=http://www.people.com/people/archive/article/0,,20114903,00.html|title=In An English Country Churchyard, Eric Clapton and Friends Mourn the Death of His Son, Conor, 4|magazine=People|access-date=22 September 2014|archive-url=https://web.archive.org/web/20141020170345/http://www.people.com/people/archive/article/0,,20114903,00.html|archive-date=20 October 2014|url-status=live}}</ref>。1991年、クラプトンは[[リッチー・サンボラ]]のアルバム『[[ストレンジャー・イン・ディス・タウン]]』の「ミスター・ブルースマン」でギターを演奏した。この曲は彼に捧げられたものであった。彼は翌年のエルトン・ジョンのアルバム『[[ザ・ワン (エルトン・ジョンのアルバム)|ザ・ワン]]』で、エルトンとのデュエットである「ランナウェイ・トレイン」にギターとヴォーカルで参加した<ref>{{cite web |url=https://articles.latimes.com/1992-07-12/entertainment/ca-4218_1_elton-john |last=Boehm |first=Mike |work=Los Angeles Times |title=ELTON JOHN "The One" MCA |date=12 July 1992 |access-date=18 September 2011 |archive-url=https://web.archive.org/web/20150427143652/http://articles.latimes.com/1992-07-12/entertainment/ca-4218_1_elton-john |archive-date=27 April 2015 |url-status=live }}</ref>。
 
{{Quote box|width=28%|align=right|quote=僕はほとんど無意識のうちに音楽を癒しのエージェントとして使っていたが、見よ、それはうまくいった...僕は音楽からたくさんの幸せとたくさんの癒しを得た。|source=-「ティアーズ・イン・ヘブン」を書いているときの癒しのプロセスに関するクラプトン<ref>。{{cite web |url=https://abcnews.go.com/2020/Entertainment/story?id=2404474&page=1- |title=Exclusive: Mother of 'Tears in Heaven' Inspiration Shares Story - ABC News |publisher=ABC News |date=7 September 2006 |access-date=12 December 2014 |archive-url=https://web.archive.org/web/20140224003656/http://abcnews.go.com/2020/Entertainment/story?id=2404474&page=1- |archive-date=24 February 2014 |url-status=live }}</ref>}}
 
クラプトンの悲しみは、[[ウィル・ジェニングス]]との共作「[[ティアーズ・イン・ヘヴン]]」で表された<ref>{{cite magazine|date=7 December 2000|title=Eric Clapton: 'Tears In Heaven'|magazine=Rolling Stone|issue=88}}</ref><ref>{{cite journal|last=Leerhsen|first=Charles|date=22 March 1992|title=His Saddest Song|journal=Newsweek|volume=119|issue=12|page=52}}</ref>。[[第35回グラミー賞]]でクラプトンはシングル「ティアーズ・イン・ヘヴン」とアルバム『アンプラグド~アコースティック・クラプトン』で6つのグラミー賞を受賞した<ref>{{cite magazine|magazine=Billboard|first=Craig|last=Rosen|title=Clapton Grabs Key Grammys; 'Beauty' is Belle Of The Ball|url=https://books.google.com/books?id=rw8EAAAAMBAJ&pg=PA1|date=6 March 1993|page=1|access-date=12 March 2016|archive-url=https://web.archive.org/web/20140627200627/http://books.google.com/books?id=rw8EAAAAMBAJ&pg=PA1|archive-date=27 June 2014|url-status=live}}</ref>。このアルバムは1992年1月16日に[[バークシャー]]の[[ウィンザー (イングランド)|ウィンザー]]にある[[:w:en:Bray Studios (UK)|ブレイ・フィルム・スタジオ]]で少人数の聴衆の前で行われたライブ演奏が収められたものだった。[[Billboard 200|ビルボード200]]でナンバーワンに達し、アメリカで1,000万枚以上を販売したことでRIAAからダイヤモンドの認定を受賞した<ref>{{cite web|url=https://www.riaa.com/gold-platinum/?tab_active=default-award&ar=ERIC+CLAPTON&ti=UNPLUGGED|title=Eric Clapton - Unplugged (Certifications)|website=RIAA|language=en-US|access-date=10 June 2016|archive-url=https://web.archive.org/web/20160624004647/http://www.riaa.com/gold-platinum/?tab_active=default-award&ar=ERIC+CLAPTON&ti=UNPLUGGED|archive-date=24 June 2016|url-status=live}}</ref>。[[全英アルバムチャート]]では2位に達し、イギリスではプラチナの認定を4回受賞した<ref>[https://www.bpi.co.uk/bpi-awards/ "British album certifications - Eric Clapton - Unplugged"] {{Webarchive|url=https://www.webcitation.org/5mr0Evm3j?url=http://www.bpi.co.uk/certifiedawards/search.aspx |date=17 January 2010 }}. [[British Phonographic Industry]]. Retrieved 12 February 2016. Enter Unplugged in the search field and then press Enter</ref>。1992年9月9日、クラプトンは[[:w:en:1992 MTV Video Music Awards|1992年のMTVビデオミュージックアワード]]で「ティアーズ・イン・ヘヴン」を演奏し、最優秀男性ビデオ賞を受賞した<ref>{{cite web|url=http://www.mtv.com/ontv/vma/1992/|title=1992 MTV Video Music Awards|publisher=MTV|access-date=22 September 2014|archive-url=https://archive.today/20120630111824/http://www.mtv.com/ontv/vma/1992/|archive-date=30 June 2012|url-status=live}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.rockonthenet.com/archive/1992/mtvvmas.htm|title=1992 MTV VMAS|publisher=Rockonthenet.com|access-date=22 September 2014|archive-url=https://web.archive.org/web/20180612141932/http://www.rockonthenet.com/archive/1992/mtvvmas.htm|archive-date=12 June 2018|url-status=live}}</ref>。
 
1992年、クラプトンは英国作曲家賞、作曲家賞、作曲家賞、生涯功労賞を含む4つの[[アイヴァー・ノヴェロ賞]]を受賞した<ref name="Ivors Lifetime">[http://theivors.com/archive/1990-1999/the-ivors-1992/ "1992 Ivor Novello Awards"] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20180104013937/http://theivors.com/archive/1990-1999/the-ivors-1992/ |date=4 January 2018 }}. The Ivors. Retrieved 3 January 2018</ref>。1992年10月には[[ボブ・ディラン]]のデビュー30周年記念コンサートに出演している。コンサートはニューヨーク市の[[マディソン・スクエア・ガーデン]]で録音され、二枚組のアルバム『[[30~トリビュート・コンサート (アルバム)|30~トリビュート・コンサート]]』としてリリースされた。多くの有名人が古くからのディランの曲を演奏し、その様子が収められた。クラプトンは「[[天国への扉 (ボブ・ディランの曲)|天国への扉]]」でリードギターを担当し、同曲はコンサートのフィナーレの一部であった<ref>SPIN magaone. Nov 1993. p. 32</ref>。クラプトンは[[スティール弦アコースティックギター|アコースティックギター]]による『アンプラグド』の成功の後、1994年のアルバム『[[フロム・ザ・クレイドル]]』では、古いブルーススタンダードをエレキギターでカバーした<ref>D. Dicaire, ''More blues singers: biographies of 50 artists from the later 20th century'' (McFarland, 2001), p. 203.</ref>。1995年、クラプトンは[[クリッシー・ハインド]]、[[シェール]]、[[ネナ・チェリー]]と共演したシングル「[[:w:en:Love Can Build a Bridge|Love Can Build a Bridge]]」を、チャリティー番組「[[コミックリリーフ (慈善団体)|コミックリリーフ]]」の支援としてリリースした。同シングルはクラプトンが出演したシングルで初めて全英No.1となった<ref>{{cite book|last1=Kutner|first1=Jon|title=1000 UK Number One Hits|date=2010|publisher=Omnibus Press|isbn=9780857123602}}<!--|access-date=27 September 2015--></ref>。
 
1996年9月12日、クラプトンはニューヨーク市のレキシントン・アーモリーで行われた[[アルマーニ]]のパーティーに[[グレッグ・フィリンゲインズ]]、[[ネイザン・イースト]]、[[スティーヴ・ガッド]]らと共に出演した。[[シェリル・クロウ]]は「[[:w:en:Tearing Us Apart|ティアリング・アス・アパート]]」を歌ったが、『オーガスト』からのこの曲は1986年のプリンス・トラスト・オールスター・ロックショーで[[ティナ・ターナー]]が最初に演じた曲であった。ハイドパークで開かれた[[:w:en:Live in Hyde Park (Eric Clapton album)|野外コンサート]]<ref name="Hyde Park"/>に続いて行われたこのショーは、その年のクラプトンの唯一のアメリカにおけるショーであった<ref name="Hyde Park">{{cite web|url=https://www.allmusic.com/album/live-in-hyde-park-videodvd-r420505|title=Live in Hyde Park (Video/DVD)|publisher=AllMusic|access-date=22 September 2014|archive-url=https://web.archive.org/web/20120108101233/http://www.allmusic.com/album/live-in-hyde-park-videodvd-r420505|archive-date=8 January 2012|url-status=live}}</ref>。1996年に[[ウェイン・カークパトリック]]/[[ゴードン・ケネディ]]/[[トミー・シムズ]]らと録音した「チェンジ・ザ・ワールド」(映画「[[フェノミナン]]」のサウンドトラック)は、1997年に[[グラミー賞]]のソング・オブ・ザ・イヤーを受賞した。同年彼は『''Retail Therapy''』([[サイモン・クライミー]]が所属するTDFのアルバム)のレコーディングにも参加した。1997年9月15日、クラプトンはロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで開催された[[モントセラト島救済コンサート]]に出演、「いとしのレイラ」と「セイム・オールド・ブルース」を演奏した後、[[ポール・マッカートニー]]、[[エルトン・ジョン]]、[[フィル・コリンズ]]、[[マーク・ノップラー]]、[[スティング (ミュージシャン)|スティング]]らとともに「[[ヘイ・ジュード]]」を演奏した<ref>[https://books.google.com/books?id=BwoEAAAAMBAJ&pg=PA59&dq=Music+for+Montserrat+-+concert#v=onepage&q=Music%20for%20Montserrat%20-%20concert "Billboard 6 September 1997"]. p.59. ''Billboard''. Retrieved 12 December 2014</ref>。その秋、クラプトンはアルバム『[[ピルグリム]]』をリリースした<ref name="amg" />。
 
1996年にクラプトンはシンガーソングライターの[[シェリル・クロウ]]と関係を持っていた。彼らは友達のままで、クラプトンはクロウのセントラル・パークでのコンサートにゲストとして出演した。2人はクリームのヒット曲「ホワイト・ルーム」を演奏した。その後クラプトンとクロウは、2007年6月のクロスロード・ギター・フェスティバルで他のギターレジェンドらと共に「タルサ・タイム」を演奏し、2008年8月にロンドンの[[ハイド・パーク]]で[[ジョン・メイヤー]]と[[:w:en:Robert Randolph and the Family Band|ロバート・ランドルフ]]と共に[[ロバート・ジョンソン]]のブルースクラシック「クロスロード」を演奏した。
 
1999年2月24日、[[第41回グラミー賞]]でクラプトンは「[[マイ・ファーザーズ・アイズ]]」で3度目のグラミー賞最優秀男性ポップボーカルパフォーマンスを受賞した<ref>{{cite web|url=http://www.grammy.com/nominees/search?artist=eric+clapton|title=Past Winners Search: Eric Clapton|work=The GRAMMYs|access-date=22 September 2014|archive-url=https://web.archive.org/web/20140726101050/http://www.grammy.com/nominees/search?artist=eric+clapton|archive-date=26 July 2014|url-status=live}}</ref>。1999年10月、コンピレーションアルバム『[[ベスト・オブ]]』がリリースされた。このアルバムには映画「[[プリティ・ブライド]]」の劇中曲「ブルー・アイズ・ブルー」が収められた<ref>{{cite web|url=https://www.allmusic.com/album/clapton-chronicles-the-best-of-eric-clapton-r431814/review|title=Clapton Chronicles: The Best of Eric Clapton|publisher=AllMusic|access-date=22 September 2014|archive-url=https://web.archive.org/web/20110424043639/http://allmusic.com/album/clapton-chronicles-the-best-of-eric-clapton-r431814/review|archive-date=24 April 2011|url-status=live}}</ref><ref>{{cite web|url=https://www.allmusic.com/album/the-runaway-bride-r423753/review|title=The Runaway Bride (Original Soundtrack)|publisher=AllMusic|access-date=22 September 2014}}</ref>。20世紀は[[カルロス・サンタナ]]、[[B.B.キング]]とのコラボレーションで終えることとなる。クラプトンはキングを尊敬し、常に彼と一緒にアルバムを作りたいと思っていた。キングはクラプトンについて「私はその男を尊敬している。彼はギタリストとしてロックンロールでナンバー1、そして素晴らしい人物としてナンバー1だと思う。」と語っている<ref name="SarasotaHerald">{{cite web | url = https://news.google.com/newspapers?id=r28fAAAAIBAJ&pg=6362,12083&dq=clapton+riding-with-the-king&hl=en | title = Clapton recruits B.B. King for a vintage blues session | work = [[Sarasota Herald-Tribune]] | date = 1 June 2000 | access-date = 22 May 2020}}</ref>。
 
===コラボレーション===
[[ファイル:eclapton_cardiff.jpg|thumb|190px|right|[[ウェールズ]]・[[カーディフ]]の[[ミレニアム・スタジアム]]における[[津波]]救済コンサートで演奏するクラプトン([[2005年]][[1月22日]])]]
クラプトンは2001年3月にアルバム『[[レプタイル]]』をリリースした。[[アメリカ同時多発テロ事件|9月11日の同時多発テロ]]の1か月後、クラプトンは[[バディ・ガイ]]と共演して[[:w:en:The Concert for New York City|ニューヨークシティ・コンサート]]に出演した<ref>{{cite web|url=https://www.allmovie.com/dvd/the-concert-for-new-york-city-2-discs-23498/chapters|title=The Concert For New York City [2 Discs]|last=Seibert|first=Perry|website=[[All Movie Guide]]|access-date=28 May 2019}}</ref><ref>[https://www.allmusic.com/album/the-concert-for-new-york-city-mw0000213296 "Concert for New York City - Various Artists"] {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20160820211416/http://www.allmusic.com/album/the-concert-for-new-york-city-mw0000213296 |date=20 August 2016 }}. AllMusic. Retrieved 28 May 2019</ref>。2002年6月に[[:w:en:Golden Jubilee of Elizabeth II|エリザベス2世即位50周年記念]]イベントで、クラプトンは[[バッキンガム宮殿]]の敷地内で行われた[[:w:en:Party at the Palace|パレス・コンサート]]で「いとしのレイラ」と「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」を演奏した<ref>{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/entertainment/2024971.stm|title=Palace party draws 15m viewers|publisher=BBC|access-date=22 September 2014|date=4 June 2002}}</ref>。2002年11月29日、[[コンサート・フォー・ジョージ]]がロイヤル・アルバート・ホールで開催された。これは前年に肺がんで死去したジョージ・ハリスンへのオマージュであった<ref name="2002concert">Stephen Thomas Erlewine. [https://www.allmusic.com/album/concert-for-george-r669282 "Concert for George"] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20111218233039/http://www.allmusic.com/album/concert-for-george-r669282 |date=18 December 2011 }}. AllMusic. Retrieved 15 May 2012</ref>。クラプトンはパフォーマーであり、音楽監督も担当した。コンサートにはポール・マッカートニー、リンゴ・スター、[[ジェフ・リン]]、[[トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズ]]、[[ラヴィ・シャンカル]]、[[ゲイリー・ブルッカー]]、ビリー・プレストン、[[ジョー・ブラウン]]、[[ダーニ・ハリスン]]らが出演した<ref name="2002concert"/>。2004年、クラプトンはロバート・ジョンソンのカバーを収録した2枚のアルバム、『[[ミー&Mr.ジョンソン]]』と『[[セッションズ・フォー・ロバート・J]]』をリリースした。アルバムには[[ドイル・ブラムホール2世]]が参加し、彼は2004年のクラプトンのツアーにも参加した。この年[[ローリング・ストーン]]誌はクラプトンを「史上最高のアーティスト100人」のリストで53位にランク付けした<ref>{{cite magazine| title = The Immortals| magazine=Rolling Stone |issue=946 | url =https://www.rollingstone.com/news/coverstory/the_immortals | url-status = dead| archive-url = https://web.archive.org/web/20061017054537/http://www.rollingstone.com/news/coverstory/the_immortals | archive-date = 17 October 2006 }}</ref>。その他のメディア出演には、[[トゥーツ・アンド・ザ・メイタルズ]]のグラミー賞受賞アルバム『[[:w:en:True Love (Toots & the Maytals album)|トゥルー・ラヴ]]』への参加があり、「[[:w:en:Pressure Drop (song)|プレッシャー・ドロップ]]」でギターを演奏している<ref>{{cite web |url=http://www.biography.com/people/frederick-toots-hibbert-10673303#acclaimed-musician |title=Frederick "Toots" Hibbert Biography |publisher=biography.com |access-date=2 July 2016 |archive-url=https://web.archive.org/web/20160809204903/http://www.biography.com/people/frederick-toots-hibbert-10673303#acclaimed-musician |archive-date=9 August 2016 |url-status=live }}</ref>。
 
[[File:Clapton2342.jpg|thumb|upright|left|[[ロッテルダム]]の[[アホイ・アリーナ]]で演奏するクラプトン、2006年6月1日]]
2005年1月22日、クラプトンは[[スマトラ島沖地震 (2004年)|2004年のインド洋地震]]の犠牲者を支援するために[[カーディフ]]の[[ミレニアム・スタジアム]]で開催された[[:w:en:Tsunami Relief Cardiff|津波救援コンサート]]に出演した。2005年5月、クラプトン、ジャック・ブルース、ジンジャー・ベイカーはクリームを再結成し、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで一連のコンサートを行った。コンサートはCDとDVDでリリースされた。その後、クリームはニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでもコンサートを行った。クラプトンの5年ぶりのオリジナルアルバム、『[[バック・ホーム]]』は8月30日に[[リプリーズ・レコード]]からリリースされた。
 
ギタリストのJ.J.ケイルとのコラボレーションである『[[ザ・ロード・トゥ・エスコンディード]]』は2006年11月7日にリリースされ、[[デレク・トラックス]]と[[ビリー・プレストン]]をフィーチャーした(プレストンは2004年のツアーバンドの一員でもあった)。クラプトンはトラックスを2006-2007年のワールドツアーのバンドに参加するように招待した。ブラムホールもバンドに留まり、ギタリストが3人になったことで何十年も演奏しなかった多くのドミノスの曲を再演することが可能となった。トラックスはクラプトンをサポートするオールマン・ブラザース・バンドの3人目のメンバーとなった。2番目はキーボードの[[チャック・リーヴェル]]で、1990年と1991年にロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで[[MTVアンプラグド]]と『[[24ナイツ]]』のパフォーマンスに出演し、クラプトンの1992年のアメリカ・ツアーにも参加している<ref name="Music Legends">{{cite web|publisher=Music Legends|url=http://musiclegends.ca/interviews/chuck-leavell-interview-rolling-stones/|title=Chuck Leavell Interview|access-date=6 May 2013|date=8 April 2010|last=Saulnier|first=Jason|archive-url=https://web.archive.org/web/20131216075205/http://musiclegends.ca/interviews/chuck-leavell-interview-rolling-stones/|archive-date=16 December 2013|url-status=dead}}</ref>。
 
2006年5月20日、クラプトンは[[ハンプシャー]]の[[ハイクレア・カースル]]で[[クイーン (バンド)|クイーン]]のドラマーの[[ロジャー・テイラー]]、元[[ピンク・フロイド]]のベーシストの[[ロジャー・ウォーターズ]]と共演し、イギリスの田舎に関連する問題を推進する[[:w:en:Countryside Alliance|カントリーサイド・アライアンス]]を支援した<ref>Glenn Povey (2007). [https://books.google.com/books?id=qnnl3FnO-B4C&pg=RA4-PT52&lpg=RA4-PT52&dq=countryside+alliance+20+may+2006+-+clapton,+waters#v=onepage&q=countryside%20alliance%2020%20may%202006%20-%20clapton%2C%20waters Echoes: the complete history of Pink Floyd] Mind Head Publishing. Retrieved 29 December 2011</ref>。2006年8月13日には[[オハイオ州]][[コロンバス (オハイオ州)|コロンバス]]で開催された[[ボブ・ディラン]]のコンサートにゲスト出演し、[[ジミー・ヴォーン]]のオープニングアクトで3曲のギターを演奏した<ref>{{cite web|url=http://uweekly.com/cowtown/?p=121 |title=God has a summer home in Columbus |work=[[UWeekly]] |date=15 August 2005 |access-date=30 March 2007 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20070927042854/http://uweekly.com/cowtown/?p=121 |archive-date=27 September 2007 }}</ref>。トラックスとの交流で、クラプトンは[[デレク・トラックス・バンド]]を2007年の[[クロスロード・ギター・フェスティバル]]に招待した。トラックスは自らのバンドで演奏した後、クラプトンのバンドとも共に演奏した。クリストファー・サイモン・サイクスが執筆し2007年に出版されたクラプトンの公式回想録の版権は、2005年の[[フランクフルト・ブックフェア]]で400万米ドルで売却された<ref>{{cite news | url = http://books.guardian.co.uk/comment/story/0,,1597895,00.html | title = Joel Rickett on the latest news from the publishing industry | work = The Guardian | location = London | date = 22 October 2005 | access-date = 17 February 2007 | archive-url = https://web.archive.org/web/20071227170810/http://books.guardian.co.uk/comment/story/0,,1597895,00.html | archive-date = 27 December 2007 | url-status = dead }}</ref>。
 
[[File:CrossroadsGuitarFestival2007.jpg|thumb|right|upright=0.95|クラプトンと俳優の[[ビル・マーレイ]]、2007年7月27日、[[クロスロード・ギター・フェスティバル]]で。]]
2007年、クラプトンは[[第二次世界大戦]]後にイギリスを離れたカナダ人兵士であった父親について詳しく学んだ。クラプトンの祖父母は最終的に親子関係について真実を話したが、彼は父親の名前がエドワード・フライヤーであることしか知らなかった。1998年の曲「マイ・ファーザーズ・アイズ」に見られたように、これはクラプトンにとって不安の源であった。マイケル・ウォロシュックという[[モントリオール]]のジャーナリストがカナダ軍の記録を調査し、フライヤーの家族を追跡、最終的に物語をつなぎ合わせた。彼はクラプトンの父親が1920年3月21日にモントリオールで生まれ1985年5月15日に[[オンタリオ州]][[ニューマーケット (オンタリオ州)|ニューマーケット]]で死去したエドワード・ウォルター・フライヤーであることを知った。フライヤーはミュージシャン(ピアノとサックス)であり、生涯流浪し、数回結婚し、数人の子供がいて、自身がエリック・クラプトンの父親であることを知らなかったようであった<ref>{{cite news | work = [[Ottawa Citizen]] | url = http://www.eric-clapton.co.uk/interviewsandarticles/hisfatherseyes.htm | title = His Father's Eyes | first = Michael | last = Woloschuk | access-date = 17 February 2007 | archive-url = https://web.archive.org/web/20070129210214/http://www.eric-clapton.co.uk/interviewsandarticles/hisfatherseyes.htm | archive-date = 29 January 2007 | url-status = dead }}</ref>。クラプトンは、カナダのオンタリオ州オタワにある[[オタワ・マクドナルド・カルティエ国際空港]]でウォロシュックに出会い、彼に感謝した<ref>{{cite news | work = Canoe Jam | url = http://jam.canoe.ca/Music/Artists/C/Clapton_Eric/1998/09/16/743979.html | title = Clapton Thanks Reporter | first = Michael | last = Woloschuk | access-date = 17 February 2007 | url-status=dead | archive-url = https://archive.today/20120712085125/http://jam.canoe.ca/Music/Artists/C/Clapton_Eric/1998/09/16/743979.html | archive-date = 12 July 2012}}</ref>。
 
2008年2月26日、[[北朝鮮]]当局がクラプトンを共産主義国でのコンサートに招待したと報じられた<ref>{{cite news|url=http://edition.cnn.com/2008/SHOWBIZ/Music/02/26/clapton.northkorea.ap/index.html |title=Eric Clapton 'receives North Korean invite' |publisher=CNN |date=26 February 2008 |access-date=26 February 2008 |archive-url=https://web.archive.org/web/20080303060303/http://edition.cnn.com/2008/SHOWBIZ/Music/02/26/clapton.northkorea.ap/index.html |archive-date=3 March 2008 |url-status=live }}</ref>。クラプトンのマネジメント・スタッフはその招待状を受け取り、それをクラプトンに渡した。クラプトンは原則として同意し、2009年のいつかに開催することを提案したとされる<ref>{{cite news | url = http://news.bbc.co.uk/1/hi/entertainment/7265467.stm | title = Clapton asked to play in North Korea | work = BBC News | date = 26 February 2008 | access-date = 26 February 2008 | archive-url = https://web.archive.org/web/20080302045018/http://news.bbc.co.uk/1/hi/entertainment/7265467.stm | archive-date = 2 March 2008 | url-status = live }}</ref>。スポークスマンのクリステン・フォスターは、「エリック・クラプトンは世界中の国々で演奏するための多くの申し出を受けている」と述べ、「彼が北朝鮮で演奏することについては何の合意もない」と述べた<ref>{{cite news |url=https://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=980DE2DE113FF934A15751C0A96E9C8B63 |title=North Korea Seeks A Clapton Concert |work=The New York Times |date=27 February 2008 |access-date=7 May 2010 |archive-url=https://web.archive.org/web/20120312082500/http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=980DE2DE113FF934A15751C0A96E9C8B63 |archive-date=12 March 2012 |url-status=live }}</ref>。 2008年2月、クラプトンはマディソン・スクエア・ガーデンで長年の友人であるスティーヴ・ウィンウッドと共演し、ウィンウッドのアルバム『[[ナイン・ライヴズ (スティーヴ・ウィンウッドのアルバム)|ナイン・ライヴズ]]』でレコーディングされたシングル曲「ダーティ・シティ」にゲスト出演した。2人は2009年6月に全米で14回のコンサートを行っている。クラプトンの2008年サマーツアーは5月3日に[[フロリダ州]]タンパの[[ミッドフロリダ・クレジット・ユニオン・アンフィシアター|フォード・アンフィシアター]]で始まり、その後カナダ、アイルランド、イングランド、ノルウェー、アイスランド、デンマーク、ポーランド、ドイツ、モナコで行われた。2008年6月28日、彼はシェリル・クロウとジョン・メイヤーのサポートを受けて、ロンドンのハイドパーク(以前のハイドパークコーリング)で開催された[[:w:en:Calling Festival|ハードロック・コーリング]]2008の土曜日の夜のヘッドラインを飾った<ref>{{cite news |url=http://2008.hardrockcalling.co.uk/ |archive-url=https://web.archive.org/web/20100316200910/http://2008.hardrockcalling.co.uk/ |url-status=dead |archive-date=16 March 2010 |title=Hard Rock Calling |work=Live Nation (Music) UK Limited |publisher=Hard Rock Calling |access-date=7 May 2010 }}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.ericclapton-online.com/2008-summer-tour/hard-rock-calling-hyde-park-london-saturday-28-june-2008.html |title=Hard Rock Calling, Hyde Park, London Saturday 28&nbsp;June 2008 |publisher=Eric Clapton Online |access-date=7 May 2010 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20110710195435/http://www.ericclapton-online.com/2008-summer-tour/hard-rock-calling-hyde-park-london-saturday-28-june-2008.html |archive-date=10 July 2011 }}</ref>。2008年9月、クラプトンはロンドンの[[ソーホー (ロンドン)|ソーホー]]にあるフロリディータで開催されたカントリーサイド・アライアンスのプライベートチャリティー募金活動に出演した。この募金活動には、ロンドン市長の[[ボリス・ジョンソン]]などが参加した。
 
[[File:Layla and Other Assorted Love Songs.jpg|thumb|left|[[オールマン・ブラザーズ・バンド]]と共演するクラプトン。ニューヨークの[[ビーコン・シアター]]、2009年3月]]
2009年3月、[[オールマン・ブラザーズ・バンド]]は多くの著名なゲストと共に結成40周年を祝い、[[ビーコン・シアター]]での毎年恒例の公演で故[[デュアン・オールマン]]に捧げる一連のコンサートを行った。エリック・クラプトンはパフォーマーの一人であった。ドラマーの[[ブッチ・トラックス]]は、パフォーマンスに招待されたゲストの数と音楽スタイルを考えると、パフォーマンスは典型的なオールマン・ブラザーズのスタイルではないと述べた。「[[エリザベス・リードの追憶]]」のような曲は、「[[ザ・ウェイト]]」を含む他の曲で中断された。[[ジョニー・ウィンター]]は[[リヴォン・ヘルム]]と共に座って、ヘンドリックスの「[[レッド・ハウス (曲)|レッド・ハウス]]」と「レイラ」を演奏した。2009年5月4日、クラプトンはロイヤル・アルバート・ホールに出演し、[[ジョー・ボナマッサ]]と「[[:w:en:Farther Up the Road|ファーザー・アップ・ザ・ロード]]」を演奏した。
 
クラプトンは2009年10月30日にマディソン・スクエア・ガーデンで開催された[[ロックの殿堂]]25周年記念コンサートに出演する予定であったが、[[胆石]]手術のためキャンセルされた<ref>{{cite web|url=http://entertainment.oneindia.in/music/international/2009/eric-out-rocknroll-hall-gig-281009.html|title=Eric Clapton pulls out of rock and roll gig|date=28 October 2009|publisher=entertainment.oneindia.in|access-date=30 October 2009|archive-url=https://web.archive.org/web/20130515171531/http://entertainment.oneindia.in/music/international/2009/eric-out-rocknroll-hall-gig-281009.html|archive-date=15 May 2013|url-status=live}}</ref>。[[ヴァン・モリソン]](同じくキャンセルした<ref>{{cite web|url=http://www.brooklynvegan.com/archives/2009/10/leonard_cohen_a_2.html|title=Leonard Cohen and Van Morrison at MSG this weekend but Van will not be back for Rock Hall of Fame|publisher=brooklynvegan.com|access-date=30 October 2009|archive-url=https://web.archive.org/web/20091028132710/http://www.brooklynvegan.com/archives/2009/10/leonard_cohen_a_2.html|archive-date=28 October 2009|url-status=dead}}</ref>)はインタビューで、彼とクラプトンは「何曲か」演奏するが、「ゲームの他の段階」で一緒に何か他のことをするだろうと述べた<ref>{{cite web|url=http://www.wabcradio.com/sectional.asp?id=22807|title=Imus in the morning: highlights and interviews|publisher=wabcradio.com|access-date=30 October 2009|url-status=dead|archive-url=https://web.archive.org/web/20090516023944/http://www.wabcradio.com/sectional.asp?id=22807|archive-date=16 May 2009}}</ref>。
 
===『クラプトン』『オールド・ソック』『アイ・スティル・ドゥ』===
クラプトンは2010年2月13日、14日にロンドンの[[O2アリーナ (ロンドン)|O2アリーナ]]で[[ジェフ・ベック]]とコンサートを行った<ref>{{cite news | url=https://www.telegraph.co.uk/culture/music/live-music-reviews/7238056/Eric-Clapton-and-Jeff-Beck-at-the-O2-Arena-review.html | work=The Daily Telegraph | location=London | title=Eric Clapton & Jeff Beck at the O2 Arena, review | first=Neil | last=McCormick | date=14 February 2010 | access-date=2 May 2010 | archive-url=https://web.archive.org/web/20100217050705/http://www.telegraph.co.uk/culture/music/live-music-reviews/7238056/Eric-Clapton-and-Jeff-Beck-at-the-O2-Arena-review.html | archive-date=17 February 2010 | url-status=live }}</ref>。2人の元ヤードバーズのメンバーは、マディソン・スクエア・ガーデン<ref>{{cite news | url=https://www.nytimes.com/2010/02/20/arts/music/20clapton.html | work=The New York Times | title=Yes, Two Guitar Idols Are Better Than One | first=Ben | last=Ratliff | date=20 February 2010 | access-date=2 May 2010 | archive-url=https://web.archive.org/web/20100225041133/http://www.nytimes.com/2010/02/20/arts/music/20clapton.html | archive-date=25 February 2010 | url-status=live }}</ref>、トロントの[[スコシアバンク・アリーナ|エア・カナダ・センター]]、モントリオールの[[ベル・センター]]<ref>{{cite web|url=https://www.nme.com/news/eric-clapton/47471|title=Eric Clapton and Jeff Beck announce London O2 Arena gig|work=NME|location=UK|date=23 November 2009|access-date=21 October 2009|archive-url=https://web.archive.org/web/20090927145303/http://www.nme.com/news/eric-clapton/47471|archive-date=27 September 2009|url-status=live}}</ref>でコンサートを行い、2010年のツアーを延長した。クラプトンは2010年2月25日から3月13日まで全米11都市で一連のコンサートを行った。コンサートでは[[ロジャー・ダルトリー]]がオープニングアクトを務めた。[[スティーヴ・ウィンウッド]]との3度目のヨーロッパツアーは5月18日に始まり、6月13日に終了した。オープニングアクトは[[トム・ノリス]]が務めた。その後、6月26日から7月3日までの短い北米ツアーを開始した。6月26日に[[イリノイ州]][[ブリッジビュー (イリノイ州)|ブリッジビュー]]の[[シートギーク・スタジアム|トヨタパーク]]で開催された3回目のクロスロード・ギター・フェスティバルから始まった。クラプトンは2010年9月27日にイギリス、2010年9月28日にアメリカで新しいスタジオアルバム『[[クラプトン (アルバム)|クラプトン]]』をリリースした。2010年11月17日、クラプトンはロイヤル・アルバート・ホールで開催されたプリンス・トラスト・ロック・ガーラにゲストとして出演し、[[ジュールズ・ホランド]]、[[ミッジ・ユーロ]]、[[マーク・キング (ベーシスト)|マーク・キング]]を含むハウスバンドのバッキングで演奏した<ref>{{cite news|url=https://www.telegraph.co.uk/news/picturegalleries/celebritynews/8142012/In-pictures-The-Princes-Trust-Rock-Gala-2010.html?image=9|title=In pictures: The Prince's Trust Rock Gala 2010|work=The Daily Telegraph|access-date=22 September 2014|location=London|date=18 November 2010|archive-url=https://web.archive.org/web/20150715075902/http://www.telegraph.co.uk/news/picturegalleries/celebritynews/8142012/In-pictures-The-Princes-Trust-Rock-Gala-2010.html?image=9|archive-date=15 July 2015|url-status=live}}</ref>。
 
[[File:Eric Clapton, Keb Mo and Buddy Guy 26Jun2010.jpg|thumb|クラプトン、[[ケブ・モ]]、[[バディ・ガイ]]、[[クロスロード・ギター・フェスティバル]]で、2010年6月26日]]
2011年6月24日、クラプトンは[[カーヴァ・デ・ティッレーニ]]スタジアムで[[ピーノ・ダニエレ]]とコンサートを行った。2011年10月6日から16日まで南アメリカで一連のコンサートを行った後、2011年11月と12月にはスティーヴ・ウィンウッドと共に日本でツアーを行う。2012年2月24日、クラプトン、[[キース・リチャーズ]]、[[ゲイリー・クラーク・ジュニア]]、デレク・トラックス、[[ドイル・ブラムホール2世]]、[[キム・ウィルソン]]、その他のアーティストがニューヨーク市の[[アポロ・シアター]]で開催された、ブルースギタリストの[[ヒューバート・サムリン]]を称える「ハウリン・フォー・ヒューバート・トリビュート・コンサート」で共に演奏した。2012年11月29日、クラプトンはロンドンのO2アリーナで行われた[[ローリング・ストーンズ]]が結成50周年を祝う5回のアリーナコンサートの2夜目に出演した<ref>{{cite web|url=https://www.telegraph.co.uk/culture/music/rolling-stones/9735166/Rolling-Stones-to-perform-with-Lady-Gaga-and-Bruce-Springsteen.html|title=Rolling Stones to perform with Lady Gaga and Bruce Springsteen|work=The Telegraph|date=10 December 2012|access-date=22 April 2016|archive-url=https://web.archive.org/web/20121211085124/http://www.telegraph.co.uk/culture/music/rolling-stones/9735166/Rolling-Stones-to-perform-with-Lady-Gaga-and-Bruce-Springsteen.html|archive-date=11 December 2012|url-status=live}}</ref>。12月12日、クラプトンはマディソン・スクエア・ガーデンで行われた[[:w:en:12-12-12: The Concert for Sandy Relief|サンディ・リリーフ・コンサート]]に出演した。このコンサートは6大陸でテレビ、ラジオ、映画館、インターネットを介して生放送された<ref>{{cite news|url=http://entertainment.time.com/2012/12/13/sprinsteen-jagger-clapton-sandy-concert/|title=12 Unforgettable Photos from the Epic 12-12-12 Sandy Benefit Concert|work=Time|access-date=22 September 2014|date=13 December 2012|archive-url=https://web.archive.org/web/20140814133024/http://entertainment.time.com/2012/12/13/sprinsteen-jagger-clapton-sandy-concert/|archive-date=14 August 2014|url-status=live}}</ref>。2013年1月、[[サーフドッグ・レコード]]は3月12日にクラプトンの新アルバム『[[オールド・ソック]]』をリリースするために、彼との契約に署名したことを発表した。2013年4月8日、クラプトンとハードロック・インターナショナルは、[[アンティグア島]]の[[クロスロード・センター]]に利益をもたらす限定版のエリック・クラプトン・アーティスト・スポットライト商品プログラムを開始した<ref>{{cite web |url=http://www.ticodo.com/blog/eric-claptons-t-shirt-hit-a-crossroads/ |archive-url=https://web.archive.org/web/20131214073311/http://www.ticodo.com/blog/eric-claptons-t-shirt-hit-a-crossroads/ |url-status=dead |archive-date=14 December 2013 |title=Eric Clapton's T-Shirt Hit A Crossroad(s) |publisher=Ticodo |date=17 June 2013 |access-date=27 June 2013 }}</ref>。クラプトンは、プロデビューから50周年を祝うために、2013年3月14日から6月19日までアメリカとヨーロッパでツアーを行った<ref>{{cite web |url=http://coolalbumreview.com/?p=28839 |title=Eric Clapton Kicks Off 50th Anniversary Tour With Killer Setlist |publisher=Coolalbumreview.com |date=15 March 2013 |access-date=9 June 2013 |archive-url=https://web.archive.org/web/20130525030223/http://coolalbumreview.com/?p=28839 |archive-date=25 May 2013 |url-status=dead }}</ref>。2013年2月28日、クラプトンは旅行の煩わしさから2015年にツアーを中止する意向を発表した<ref>{{cite news|title=Eric Clapton: 'When I'm 70, I'll Stop Touring'|url=https://www.rollingstone.com/music/news/eric-clapton-when-im-70-ill-stop-touring-20130228|access-date=11 June 2014|work=Rolling Stone|archive-url=https://web.archive.org/web/20140715031757/http://www.rollingstone.com/music/news/eric-clapton-when-im-70-ill-stop-touring-20130228|archive-date=15 July 2014|url-status=live}}</ref><ref>{{cite web|title=More Signs Point Towards Eric Clapton Touring Retirement|url=http://www.jambase.com/articles/120902/more-signs-point-towards-eric-clapton-touring-retirement|publisher=JamBase|access-date=11 June 2014|archive-url=https://web.archive.org/web/20140611050117/http://www.jambase.com/Articles/120902/More-Signs-Point-Towards-Eric-Clapton-Touring-Retirement|archive-date=11 June 2014|url-status=live}}</ref>。
 
[[File:ECPrague2013.jpg|thumb|left|プラハで、2013年6月。50回目のワールドツアー。]]
2013年10月15日、1992年にリリースされたアルバム『[[アンプラグド~アコースティック・クラプトン]]』とコンサートのDVDが、『''Unplugged: Expanded & Remastered.''』というタイトルで再リリースされた。アルバムにはリマスターされたオリジナルの14トラックと、「マイ・ファーザーズ・アイズ」の2つのバージョンを含む6つの追加トラックが収録された。DVDにはコンサートの復元バージョンと、リハーサルからの60分以上の未公開映像が収録された。2013年11月13日と14日、クラプトンは[[スイス]]の[[バーゼル]]で毎年開催される屋内音楽祭「[[:w:en:Baloise Session|Baloise Session]]」の最後の2夜のヘッドライナーを務めた。2013年11月20日、[[ワーナー・ブラザース]]はクロスロード・ギター・フェスティバル2013をCD / DVD / Blu-rayでリリースした。2014年4月30日、クラプトンは2013年7月26日に死去したJ.J.ケイルへのオマージュとして『[[ザ・ブリーズ~J.J.ケイルに捧ぐ]]』のリリースを発表した。このトリビュートアルバムは1972年のシングル「[[:w:en:Call Me the Breeze|コール・ミー・ザ・ブリーズ]]」にちなんで名付けられ、クラプトン、[[マーク・ノップラー]]、[[ジョン・メイヤー]]、[[ウィリー・ネルソン]]、[[トム・ペティ]]らが演奏した16曲のケイルのカバーで構成されている<ref>{{cite web|title=Eric Clapton and Friends Honor JJ Cale With New Tribute LP|url=https://www.rollingstone.com/music/news/eric-clapton-and-friends-honor-jj-cale-with-new-tribute-lp-20140430|work=Rolling Stone|date=30 April 2014|access-date=11 June 2014|archive-url=https://web.archive.org/web/20140622012700/http://www.rollingstone.com/music/news/eric-clapton-and-friends-honor-jj-cale-with-new-tribute-lp-20140430|archive-date=22 June 2014|url-status=live}}</ref>。2014年6月21日、クラプトンは[[The SSE Hydro|グラスゴー・ハイドロ]]でのコンサート中に突然ステージを降りた。彼は最後の1曲を演奏するために戻ったが、何千人ものファンがクラプトンや会場からの説明が無かったことに腹を立て、コンサートは40分早く終了したが、終了後もブーイングを続けた。翌日、クラプトンと会場の両方が、ステージ上のクラプトンのサウンドコンディションを「耐えられない」ものにしたことに対する「技術的な困難」を非難し、謝罪した<ref>{{cite news|url=http://www.heraldscotland.com/arts-ents/music/review-eric-clapton-strops-off-stage-at-the-sse-hydro.1403387960|title=Fans' anger as Eric Clapton strops off stage at SSE Hydro|date=21 June 2014|work=The Herald|location=Glasgow|access-date=22 June 2014|archive-url=https://web.archive.org/web/20140625025210/http://www.heraldscotland.com/arts-ents/music/review-eric-clapton-strops-off-stage-at-the-sse-hydro.1403387960|archive-date=25 June 2014|url-status=live}}</ref><ref>{{cite news|url=https://www.bbc.co.uk/news/uk-scotland-glasgow-west-27962617|title=BBC News - Eric Clapton cuts short concert after 'technical issue'|date=22 June 2014|publisher=[[BBC]]|access-date=22 June 2014|archive-url=https://web.archive.org/web/20140624063428/http://www.bbc.co.uk/news/uk-scotland-glasgow-west-27962617|archive-date=24 June 2014|url-status=live}}</ref><ref>{{cite news|url=http://www.heraldscotland.com/news/home-news/clapton-apologises-for-concert-exit.24556350|title=Clapton apologises for concert exit|date=23 June 2014|work=The Herald|location=Glasgow|access-date=23 June 2014|archive-url=https://web.archive.org/web/20140625032330/http://www.heraldscotland.com/news/home-news/clapton-apologises-for-concert-exit.24556350|archive-date=25 June 2014|url-status=live}}</ref>。1週間後、彼は、ギターを永久に置くことを余儀なくされる可能性のある「奇妙な病気」に加えて、ロードに出ることが「耐えられない」という彼の決定に起因する引退の計画を確認した<ref>{{cite web|title=Eric Clapton Says Touring Has Become 'Unbearable,' Confirms Retirement Plans|url=http://ultimateclassicrock.com/eric-clapton-retire/|publisher=Ultimate Classic Rock|access-date=27 June 2014|archive-url=https://web.archive.org/web/20140630011725/http://ultimateclassicrock.com/eric-clapton-retire/|archive-date=30 June 2014|url-status=live}}</ref>。クラプトンは、2016年の[[クラシック・ロック (雑誌)|クラシック・ロック]]誌のインタビューで、2013年に[[ニューロパチー|末梢神経障害]]と診断されたことを明らかにした。末梢神経障害は通常、腕や脚に刺す、火傷する、またはうずくような痛みを引き起こす<ref>[https://www.washingtonpost.com/news/morning-mix/wp/2016/06/13/eric-clapton-reveals-nerve-damage-that-makes-playing-guitar-hard-work/ "Eric Clapton reveals nerve damage that makes playing guitar ‘hard work’"] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20160621163134/https://www.washingtonpost.com/news/morning-mix/wp/2016/06/13/eric-clapton-reveals-nerve-damage-that-makes-playing-guitar-hard-work/ |date=21 June 2016 }}. Washington Post.</ref>。
 
[[File:Eric Clapton - Royal Albert Hall - Wednesday 24th May 2017 EricClaptonRAH240517-23 (34823535392).jpg|thumb|ロイヤル・アルバート・ホールでのクラプトン。2017年の50周年記念ツアー。]]
クラプトンは2015年5月1日と3日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで2度のショーを行い、その後5月14日から23日までロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで7回のショーを行って3月30日の70歳の誕生日を祝った<ref name="Royal Albert Hall"/>。ショーはまた、クラプトンがロイヤル・アルバート・ホールに初出演してから50年を迎えたものであった。彼が初めてロイヤル・アルバート・ホールで演奏したのは、1964年12月7日に[[BBC]]の「トップ・ビート・ショー」にヤードバーズの一員として出演したときであった<ref name="Royal Albert Hall"/>。映画「[[スローハンド・アット・70 - エリック・クラプトン・ライヴ・アット・ザ・ロイヤル・アルバート・ホール]]」は、2015年11月13日に[[イーグル・ロック・エンターテインメント]]からDVD、CD、Blu-ray、LPでリリースされた<ref>{{cite web|title=Eric Clapton "Slowhand at 70 - Live at the Royal Albert Hall"|url=http://www.eagle-rock.com/2015/09/eric-clapton-slowhand-at-70-live-at-the-royal-albert-hall/|access-date=17 November 2015|ref=Eagle Rock|archive-url=https://web.archive.org/web/20151118171608/http://www.eagle-rock.com/2015/09/eric-clapton-slowhand-at-70-live-at-the-royal-albert-hall/|archive-date=18 November 2015|url-status=dead}}</ref>。ニューヨークでの2回のコンサートは、1968年11月2日にクラプトンがクリームと共に「新しい」マディソン・スクエア・ガーデンに出演して以来46周年を迎えたものであった。クラプトンはマディソン・スクエア・ガーデンで合計45回のライブを行っている。これはアメリカ合衆国におけるどの会場よりも多い回数である<ref name="MSG">{{cite magazine|title=Eric Clapton to Celebrate 70th Birthday With Two Shows at Madison Square Garden|url=https://www.billboard.com/articles/columns/rock/6501911/eric-clapton-70-birthday-madison-square-garden-shows|magazine=Billboard|date=23 April 2016|access-date=23 April 2016|archive-url=https://web.archive.org/web/20160513101700/http://www.billboard.com/articles/columns/rock/6501911/eric-clapton-70-birthday-madison-square-garden-shows|archive-date=13 May 2016|url-status=live}}</ref>。2016年5月20日、クラプトンは23枚目のスタジオアルバム『[[アイ・スティル・ドゥ]]』をリリースした。2016年9月30日にはライブアルバム『[[ライヴ・イン・サン・ディエゴ with スペシャル・ゲスト J.J.ケイル]]』がリリースされた<ref>{{cite web|first=George|last=Varga|url=http://www.sandiegouniontribune.com/news/2016/aug/05/eric-clapton-jj-cale-live-album|title=Eric Clapton & JJ Cale's 'Live in San Diego' album announced|work=[[U-T San Diego]]|date=5 August 2016|access-date=5 August 2016|url-status=dead|archive-url=https://web.archive.org/web/20160806170101/http://www.sandiegouniontribune.com/news/2016/aug/05/eric-clapton-jj-cale-live-album/|archive-date=6 August 2016}}</ref>。2018年8月、クラプトンはクリスマスソングをブルースの解釈で構成した24枚目のスタジオアルバム『[[ハッピー・クリスマス (エリック・クラプトンのアルバム)|ハッピー・クリスマス]]』をレコーディングし、10月12日にリリースした<ref>{{cite web|title=Eric Clapton Readies First Christmas Album 'Happy Xmas'|url=https://www.rollingstone.com/music/music-news/eric-clapton-readies-first-christmas-album-happy-xmas-713027/|work=Rolling Stone|date=18 August 2018|access-date=18 August 2018|archive-url=https://web.archive.org/web/20180818110429/https://www.rollingstone.com/music/music-news/eric-clapton-readies-first-christmas-album-happy-xmas-713027/|archive-date=18 August 2018|url-status=live}}</ref>。
 
エリック・クラプトンは、[[:w:en:2008 Universal Studios fire|2008年のユニバーサル・スタジオの火災]]で資料を焼失した何百人ものアーティストのうちの1人である<ref name="Rosen2">{{cite web |last1=Rosen |first1=Jody |title=Here Are Hundreds More Artists Whose Tapes Were Destroyed in the UMG Fire |url=https://www.nytimes.com/2019/06/25/magazine/universal-music-fire-bands-list-umg.html |website=The New York Times |access-date=28 June 2019 |date=25 June 2019 |archive-url=https://web.archive.org/web/20191123010002/https://www.nytimes.com/2019/06/25/magazine/universal-music-fire-bands-list-umg.html |archive-date=23 November 2019 |url-status=live }}</ref>。
 
==影響==
[[File:Eric Clapton & B.B. King (4776991214).jpg|thumb|right|クラプトンとB.B.キング、2010年]]
クラプトンは、ギター演奏の影響として、[[マディ・ウォーターズ]]、[[フレディ・キング]]、[[B.B.キング]]、[[アルバート・キング]]、[[バディ・ガイ]]、[[ヒューバート・サムリン]]を挙げている。彼の2007年の自伝では、クラプトンはマディ・ウォーターズを「僕が実際に持ったことのない父親の姿」と呼んでいる。 1983年に死去するまで、ウォーターズはクラプトンの人生の一部であった。「残念ながら、マディと知り合ったとき、僕は飲酒に支配されていた。<ref>{{cite news |title=Eric Clapton Looks Back at His Blues Roots |url=https://www.npr.org/templates/story/story.php?storyId=15333469 |access-date=23 May 2020 |publisher=NPR}}</ref>」2000年、クラプトンはB.B.キングとアルバム『[[ライディング・ウィズ・ザ・キング]]』でコラボレーションした。タイトルトラックのミュージックビデオでは、クラプトンが[[お抱え運転手]]となり、キングが後部座席に座っている様子が映し出されている<ref>{{cite book |last1=Dean |first1=Maury |title=Rock N Roll Gold Rush: A Singles Un-Cyclopedia |date=2003 |publisher=Algora Publishing |page=239}}</ref>。
 
クラプトンは、ブルースミュージシャンの[[ロバート・ジョンソン]]が彼に唯一の最も重要な影響力を与えたと述べている。2004年、クラプトンは『[[セッションズ・フォー・ロバート・J]]』をリリースした。このアルバムにはエレキギターとアコースティックギターを使用したジョンソンの曲のカバーが含まれている<ref>{{cite web|url=https://www.allmusic.com/album/me-and-mr-johnson-r682466/review|title=Eric Clapton: Me and Mr. Johnson|publisher=AllMusic|access-date=22 September 2014|archive-url=https://web.archive.org/web/20110816035036/http://www.allmusic.com/album/me-and-mr-johnson-r682466/review|archive-date=16 August 2011|url-status=live}}</ref>。990年の『[[コンプリート・レコーディングス (ロバート・ジョンソンのアルバム)|コンプリート・レコーディングス]]』のライナーノートで、クラプトンは次のように書いている。
 
{{quote|僕にとってロバート・ジョンソンは、これまでに生きた中で最も重要なブルースミュージシャンだ。(彼は絶対に彼自身のビジョンに忠実であり、僕が過去30年間音楽に深く関わってきた限り、)ロバート・ジョンソンほど魂のこもったものを見つけたことはない。彼の音楽は、人間の声に見られる最も強力な叫びであり続けている。(本当に...それは僕がいつも感じていた何かを反映しているように見えた。)(オリジナルは括弧外の部分)<ref>{{Cite AV media notes| title = [[The Complete Recordings (Robert Johnson album)|The Complete Recordings]]| others = [[Robert Johnson]]| section = Discovering Robert Johnson| first = Eric| last = Clapton| type = Boxed set booklet| year = 1990| location = New York City| publisher = [[Columbia Records]]| id = C2K 46222| oclc = 24547399}}</ref>}}
 
クラプトンはまた、影響を与えたミュージシャンとして[[バディ・ホリー]]を挙げた。『[[ザ・チャーピング・クリケッツ]]』はクラプトンが購入した最初のアルバムであった。彼は後に「[[:w:en:Tonight at the London Palladium|サンディ・ナイト・アット・ロンドン・パラディウム]]」でホリーを見た<ref name="Holly"/>。クラプトンは自伝の中で、ホリーとフェンダーを初めて見たとき、「僕は死んで天国に行ったと思っていた...まるで宇宙から楽器を見ているようなもので、自分に言い聞かせた。『それが未来 - それが僕が望んでいることだ。』<ref name="Holly">Clapton, Eric (2010). ''Eric Clapton: The Autobiography''. p. 19. Random House.</ref>」2017年のドキュメンタリー「''Eric Clapton: Life in 12 Bars''」でクラプトンは[[ビスミラ・カーン]]を影響を与えたミュージシャンとして挙げ、「ギターを彼のリード楽器のように鳴らしたかった」と付け加えた<ref name="RollingStone 2017"/>。同じドキュメンタリーで、彼はハーモニカ奏者の[[リトル・ウォルター]]も影響を与えたミュージシャンとして挙げた。「彼がハーモニカを演奏してアンプで作った音。それは厚くて太く、とてもメロディックだった。<ref name="RollingStone 2017">{{cite news |title=10 Things We Learned From 'Eric Clapton: Life in 12 Bars' Doc |url=https://www.rollingstone.com/music/music-news/10-things-we-learned-from-eric-clapton-life-in-12-bars-doc-127351/ |access-date=14 April 2019 |work=Rolling Stone |archive-url=https://web.archive.org/web/20190414212223/https://www.rollingstone.com/music/music-news/10-things-we-learned-from-eric-clapton-life-in-12-bars-doc-127351/ |archive-date=14 April 2019 |url-status=live }}</ref>」
 
==レガシー==
[[File:The Yardbirds (1998) - Rock and Roll Hall of Fame handprints (2014 photograph).jpg|thumb|right|ヤードバーズのメンバーとクラプトンの手形。(右端)[[ロックの殿堂]]]]
クラプトンは、これまでで最も重要で影響力のあるギタリストの1人と呼ばれている<ref name=AST/><ref name=Meisel>[[Perry Meisel|Meisel, Perry]] (2010) [https://books.google.com/books?id=igLwTjrIpMEC&pg=PA143&dq=The+myth+of+popular+culture+from+Dante+to+Dylan+found+an+imaginative+home&ct=result&resnum=1#v=onepage The myth of popular culture from Dante to Dylan] p.143. Retrieved 30 December 2010</ref><ref>{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/entertainment/3356959.stm|title=Eric Clapton: Blues guitar legend|publisher=BBC|access-date=22 September 2014|date=31 December 2003|archive-url=https://web.archive.org/web/20170809002346/http://news.bbc.co.uk/1/hi/entertainment/3356959.stm|archive-date=9 August 2017|url-status=live}}</ref><ref>{{cite book|url=https://books.google.com/books?id=wPmuwEWoqyMC&q=Eric+Clapton+important+guitarist&pg=PA58 |title=Real Blues Guitar |first=Kenn|last=Chipkin|page=58 |publisher=Alfred Music Publishing, 1998 |access-date=15 January 2011|isbn=978-0-89898-579-5|date=March 1998 }}</ref>。彼は3度[[ロックの殿堂]]入りした唯一のアーティストである。1回はソロアーティストとして、そしてもう2回はヤードバーズのメンバー、クリームのメンバーとしてである<ref name="Rock Hall">{{cite web|url=http://rockhall.com/inductees/eric-clapton/|title=Eric Clapton Biography - The Rock and Roll Hall of Fame and Museum|publisher=Rockhall.com|access-date=22 September 2014|archive-url=https://web.archive.org/web/20141012231539/http://www.rockhall.com/inductees/eric-clapton/|archive-date=12 October 2014|url-status=live}}</ref>。彼は[[ローリング・ストーン]]誌の「史上最高のギタリスト100人」のリストで2位にランクされ<ref name="RS">{{cite web|url=https://www.rollingstone.com/music/lists/100-greatest-guitarists-20111123/eric-clapton-20111122|title=100 Greatest Guitarists of All Time - 2. Eric Clapton|work=Rolling Stone|access-date=30 November 2011|archive-url=https://web.archive.org/web/20121021001507/http://www.rollingstone.com/music/lists/100-greatest-guitarists-20111123/eric-clapton-20111122|archive-date=21 October 2012|url-status=live}}</ref>、[[ギブソン (楽器メーカー)|ギブソン]]の史上最高のギタリストトップ50で4位にランクされた<ref name="Gibson">{{cite web|url=http://www.gibson.com/en-us/lifestyle/Features/Top-50-Guitarists-528/|title=Top 50 Guitarists of All Time - 10 to 1|publisher=Gibson Guitar Company|access-date=22 July 2011|url-status=dead|archive-url=https://web.archive.org/web/20110708022758/http://www.gibson.com/en%2Dus/Lifestyle/Features/Top%2D50%2DGuitarists%2D528/|archive-date=8 July 2011}}</ref>。
 
2011年、[[ガーディアン]]紙はカルト・オブ・ギターヒーローを創設し、クラプトンをロックミュージックの歴史における50の主要なイベントのリストで7位にランク付けした。
 
{{quote|リードギタリストのカルトほどロック神話の中心となるものはない。そして、そのカルトを作成するためにエリック・クラプトンほど多くのことをした人物は他にいなかった。彼は1965年4月にギタリストのクリアリングハウスであるジョン・メイオール&ザ・ブルース・ブレイカーズに加わる前にすでにヤードバーズのメンバーだった。メイオールとの彼の2つのスティントは、有名な落書き「[[:w:en:Honorific nicknames in popular music|"Clapton is God"]]」が現れるくらい、ロックファンの間で彼の人気が加熱し、その評判が高まった。<ref>{{cite news|last1=Hann|first1=Michael|title=Eric Clapton creates the cult of the guitar hero|url=https://www.theguardian.com/music/2011/jun/12/eric-clapton|work=The Guardian|date=12 June 2011|access-date=16 December 2016|archive-url=https://web.archive.org/web/20170311172627/https://www.theguardian.com/music/2011/jun/12/eric-clapton|archive-date=11 March 2017|url-status=live}}</ref>}}
 
ローリング・ストーン誌のエリアス・レイトは、クラプトンが「録音技術とギター演奏技術に影響を与えた」と記している<ref name="RollingStone 2017"/>。ジョン・メイオールのグループとのレコーディングセッション中に、クラプトンは技術者に不満を感じた。「それはちょうどマイクを持ってあなたのアンプに近づき、アンプの前面から2インチ離れたところにそれを突き刺した。僕たちがクラブで得ている雰囲気を手に入れたいのなら、あなたはそれが次のように聞こえる必要があるように思えた。あなたは3インチではなく10フィート離れた聴衆の中にいた。」その後、クラプトンはマイクを動かし、ピンク・フロイドの[[ロジャー・ウォーターズ]]は次のように述べている。「それがすべてを変えた。エリックの前は、イギリスでのギター演奏は[[シャドウズ]]の[[ハンク・マーヴィン]]で、非常にシンプルで、あまりテクニックがなかった。突然、まったく違うものが聞こえた。レコードは以前に聞いたものとは違って聞こえた。」<ref name="RollingStone 2017"/>
 
2012年、アーティストの[[ピーター・ブレイク (芸術家)|ピーター・ブレイク]]卿が80歳になり、その生涯における業績が祝福された。彼の最も有名なアートワークは、ビートルズの『[[サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド]]』のアルバムカバーであるが、クラプトンはそこに選ばれたイギリスの文化的アイコンの1人であった<ref>{{cite news|title=New faces on Sgt Pepper album cover for artist Peter Blake's 80th birthday|url=https://www.theguardian.com/artanddesign/2012/apr/02/peter-blake-sgt-pepper-cover-revisited|work=The Guardian|date=5 October 2016|access-date=5 November 2016|archive-url=https://web.archive.org/web/20161105095109/https://www.theguardian.com/artanddesign/2012/apr/02/peter-blake-sgt-pepper-cover-revisited|archive-date=5 November 2016|url-status=live}}</ref>。
 
[[ロバート・クリストガウ]]は、クラプトンのレガシーに対する批判的意見の中で、次のように書いている。:
<blockquote>僧侶のようなオーラがその贅沢な食欲を決して減らさなかった無差別なサイドマン、クラプトンは報酬を得ることを好む。そして彼は彼の口径のアーティストにとって著しく区別されないディスコグラフィを蓄積した。彼の自己防衛的な自虐では、彼はしばしばこれを彼自身の怠惰または触媒の必要性に帰するが、それはギターヒーローの病気でもある。:手と耳の調整がカーブから外れている他の多くの人のように、彼はカジュアルな曲芸師であり、陳腐な作詞家、そして彼のバンドのコンセプトは慢性的にヒット・オア・ミスである。<ref>{{cite web|last=Christgau|first=Robert|author-link=Robert Christgau|date=15 April 2020|url=https://robertchristgau.substack.com/p/xgau-sez-a49|title=Xgau Sez|website=And It Don't Stop|publisher=[[Substack]]|access-date=17 April 2020}}</ref></blockquote>
 
==愛用・使用ギター==
[[File:Eric Clapton 1978.jpg|thumb|upright|"[[ブラッキー (ギター)|ブラッキー]]"を弾くクラプトン。1978年ツアーのオランダで。クラプトンはブラッキーを使用して「コカイン」「アイ・ショット・ザ・シェリフ」「ワンダフル・トゥナイト」「ファーザー・オン・アップ・ザ・ロード」「レイ・ダウン・サリー」を録音した。]]
[[ハンク・マーヴィン]]、[[ビートルズ]]、[[ジミ・ヘンドリックス]]のように、クラプトンはエレキギターの特定のモデルを普及させる上で決定的かつ広範な影響を及ぼした<ref>{{cite web |url=http://www.legendarytones.com/claptonearly1.html |title=Clapton - The early years |publisher=Legendarytones.com |date=31 July 1966 |access-date=22 August 2010 |archive-url=https://web.archive.org/web/20091213035059/http://www.legendarytones.com/claptonearly1.html |archive-date=13 December 2009 |url-status=dead }}</ref>。ヤードバーズと共に、クラプトンはフェンダー・テレキャスター、[[フェンダー・ジャズマスター]]、ダブルカッタウェイの[[グレッチ 6120]]、1964年製のチェリーレッド・ギブソン ES-335を演奏した。彼はロンドンのギターストアで中古のサンバーストの[[ギブソン・レスポール]]を購入した1965年半ばからかなりの期間、ギブソンのみを愛用していた。クラプトンはネックのスリムな輪郭についてコメントしており、これは1960年のモデルであることを示している<ref>{{cite web|url=http://www.xs4all.nl/~slowhand/ecfaq/Le%20Paul.htm |title=Clapton's Bluesbreakers Guitar Was A 1960 Gibson Les Paul Standard |publisher=Xs4all.nl |access-date=22 August 2010 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20090716053139/http://www.xs4all.nl/~slowhand/ecfaq/Le%20Paul.htm |archive-date=16 July 2009 }}</ref>。
 
クリームでの活動初期に、彼の最初のレスポール・スタンダードが盗まれた。彼は1967年にこの時期に最も有名なギターである「[[ザ・フール (ギター)|ザ・フール]]」と呼ばれた[[ギブソン・SG]]<ref name=GIBS>Bob Gulla (2008) ''Guitar Gods: The 25 Players Who Made Rock History'' p.45. Retrieved 30 December 2010</ref>を購入するまで、クリームではレスポールを演奏し続けた([[アンディ・サマーズ]]から購入したギターは盗まれたものとほぼ同じであった。)<ref>{{cite web |url=http://www.guitarplayer.com/article/andy-summers/apr-07/27240 |title=Andy Summers |publisher=Guitarplayer.com |access-date=23 October 2011 |archive-url=https://web.archive.org/web/20090508121213/http://guitarplayer.com/article/andy-summers/apr-07/27240 |archive-date=8 May 2009 |url-status=live }}</ref>。クラプトンはレスポールとSGの両方を使用して、彼が言う「ウーマン・トーン」を作り出した<ref name="Oxman">{{cite magazine
| last = Oxman
| first = J. Craig
| date = December 2011
| title = Clapton's Fool: History's Greatest Guitar?
| magazine = [[Vintage Guitar (magazine)|Vintage Guitar]]
| publisher = Alan Greenwood
| access-date = 8 May 2015
| url = http://www.vintageguitar.com/12684/claptons-fool/
| archive-url = https://web.archive.org/web/20150419065246/http://www.vintageguitar.com/12684/claptons-fool/
| archive-date = 19 April 2015
| url-status = dead
}}</ref>。
彼は1967年のインタビューで、「僕は今、よりスムーズに演奏している。僕は自分の「ウーマン・トーン」と呼ぶ音色を開発している。「アイ・フィール・フリー」のソロのような甘い音だ。<ref name="Oxman"/>」と語っている。作家のマイケル・ドレニは、「厚くて鋭い、オーバードライブでありながら滑らかで、歪んでいてクリーミーである」と説明している<ref name="Dregni">{{cite news|title=The Dallas Rangemaster|last=Dregni|first=Michael|date=September 2014|work=[[Vintage Guitar (magazine)|Vintage Guitar]]|pages=46-49}}</ref>。そのトーンはギターのトーンコントロール設定と、[[マーシャル (アンプ)|マーシャル]]JTM45アンプの組み合わせによって実現される<ref>{{cite web|title=How to Get Clapton's Classic 'Woman Tone'|first=Ted|last=Drozdowski|date=9 January 2009|work=Lifestyle|publisher=Gibson.com|access-date=6 August 2010|url=http://www.gibson.com/en-us/Lifestyle/ProductSpotlight/Tone-Tips/how-to-get-claptons-classic/|url-status=dead|archive-url=https://web.archive.org/web/20101202054456/http://www.gibson.com/en-us/Lifestyle/ProductSpotlight/Tone-Tips/how-to-get-claptons-classic/|archive-date=2 December 2010}}</ref>。[[:w:en:Vintage Guitar (magazine)|ヴィンテージ・ギター]]誌は、「『サンシャイン・オブ・ユア・ラブ』のオープニング・リフとソロは、間違いなく本格的なウーマン・トーンの最高の描写である」と特定している<ref name="Oxman"/>。クラプトンの「ザ・フール」は、オランダのビジュアルアート集団、[[ザ・フール (デザイン集団)|ザ・フール]]によって独特なサイケデリックペイントがなされ、その名は彼らにちなんだ物であった。(クリームがアメリカデビューする直前の1967年、クラプトンのSG、ブルースの[[フェンダー・ベースVI|フェンダーVI]]、ベイカーのドラムヘッドはすべてサイケデリックなデザインが施されていた。)
 
[[File:Eric Clapton 1.jpg|thumb|left|[[:w:en:Eric Clapton Stratocaster|エリック・クラプトン・ストラトキャスター]]を弾くクラプトン。ハード・ロック・コーリング、ロンドン、2008年。]]
1968年にクラプトンは[[ギブソン・ファイヤーバード]]を購入し、1964年製のチェリーレッド・ギブソン ES-335を再び使用し始めた<ref name=GIBS/>。その1964年のES-335は名高い経歴を持っていた。クラプトンは、1968年11月のクリームの最後のライヴとブラインド・フェイスの活動で使用し、1970年代の作品では控えめに演奏し、『[[ジャーニーマン (アルバム)|ジャーニーマン]]』の「ハード・タイムズ」、1996年のハイドパーク・コンサート、『[[フロム・ザ・クレイドル]]』のセッションおよび1994-95年ツアーで使用した。ES-335は2004年のオークションで847,500米ドルで売却された<ref name="cdqimo">{{cite web |url=http://www.stratcollector.com/newsdesk/archives/000180.html |title=Eric Clapton Guitar Auction, 24&nbsp;June&nbsp;2004: More Information and Images |publisher=Stratcollector.com |date=18 March 2004 |access-date=22 August 2010 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20090219104222/http://www.stratcollector.com/newsdesk/archives/000180.html |archive-date=19 February 2009 }}</ref>。ギブソンは250台の「クロスロード・335」レプリカの限定生産を行った。335はクラプトンが購入した2番目のエレキギターであった<ref>{{cite web |last=Ochoa |first=Hugh |url=http://www.stratcollector.com/newsdesk/archives/000257.html |title=2004 Eric Clapton Crossroads Guitar Auction: the Auction, the Burst Brothers, and Lee Dickson |publisher=Stratcollector.com |date=27 June 2004 |access-date=22 August 2010 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20090215035939/http://www.stratcollector.com/newsdesk/archives/000257.html |archive-date=15 February 2009 }}</ref>。
 
1968年7月、クラプトンはジョージ・ハリスンに1957年製の「ゴールドトップ」ギブソン・レスポールを贈った。このギブソン・レスポールは、赤い色で再仕上げされ[[ルーシー (ギター)|ルーシー]]と名付けられた。翌年の9月、クラプトンはビートルズの「[[ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス]]」のレコーディングでそのギターを弾いた。ルーシーはその後盗難に遭うが、後で追跡されてハリスンの手に戻った。ハリスンはルーシーを1973年に行われたクラプトンのカムバックコンサートのために彼に貸し出した。クラプトンの「ザ・フール」はハリスンの友人である[[ジャッキー・ロマックス]]の手に渡り、その後1972年に[[トッド・ラングレン]]に500ドルで売却された。ラングレンはそのギターをレストアして「サニー」と名付けたが、その後「サンシャイン・オブ・ユア・ラブ」と名付けた。彼は2000年までそれを保持したが、その後オークションで15万ドルで売却した<ref name =GIBS/>。1969年にハイド・パークで開催されたブラインド・フェイスのコンサートで、クラプトンは「[[ブラウニー (ギター)|ブラウニー]]」のネックを装着したカスタム・[[フェンダー・テレキャスター|テレキャスター]]を演奏した。
 
[[File:Hard Rock Cafe London Clapton's guitar Fender.JPG|thumb|right|1979年にロンドンの[[ハードロックカフェ]]に寄贈された最初の記念品であるクラプトンのリードIIフェンダー]]
1969年後半、クラプトンは[[フェンダー・ストラトキャスター]]に切り替えた。「ストラトを始めたとき、僕は多くの影響を受けた。最初は[[バディ・ホリー]]と[[バディ・ガイ]]だった。[[ハンク・マーヴィン]]はここイギリスで最初に有名な人物だったが、それは僕の種類ではなかった。[[スティーヴ・ウィンウッド]]は非常に信頼性が高く、彼が演奏を始めたとき、僕は彼がそれを行うことができれば、僕も行うことができると思った。<ref>{{cite book|first=Tom|last=Wheeler|title=The Stratocaster Chronicles: Celebrating 50 Years of the Fender Strat|url=https://books.google.com/books?id=za1MQ9gITagC&pg=PA8|year=2004|publisher=Hal Leonard Corporation|isbn=978-0-634-05678-9|page=8}}</ref>」。『[[エリック・クラプトン・ソロ]]』のレコーディングで最初に使用されたのは「ブラウニー」で、それは1973年にクラプトンのギターの中で最も有名な「[[ブラッキー (ギター)|ブラッキー]]」のバックアップとなった。1970年11月、クラプトンはドミノスのツアー中に、[[テネシー州]][[ナッシュビル]]のギターショップから6台のストラトキャスターを購入した。彼はジョージ・ハリスン、スティーヴ・ウィンウッド、ピート・タウンゼントにそれぞれ1台ずつ与えた。
 
クラプトンは残りの3台の最良のコンポーネントを組み合わせて「ブラッキー」を作成した。これは1985年に引退するまで彼のお気に入りのステージギターであった。「ブラッキー」が最初に使用されたのは1973年1月13日のレインボー・コンサートであった<ref>{{cite web |last=Landers |first=Rick |url=http://www.stratcollector.com/newsdesk/archives/000259.html |title=Strat Collector News Desk: An Interview with Eric Clapton Guitar Technician Lee Dickson |publisher=Stratcollector.com |date=28 June 2004 |access-date=22 August 2010 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20090327094222/http://www.stratcollector.com/newsdesk/archives/000259.html |archive-date=27 March 2009 }}</ref>。クラプトンは1956/57 ストラトを「モングレル」(雑種)と呼んだ<ref>{{cite web|url=http://www.xs4all.nl/~slowhand/ecfaq/guitars.html |title=The Eric Clapton FAQ - Guitars |publisher=Xs4all.nl |date=3 September 2001 |access-date=22 August 2010 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20090823121845/http://www.xs4all.nl/~slowhand/ecfaq/guitars.html |archive-date=23 August 2009 }}</ref>。2004年6月24日、クラプトンはニューヨークの[[クリスティーズ]]・オークションハウスで「ブラッキー」を959,500米ドルで売却し、麻薬およびアルコール依存症のための[[クロスロード・センター]]の資金を調達した<ref name=":0">{{cite web|url=http://www.christies.com/promos/jun04/claptonGuitars/overview.asp |title=Christie's - Eric Clapton Guitars |date=14 June 2004 |access-date=30 March 2016 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20040614191019/http://www.christies.com/promos/jun04/claptonGuitars/overview.asp |archive-date=14 June 2004 }}</ref>。「ブラウニー」は現在、[[:w:en:Museum of Pop Culture|エクスペリエンス・ミュージック・プロジェクト]]に展示されている<ref>{{cite web|url=https://www.rollingstone.com/artists/ericclapton/articles/story/8928554/rock_memorabilia_market_booms |title=Rock Memorabilia Market Booms: Eric Clapton |work=Rolling Stone |access-date=22 August 2010 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20090715090305/http://www.rollingstone.com/artists/ericclapton/articles/story/8928554/rock_memorabilia_market_booms |archive-date=15 July 2009 }}</ref>。[[フェンダー・カスタム・ショップ]]はそれ以来、275台の「ブラッキー」レプリカを限定生産し、「ダック・ブラザーズ」のフライトケースに至るまで細部まで修正し、フェンダーの「レリック」プロセスを使用して人工的にエイジングし、経年変化をシミュレートしている。1台はリリース時にクラプトンに提供され、2006年5月17日のロイヤル・アルバート・ホールでのコンサートでは3台が使用された<ref>{{cite web |url=http://gc.guitarcenter.com/clapton/detail.cfm |archive-url=https://web.archive.org/web/20071023062709/http://gc.guitarcenter.com/clapton/detail.cfm |url-status=dead |archive-date=23 October 2007 |title=Eric Clapton's Blackie - Guitar Center |publisher=Gc.guitarcenter.com |access-date=22 August 2010 }}</ref>。1979年、クラプトンはサイン入りのフェンダー・リードIIをロンドンの[[ハードロックカフェ]]に寄贈した。[[ピート・タウンゼント]]も自身のギブソン・レスポールを寄贈し、「僕のものは彼と同じくらい良い!ラヴ、ピート」というメモを付けた<ref>{{cite book|url=https://books.google.com/books?id=SDJitKagniUC&pg=PA164|title=Clapton's guitar: watching Wayne Henderson build the perfect instrument|isbn=9780743281980|last1=John|first1=Allen St|date=2005}}</ref>。
 
クラプトンのサイン入りギターはフェンダーと[[マーティン (楽器メーカー)|マーティン]]で製作されている。1988年にフェンダーは[[:w:en:Fender Eric Clapton Stratocaster|エリック・クラプトン・ストラトキャスター]]をリリースした<ref>{{cite book|title=Heritage Music and Entertainment Dallas Signature Auction Catalog #634|date=2006|publisher=Ivy Press Heritage Capital Corporation|page=181}}</ref>。マーティンはいくつかの000-シグネチャーモデルを製作している。最初のモデルは1995年に発表された限定モデルの000-42ECである。シングル「チェンジ・ザ・ワールド」(1996年)とアルバム『ピルグリム』(1998年)では000-28ECが使用されたが、そのギターは後にギタリストの[[ポール・ワシフ]]にプレゼントされた<ref name="Bonhams Auction Clapton Guitar">{{cite web|url=https://www.bonhams.com/auctions/19037/lot/269/|title=Bonhams Auction|publisher=Bonhams.com|access-date=22 September 2014|archive-url=https://web.archive.org/web/20141119042846/https://www.bonhams.com/auctions/19037/lot/269/|archive-date=19 November 2014|url-status=live}}</ref>。彼が『アンプラグド』で使用した1939年製000-42はオークションで791,500米ドルで落札された<ref name = "cdqimo"/>。クラプトンが使用する弦は[[アーニー・ボール]]のスリンキーとスーパースリンキーで、ゲージは.10から.46である<ref>{{cite web
|title=Ernie Ball - Artists
|publisher=Ernie Ball
|url=http://www.ernieball.com/artists.php
|access-date=21 August 2008 |archive-url=https://web.archive.org/web/20080805040814/http://www.ernieball.com/artists.php
|archive-date=5 August 2008 |url-status=live
}}</ref>。クラプトンのギターのメンテナンスはリー・ディックソンが30年以上担当している<ref>{{cite news|title=Lee Dickson: Three Decades with Clapton|pages=44-48|last=Kelly|first=Will|newspaper=[[Vintage Guitar (magazine)|Vintage Guitar]]}}</ref>。
 
== メディアへの出演 ==
[[File:EricClaptonRockWalkHollywood.jpg|thumb|upright=0.9|[[ハリウッド]]に展示されるクラプトンの手形。]]
クラプトンは[[ザ・フー]]の[[ロック・オペラ]]、「トミー」の映画版に出演した。クラプトンは伝道師を演じ、[[サニー・ボーイ・ウィリアムソンII]]の「Eyesight to the Blind」を演奏した。彼はまた、映画「[[ブルース・ブラザース2000]]」にルイジアナ・ゲイター・ボーイズの一員として出演した。バンドのメンバー役に加え、彼は短いスピーチも行っている。クラプトンは[[メルセデス・ベンツ・Gクラス]]の広告に登場した。2007年3月、クラプトンは[[リアルネットワークス]]の[[:w:en:Napster (streaming service)|ラプソディ・オンライン・ミュージックサービス]]の広告に登場した<ref>{{cite web
|url=http://play.rbn.com/?url=realguide/music/ads/clapton.smi
|title=Rhapsody.com Eric Clapton advert
|access-date=23 March 2007 |year=2007
|url-status=dead
|archive-url=https://web.archive.org/web/20130814134552/http://play.rbn.com/?url=realguide%2Fmusic%2Fads%2Fclapton.smi
|archive-date=14 August 2013 }}</ref>。2010年、クラプトンは[[T-モバイル]]のスポークスマンとしてスマートフォンの[[:w:en:HTC Magic|マイタッチ・フェンダー]]の広告に出演した。クラプトンは2011年のBBCドキュメンタリー「''Reggae Got Soul: The Story of [[トゥーツ・アンド・ザ・メイタルズ|Toots and the Maytals]]''」にも出演した。同番組は「ジャマイカから出てきた最も影響力のあるアーティストの語られなかったストーリー」と評された<ref>[http://www.bbc.co.uk/programmes/b00ymljb "Toots and the Maytals: Reggae Got Soul"] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20160520172432/http://www.bbc.co.uk/programmes/b00ymljb |date=20 May 2016 }}. BBC Four (documentary). Directed by George Scott. UK. 2011. 59 min. Retrieved 15 December 2016.</ref>。
 
「[[ザット'70sショー]]」、シーズン2のエピソード「"Holy Crap!"」でキャラクターのエリック・フォアマンとスティーブン・ハイドは牧師から神について説明するよう頼まれ、クラプトンのイメージを描いた<ref>{{cite news|title=That '70s Show. Series 2. Episode "Holy Crap"|url=http://iview.abc.net.au/programs/that-70s-show/ZW0132A023S00|agency=ABC|date=17 December 2017|access-date=17 December 2017|archive-url=https://web.archive.org/web/20150122212435/http://iview.abc.net.au/programs/that-70s-show/ZW0132A023S00|archive-date=22 January 2015|url-status=dead}}</ref>。クラプトンはBBCの「[[トップ・ギア]]」2013年のシリーズ19エピソード4に出演し、[[キア・シード]]のテストドライブに携わった。彼はシードの補助入力をテストするよう求められ、端子にギターを接続、彼の有名なヒット曲のいくつかのフレーズを演奏した。「トップ・ギア」のホスト、[[ジェレミー・クラークソン]]は彼を「地元のギタリスト」と紹介した<ref>{{cite av media|url=https://www.youtube.com/watch?v=YGgP6-0yGJc|title=Eric Clapton plays guitar on a KIA Cee'd|date=18 February 2013|via=YouTube|access-date=27 August 2015|archive-url=https://web.archive.org/web/20151015223238/https://www.youtube.com/watch?v=YGgP6-0yGJc|archive-date=15 October 2015|url-status=live}}</ref>。
 
2017年に「''Eric Clapton: Life in 12 Bars''」というタイトルのドキュメンタリー映画が[[リリ・フィニ・ザナック]]の監督で製作された<ref name="Jones">{{cite news|title=Lili Fini Zanuck: Director says 2017 'wasn't a turning point' for Hollywood|url=https://www.bbc.co.uk/news/entertainment-arts-42554177|last=Jones|first=Emma|author-link=Emma Jones (journalist)|access-date=6 January 2018|work=[[BBC News]]|date=4 January 2018|archive-url=https://web.archive.org/web/20180105130621/http://www.bbc.co.uk/news/entertainment-arts-42554177|archive-date=5 January 2018|url-status=live}}</ref>。クラプトンはザナックの1991年の映画「[[ラッシュ]]」の音楽を担当し、それ以来の友人であった<ref name="Jones"/>。ザナックは[[BBCニュース]]のインタビューで、クラプトンは彼女が監督を担当した場合にのみ参加することに同意したと述べた。:
 
{{quote|エリックが気分が良かったので、これができたのだと思います。彼は信じられないほどプライベートな男であり、彼の大成功にもかかわらず、彼はまったく宣伝されても気にしない。彼は自身の音楽が大好きです...彼は何年か前に70歳になったので、それは彼の年齢と関係があるかもしれないと思います。彼は私に言いました。「僕は死んだ後にそれが行われることを望まなかったし、それは間違っていた」 たぶん彼はそれをすべてテーブルに並べる時が来たと思ったのでしょう。<ref name="Jones"/>}}
 
==個人的生活==
===家族===
クラプトンは[[ファンク]]歌手の[[ベティ・デイビス]]と短期間交際した<ref>{{Cite web|url=https://jazztimes.com/features/eric-clapton-extra-cream/|title=Eric Clapton: Extra Cream|last=Varga|first=George|date=1 July 2006|website=JazzTimes|archive-url=https://web.archive.org/web/20181225175555/https://jazztimes.com/features/eric-clapton-extra-cream/|archive-date=25 December 2018|url-status=live}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.dazeddigital.com/music/article/20269/1/nasty-gal-betty-davis|title=The singer, whose sexually potent 70s funk blueprint virtually created its own genre, talks about her personal soul revolution|last=Hundley|first=Jessica|date=15 June 2014|website=Dazed|archive-url=https://web.archive.org/web/20181225175240/http://www.dazeddigital.com/music/article/20269/1/nasty-gal-betty-davis|archive-date=25 December 2018|url-status=dead}}</ref>。彼は1979年に[[パティ・ボイド]]と結婚したが、結婚生活は彼の不貞と[[家庭内暴力]]によって破綻した。1999年の[[サンデー・タイムズ]]紙とのインタビューで、クラプトンは当時「本格的な」アルコール依存症であって、結婚中に彼女をレイプして虐待したことを認めた<ref>{{Cite news|url= https://apnews.com/article/314a3a689dd3e15ebbc8d567dfadb06f|title=Clapton Admits Abusing Wife|date=27 June 1999|agency=Associated Press|access-date=26 July 2021}}</ref>。1984年、『ビハインド・ザ・サン』のレコーディング中に、クラプトンは[[アソシエイテッド・インディペンデント・レコーディング|AIRモントセラト]]のマネージャーであるイヴォンヌ・ケリーとの交際を始めた。双方とも当時パートナーと結婚していたが、イヴォンヌは1985年1月にクラプトンの娘を出産した。彼女はルース・ケリー・クラプトンと名付けられたが、メディアが彼女が1991年にクラプトンの娘であると認識するまで、彼女の存在は一般に公開されなかった<ref>Schumacher, Michael (1992), p. 263.</ref><ref>Sandford, Christopher (1994). ''Clapton: Edge of Darkness'', Victor Gollancz, p. 210.</ref>。
 
クラプトンとボイドは1984年に[[体外受精]]を試みたが、子どもをもうけることはできなかった<ref>{{cite book |last1=Boyd |first1=Pattie |last2=Junor |first2=Penny |title=Wonderful Tonight: George Harrison, Eric Clapton, and Me |publisher=Random House |year=2008 |page=233 |isbn=978-0307450227}}</ref>。クラプトンはイタリア人モデルの[[ロリー・デル・サント]]と関係を持ち、彼女を妊娠させたことを告白した後、1989年にボイドと離婚した。デル・サントは1986年8月21日に息子のコナーを出産した。コナーは1991年3月20日にマンハッタンのアパートの53階にある開いた寝室の窓から転落し、4歳で死去した<ref>Details on Del Santo and their son:
*{{cite news|first=Steve|last=Halvonik|url=https://www.post-gazette.com/ae/books/2018/12/21/Slowhand-Life-Music-Eric-Clapton-Philip-Norman/stories/201812230009|newspaper=Pittsburgh Post-Gazette|title='Slowhand' uncovers the traumas, tragedies and triumphs of Eric Clapton|date=21 December 2018|access-date=28 August 2021}}
*{{cite news|url=https://apnews.com/article/b8f92979f389bfe3421c68fc2d35966b|agency=Associate Press|title=Eric Clapton's Son Killed in Fall from 53rd Floor Window|first=Rick|last=Hampson|date=20 March 1991|access-date=28 August 2021}}
*{{cite magazine|url=https://www.vanityfair.com/style/2007/11/clapton200711|title=Eric Clapton's Salvation Road|first=Eric|last=Clapton|magazine=Vanity Fair|date=22 October 2007|access-date=28 August 2021}}
</ref>。
 
1998年、当時53歳だったクラプトンはオハイオ州コロンバスでの公演後のパーティーで、22歳の管理アシスタントであるメリア・マッケナリーと出会った。彼はメリアと一年間密かに交際し、1999年に関係を公表した。2人は2002年1月1日にクラプトンの故郷であるリプリーのセントメアリー・マグダレン教会で結婚した。2人の間にはジュリー・ローズ(2001年6月13日生)、エラ・メイ(2003年1月14日生)、ソフィー・ベル(2005年2月1日生)の3人の娘がいる<ref>{{IMDb name|0002008}}</ref>。2013年6月に長女ルースとその夫ディーン・バートレットの間に、クラプトンの孫となるアイザック・エリック・オーウェン・バートレットが生まれた<ref>{{cite tweet|user=ruthclapton|first=Ruth|last=ClaptonBartlett|number=341754651076595712|date=4 June 2013|title=So happy to welcome our beautiful son Isaac Eric Owen Bartlett to the world, he's already so loved by us all. http://t.co/RxKr7OYsvi|access-date=8 June 2013}}</ref>。
 
=== 政治的見解と論争 ===
==== キープ・ブリテン・ホワイト ====
1976年8月5日、クラプトンは[[バーミンガム]]でのコンサート中に移民増加への反対を発言した<ref>{{cite web|first=David|last=Stubbs|url=https://thequietus.com/articles/20701-eric-clapton-racism-morrissey|title=Eric Clapton & Enoch Powell to Morrissey: Race in British Music Since '76|website=[[The Quietus]]|date=9 August 2016|access-date=3 July 2021}}</ref>。この発言はその後騒ぎと長引く論争を引き起こした。ステージ上で目に見えて酔っ払っていたクラプトンは、物議を醸している右翼のイギリスの政治家、[[イーノック・パウエル]]を強く支持した<ref>{{cite news |url=http://microsites.virgin.net/music/pictures/profiles/when-popstars-get-political.php?ssid=6 |title=When popstars talk politics: Clapton's shocking rant |publisher=[[Virgin Media]] |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20090218181949/http://microsites.virgin.net/music/pictures/profiles/when-popstars-get-political.php?ssid=6 |archive-date=18 February 2009 |access-date=6 June 2020 }}</ref><ref>{{cite news |url=https://www.theguardian.com/music/2007/oct/14/popandrock2 |work=[[The Guardian]] |title=The ten right-wing rockers |first=Luke |last=Bainbridge |date=14 October 2007 |access-date=7 October 2016 |archive-url=https://web.archive.org/web/20160818152641/https://www.theguardian.com/music/2007/oct/14/popandrock2 |archive-date=18 August 2016 |url-status=live }}</ref><ref>{{cite book|first=Barry|last=Miles|title=London Calling: A Countercultural History of London since 1945|url=https://books.google.com.au/books?id=gYn87V36p5AC&pg=PT238&lpg=PT238&dq=%22Eric+Clapton%22+%22Fucking+Saudis+taking+over+London%22&source=bl&ots=3ddjtFi_Er&sig=ACfU3U2NFe1kPiO0IruNDueQbsAhVBlUaA&hl=en&sa=X&ved=2ahUKEwii_fnxu8XxAhVMyzgGHbJQBok4FBDoAXoECA0QAw#v=onepage&q=%22Eric%20Clapton%22%20%22Fucking%20Saudis%20taking%20over%20London%22&f=false|publisher=Atlantic Books|location=London|year=2010|isbn=978-1-848875548|page=}}</ref>。彼は聴衆に次のように話しかけた。
 
{{quote|今夜、聴衆の中に外国人はいるか?。もしそうなら、手を上げてくれ。それで、どこにいる?。さて、あなた方全員がどこにいるとしても、僕はあなた方全員がただ去るべきだと思っている。ホールを離れるだけでなく、僕たちの国から離れてくれ。僕はあなたがここや、部屋、または僕の国にいることを望まない。聞いてくれ、みんな!。僕らはイーノック・パウエルに投票すべきだと思う。イーノックは僕らの男だ。僕はイーノックが正しいと思う。僕らは彼らすべてを送り返すべきだと思う。イギリスが黒い植民地になるのを止めろ。外国人を追い出せ。ウォグ(有色人種)を追い出せ。クーンズ(黒人)を追い出せ。キープ・ブリテン・ホワイト。僕は以前ドープ(麻薬)に夢中になっていたが、今は人種差別に夢中になっている。それははるかに重い。みんな、クソウォグ、みんな。ロンドンを占領するクソサウジ。ろくでなしのウォグ。イギリスは過密状態になって、イーノックはそれを止めて彼らを送り返す。黒いウォグとクーンとアラブ人とクソジャマイカ人はここに属していない。僕たちは彼らがここにいることを望まない。これはイギリスだ。これは白人の国だ。僕らはここに黒いウォグとクーンを住まわせたくない。彼らが歓迎されていないことを彼らにはっきりさせる必要がある。イギリスは白人のためのものだ。みんな。これはイギリスだ、白人の国だ、僕らに何が起こっているんだ、クソッタレ。ウォグを捨てろ!。キープ・ブリテン・ホワイト!<ref>{{cite web|first=Andrew|last=Marzoni|url=https://thebaffler.com/latest/the-fairest-soul-brother-in-england-marzoni|title=The Fairest Soul Brother in England|website=[[The Baffler]]|date=26 February 2019|access-date=3 July 2021}}</ref><ref>{{cite web|first=Tom|last=Sykes|url=https://www.thedailybeast.com/eric-clapton-apologizes-for-racist-past-i-sabotaged-everything|title=Eric Clapton Apologizes for Racist Past: ‘I Sabotaged Everything’|website=[[The Daily Beast]]|date=12 January 2018|access-date=3 July 2021}}</ref>}}
 
「キープ・ブリテン・ホワイト」は、当時、極右政党の[[イギリス国民戦線]]のスローガンであった<ref>{{cite news |work=The Independent |location=London |access-date=18 January 2010 |title=Dabbling in right wing politics - David Bowie, Brian Ferry and Eric Clapton |url=https://www.independent.co.uk/arts-entertainment/music/features/the-ten-worst-rocknroll-career-moves-1774270.html?action=Popup&ino=3 |first=John |last=Hall |date=19 August 2009 |archive-url=https://web.archive.org/web/20090827082948/http://www.independent.co.uk/arts-entertainment/music/features/the-ten-worst-rocknroll-career-moves-1774270.html?action=Popup&ino=3 |archive-date=27 August 2009 |url-status=live }}</ref><ref>''Rebel Rock'' by J. Street. First Edition (1986). Oxford Press Basil Blackwell.pp.74-75.</ref>。この事件は、[[デヴィッド・ボウイ]]による同時期のいくつかの物議を醸す発言<ref name=TW/>や、[[シド・ヴィシャス]]と[[スージー・スー]]が[[ナチス]]関連の画像を使用したことと共に、[[ロック・アゲインスト・レイシズム]]の創設の主なきっかけとなった。同運動は1978年4月30日にコンサートも開催している<ref name=racism>{{cite news |url=https://www.theguardian.com/music/2008/apr/20/popandrock.race |first=Sarfraz |last=Manzoor |author-link=Sarfraz Manzoor |date=20 April 2008 |access-date=18 January 2010 |work=[[The Observer]] |title=The year rock found the power to unite |archive-url=https://web.archive.org/web/20150227033900/http://www.theguardian.com/music/2008/apr/20/popandrock.race |archive-date=27 February 2015 |url-status=live }}</ref>。
 
1976年10月の[[:w:en:Sounds (magazine)|サウンズ]]誌へのインタビューで、クラプトンは「政治についてあまり知らない」と述べ、移民演説について「その夜、何が起こったのかわからない。それはその日に起こったことだったに違いないが、それは歪められたものがで出てきたんだ。」と述べた<ref name="Farther On">{{cite web|url = http://theband.hiof.no/articles/clapton_interview_sounds_oct_1976.html|title = Eric Clapton: Farther On Up The Road|last = Charone|first = Barbara|date = October 1976|work = Reprint for the web, article from Sounds Magazine|access-date = 19 October 2009|archive-url = https://web.archive.org/web/20091016235550/http://theband.hiof.no/articles/clapton_interview_sounds_oct_1976.html|archive-date = 16 October 2009|url-status = dead}}</ref>。2004年の[[:w:en:Uncut (magazine)|アンカット]]誌とのインタビューで、クラプトンはパウエルを「とてつもなく勇敢」と評価した<ref>{{cite news | url=https://www.theguardian.com/music/musicblog/2007/dec/01/ericclaptonisnotgod | title=Eric Clapton is not God | work=[[The Guardian]] | location=London | first=Kieron | last=Tyler | date=1 December 2007 | access-date=24 July 2015 | archive-url=https://web.archive.org/web/20150725013657/http://www.theguardian.com/music/musicblog/2007/dec/01/ericclaptonisnotgod | archive-date=25 July 2015 | url-status=live }}</ref>。彼はイギリスが「人々を安い労働力として招き、それから彼らをゲットーに入れている」と不平を言った<ref>{{cite news | url=https://www.irishtimes.com/culture/eric-s-old-post-colonial-blues-1.426495 | title=Eric's old post-colonial blues | work=The Irish Times | first=Brian | last=Boyd | date=25 March 2005 | access-date=24 July 2015 | archive-url=https://web.archive.org/web/20150725013723/http://www.irishtimes.com/culture/eric-s-old-post-colonial-blues-1.426495 | archive-date=25 July 2015 | url-status=live }}</ref>。2004年、クラプトンは[[:w:en:Scotland on Sunday|スコットランド・オン・サンデー]]紙のインタビュアーに、「僕がレイシストになることはない。それはバカげている。」と語った<ref>{{cite web |url=http://scotlandonsunday.scotsman.com/review.cfm?id=408192004 |archive-url=https://web.archive.org/web/20071104143944/http://scotlandonsunday.scotsman.com/review.cfm?id=408192004 |url-status=dead |archive-date=4 November 2007 |title=A sentimental journey |work=The Scotsman |access-date=22 August 2010 }}</ref>。2007年の自伝で、クラプトンは「すべてに気づいていない」と主張した<ref>{{cite news|url=http://observer.guardian.co.uk/review/story/0,,2195792,00.html|work=The Guardian|location=London|title=The gospel according to God|date=21 October 2007|access-date=2 May 2010|archive-url=https://web.archive.org/web/20080127022130/http://observer.guardian.co.uk/review/story/0,,2195792,00.html|archive-date=27 January 2008|url-status=live}}</ref>。2007年12月の[[:w:en:The South Bank Show|サウスバンクショー]]での[[メルヴィン・ブラッグ]]とのインタビューで、クラプトンは自身が人種差別主義者ではないと述べたが、それでもパウエルのコメントは適切であると信じているとした<ref name=TW>{{cite web|work=[[The Week]]|url=http://www.theweek.co.uk/people/37315/night-eric-wasn%E2%80%99t-so-wonderful|title=The night Eric wasn't so wonderful|date=10 March 2008|access-date=10 August 2018|archive-url=https://web.archive.org/web/20180810204925/http://www.theweek.co.uk/people/37315/night-eric-wasn%E2%80%99t-so-wonderful|archive-date=10 August 2018|url-status=dead}}</ref>。
 
2018年の「Raised on Radio」のインタビューで、クラプトンは過去の中毒について話し、「本当に不快なことをした20年間の飲酒で、僕は厄介な人間だった。」と述べた。彼は移民に反対していないと主張し、国際的なミュージシャンがイギリスの音楽シーンにもたらした貢献を高く評価した<ref>{{cite web|author=RustedTelevisione|url=https://www.youtube.com/watch?v=6XgwjQdpH4o|title= Eric Clapton confronts his racist past - 2018 radio interview|date=28 November 2020|access-date=26 July 2021|via=YouTube}}</ref>。
 
==== キツネ狩り禁止 ====
クラプトンは、フィールドスポーツやイギリスの田舎に関連する問題を推進する[[:w:en:Countryside Alliance|カントリーサイド・アライアンス]]を支援している。彼は団体の資金を調達するためにコンサートで演奏し、[[:w:en:Hunting Act 2004|2004年の狩猟法]]で[[労働党 (イギリス)|労働党]]が[[キツネ狩り (ブラッド・スポーツ)|キツネ狩り]]を禁止したことに公然と反対した。クラプトンのスポークスパーソンは、「エリックはカントリーサイド・アライアンスを支持している。彼は自分自身を狩ることはしないが、釣りや射撃などの田舎の追求を楽しんでいる。彼は、人々の私的な追求に対する国家の干渉に同意しないという理由で、禁止を廃止するというアライアンスの活動を支持している。」と語った<ref>{{cite web | url= http://www.contactmusic.com/new/xmlfeed.nsf/story/clapton-headlines-pro-hunt-concert_30_04_2006 | title= Clapton Headlines Pro-Hunt Concert | work= Contact Music | date= 30 April 2006 | access-date= 9 June 2014 | archive-url= https://web.archive.org/web/20110111075203/http://www.contactmusic.com/new/xmlfeed.nsf/story/clapton-headlines-pro-hunt-concert_30_04_2006 | archive-date= 11 January 2011 | url-status= live }}</ref>。
 
==== 反ロックダウンの楽曲 ====
2020年11月の[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|COVID-19パンデミック]]の間、クラプトンと[[ヴァン・モリソン]]は、反マスク着用、反[[2019年コロナウイルス感染症流行による外出制限・封鎖|ロックダウン]]のシングル「スタンド・アンド・デリバー」を発表した。収益はモリソンの「ロックダウン・ファイナンシャル・ハードシップ・ファンド」に寄付された<ref>{{Cite web|title=Eric Clapton, Van Morrison to release new single Dec. 4|url=https://www.upi.com/Entertainment_News/Music/2020/11/28/Eric-Clapton-Van-Morrison-to-release-new-single-Dec-4/8641606569592/|access-date=3 December 2020|agency=United Press International|language=en}}</ref>。モリソンのスタンスは、北アイルランド保健大臣の[[ロビン・スワン]]によって「公衆衛生対応に関与するすべての人々への中傷」であり、「[[2019年コロナウイルス感染症流行に関連する誤情報|陰謀論者]]、つまりマスクやワクチンに反対し、これはすべて自由を取り除くための巨大な世界的計画だと考える[[ティンホイル・ハット]]の旅団に大きな慰めを与える」と批判されている<ref>{{Cite web|date=22 September 2020|title=Northern Ireland health minister criticises Van Morrison anti-lockdown songs|url=http://www.theguardian.com/music/2020/sep/22/northern-ireland-health-minister-criticises-van-morrison-anti-lockdown-songs|access-date=27 May 2021|website=The Guardian|language=en}}</ref>。2021年7月、クラプトンは[[ボリス・ジョンソン]]がコンサートの聴衆に予防接種を要求したことに応じて、「差別された聴衆がいるステージでは演奏しない」と記した<ref>{{Cite web|title=Eric Clapton Says He Won't Play Venues That Require COVID Vaccines|url=https://www.npr.org/2021/07/22/1019210021/eric-clapton-covid-vaccine-requirement-shows|access-date=2021-07-22|website=NPR.org|language=en}}</ref>。
 
「スタンド・アンド・デリバー」というのは「要求されたものを与える」ことを意味し、もともとは通行人から金品を奪う追い剥ぎのことを意味していた。曲は、悪名高い[[ハイウェイマン]]「"Dick Turpin wore a mask too" ([[ディック・ターピン]]もマスクを着用していた。)」という歌詞で終わり、「あなたは彼らに恐怖を抱かせた / しかしそれはどれも真実ではなかった」という二行連句が含まれている。クラプトンは「ヴァンとライブ音楽を保存する彼の努力をサポートする。彼はインスピレーションだ。この混乱から抜け出す方法を見つける必要があるので、僕たちは立ち上がって数えなければならない。」と語った<ref>{{Cite web|date=27 November 2020|title=Music Legends Eric Clapton, Van Morrison Team for Anti-Lockdown Single 'Stand and Deliver'|url=https://variety.com/2020/music/global/eric-clapton-van-morrison-lockdown-single-1234841031/|access-date=25 June 2021|website=Variety|language=en}}</ref>。
 
2021年8月、クラプトンはシングル「ディス・ハズ・ゴッタ・ストップ」とプロモーションビデオをリリースした。この曲はCOVID-19の封鎖やワクチン接種に対する抗議の曲として説明され、ビデオはクラプトンが見ているロックダウン政策の結果としての市民的自由の制限に対する叙情的で視覚的な声明として批評家に説明されたものであった。この曲は環境問題、テクノロジーへの人間の執着、メディア消費にも言及している<ref>{{Cite news|date=27 August 2021|first=Melissa|last=Ruggieri|title=Eric Clapton sings 'enough is enough' on new COVID policy protest song 'This Has Gotta Stop'|url=https://www.usatoday.com/story/entertainment/music/2021/08/27/eric-clapton-releases-covid-policy-protest-song-this-has-gotta-stop/5622559001/|access-date=29 August 2021|newspaper=USA today}}</ref><ref>{{Cite magazine|date=27 August 2021|first=David|last=Browne|title=Eric Clapton Appears Frustrated With Covid-19 Vaccine on New Song 'This Has Gotta Stop'|url=https://www.rollingstone.com/music/music-news/eric-clapton-new-song-this-has-gotta-stop-1217935/|access-date=29 August 2021|magazine=Rolling Stone}}</ref><ref>{{Cite web |date=27 August 2021|title=Eric Clapton Releases Politically-Charged "This Has Gotta Stop"|website=Jambands.com|url=https://jambands.com/news/2021/08/27/eric-clapton-releases-new-song-this-has-gotta-stop-accompanying-video/|access-date=29 August 2021}}</ref>。
 
===富と資産===
2009年、サリー・ライフ・マガジンはクラプトンを最も裕福なサリー居住者のリストで17位にランク付けし、彼の財産は1億2,000万ポンドと見積もっている。これは、収入、財産、900万ポンドのヨット「[[:w:en:Va Bene (yacht)|Va Bene]]」(以前は[[バーニー・エクレストン]]が所有)、バックカタログ、ツアー収入、および1989年以来1億1,000万ポンドを稼いだ持ち株会社のMarshbrook Ltdの組み合わせであった<ref name="Clapton's estimated wealth">{{cite web|url=http://surrey.greatbritishlife.co.uk/article/surreys-richest-50-the-top-ten-2497/|title=Surrey's Richest 50; The Top Ten|last=Beresford|first=Philip|date=June 2009|work=Surrey Life Magazine|access-date=27 August 2011|archive-url=https://web.archive.org/web/20120130225722/http://surrey.greatbritishlife.co.uk/article/surreys-richest-50-the-top-ten-2497/|archive-date=30 January 2012|url-status=dead}}</ref>。2003年に彼は紳士の装身具のコーディング、ピカデリーの50%の株式を購入した<ref name="Clapton rescues gentlemen's shop">{{cite news |url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/england/london/3528296.stm |title=Clapton rescues gentlemen's shop |publisher=BBC |date=2 August 2004 |access-date=25 February 2012 |archive-url=https://web.archive.org/web/20080214225813/http://news.bbc.co.uk/1/hi/england/london/3528296.stm |archive-date=14 February 2008 |url-status=live }}</ref>。当時、オーナーのノル・ウロスは店を閉店から救おうとしており、彼の「最高のクライアント」であるクラプトンに連絡したと伝えられている。クラプトンは5分以内に返答し「これを閉店させることはできない」と答えた<ref name="Clapton rescues gentlemen's shop"/>。
 
===自動車のコレクション===
[[File:FerrariSP12EC.jpg|thumb|right|[[フェラーリ・458イタリア#SP12 EC|フェラーリ・SP12 EC]]。フェラーリの特別プロジェクトプログラムの下でクラプトンのために製作された<ref>{{cite web|url=http://paultan.org/2012/05/29/ferrari-sp12-ec-eric-claptons-one-off-is-a-458-italia-with-styling-inspired-by-the-512-bb/|title=Ferrari SP12 EC - Eric Clapton's one-off is a 458 Italia with styling inspired by the 512 BB|last=Tan|first=Danny|date=29 May 2012|work=Paul Tan's Automotive News|publisher=Driven Communications Sdn Bhd|access-date=29 May 2012|location=Petaling Jaya, Malaysia|archive-url=https://web.archive.org/web/20121008080947/http://paultan.org/2012/05/29/ferrari-sp12-ec-eric-claptons-one-off-is-a-458-italia-with-styling-inspired-by-the-512-bb/|archive-date=8 October 2012|url-status=live}}</ref>。]]
1970年代以来、クラプトンは自分自身を「カー・エンスージアスト」と見なし、[[フェラーリ]]ブランドへの情熱をしばしば表明してきた<ref>{{cite web|url=http://www.thisweekinmotors.com/the-many-cars-of-eric-slowhand-clapton|title=The Many Cars of Eric 'Slowhand' Clapton|publisher=This Week in Motors|access-date=20 August 2016|archive-url=https://web.archive.org/web/20160902014806/http://www.thisweekinmotors.com/the-many-cars-of-eric-slowhand-clapton/|archive-date=2 September 2016|url-status=dead}}</ref>。クラプトンは現在、さまざまなフェラーリを所有しており、1989年に彼のフェラーリコレクションについて尋ねられたとき、彼は同社が製造するロードツーリングカーが好きだと言い、「もっとスペースがあれば、賢明だったら今では膨大なコレクションがあり、僕は億万長者になるだろう。」と語った<ref>{{cite web|url=https://www.youtube.com/watch?v=cqUH4Ylfkqw|title=Desert Island Discs 1989 - Eric Clapton & Sue Lawley|publisher=YouTube Network|access-date=20 August 2016}}</ref>。2010年にクラプトンは、彼にとって「フェラーリは(常に所有し、運転するための)ナンバーワンの車であった」と語り、彼は常にロードカーやF1、モーターレースでフェラーリをサポートしたと語っている<ref>{{cite web|url=https://www.youtube.com/watch?v=0BaJF1ED3XE|title=Eric Clapton interview on Ferrari.com|publisher=YouTube Network|access-date=20 August 2016|archive-url=https://web.archive.org/web/20170101004120/https://www.youtube.com/watch?v=0BaJF1ED3XE|archive-date=1 January 2017|url-status=live}}</ref>。
 
2012年、フェラーリはクラプトンをワンオフのスペシャルプロジェクトカーである[[フェラーリ・458イタリア#SP12 EC|フェラーリ・SP12 EC]]で表彰した。2013年7月にはその車を[[グッドウッド・フェスティバル・オブ・スピード]]に展示した<ref>[https://www.autocar.co.uk/car-news/goodwood-festival-speed/eric-clapton-displays-one-ferrari-sp12-ec-goodwood "Eric Clapton displays one-off Ferrari SP12 EC at Goodwood"] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20171206135755/https://www.autocar.co.uk/car-news/goodwood-festival-speed/eric-clapton-displays-one-ferrari-sp12-ec-goodwood |date=6 December 2017 }}. Autocar.co.uk. Retrieved 4 December 2017</ref>。2014年にクラプトンはフェラーリが今でも彼のお気に入りの自動車ブランドであると語っている<ref>{{cite web|url=https://www.youtube.com/watch?v=RTCKlF0Hr64|title=Eric Clapton with his wife Melia - Grid Walk with Martin Brundle F1|publisher=YouTube Network|access-date=20 August 2016|archive-url=https://web.archive.org/web/20160107060516/https://www.youtube.com/watch?v=RTCKlF0Hr64|archive-date=7 January 2016|url-status=live}}</ref>。クラプトンが所有しているその他の車両の中には、ジョージ・ハリスンからの贈り物であったヴィンテージの[[ミニ (BMC)|ミニ・クーパー]]・ラドフォードがある<ref>{{cite web|url=http://equipboard.com/items/vintage-mini-cooper-radford-harrison-clapton|archive-url=https://web.archive.org/web/20160820101701/http://equipboard.com/items/vintage-mini-cooper-radford-harrison-clapton|url-status=dead|archive-date=20 August 2016|title=Vintage Mini Cooper Radford Harrison/Clapton|publisher=Equipboard, Inc.|access-date=20 August 2016}} Archived from the original.</ref>。
 
===慈善活動===
[[File:2005 Fender Stratocaster Eric Clapton Signature Model, Serial No. CN98950 (Bonhams auction 19226, lot 136) & 2005 Gibson ES-335 Crossroads Model Prototype, Serial No. Prototype 3 (lot 116).jpg|thumb|right|[[クロスロード・センター]]を支援するためオークションに出品されたクラプトンのギターとアンプ。]]
1993年、クラプトンはイギリスの薬物およびアルコール依存症の治療センターである[[:w:en:Clouds House|クラウズハウス]]の所長に任命され、1997年まで理事を務めた<ref>{{cite web|url=http://companycheck.co.uk/director/906976436/MR-ERIC-PATRICK-CLAPTON#anchor-resigned-02116410|title=Company Check, List of Directors of UK Companies and Organizations: Eric Patrick Clapton, Director, Clouds House|work=Company Check|access-date=22 September 2014|archive-url=https://web.archive.org/web/20150903223202/http://companycheck.co.uk/director/906976436/MR-ERIC-PATRICK-CLAPTON#anchor-resigned-02116410|archive-date=3 September 2015|url-status=dead}}</ref>。彼はまた、1994年から1999年まで化学依存センターの理事を務めた<ref>{{cite web|url=http://companycheck.co.uk/director/906976436/MR-ERIC-PATRICK-CLAPTON#anchor-resigned-01880505|title=Company Check, List of Directors of UK Companies and Organizations, Eric Patrick Clapton, Director, The Chemical Dependency Centre|work=Company Check|access-date=22 September 2014|archive-url=https://web.archive.org/web/20150903223202/http://companycheck.co.uk/director/906976436/MR-ERIC-PATRICK-CLAPTON#anchor-resigned-01880505|archive-date=3 September 2015|url-status=dead}}</ref>。その後両団体は合併し、2007年に[[:w:en:Action on Addiction|アクション・オン・アディクション]]となった。
 
1998年に、彼は中毒患者が麻薬やアルコールへの依存症を克服するのを支援するために、[[アンティグア島]]に[[クロスロード・センター]]を設立し、現在までその管理と資金調達に積極的に取り組んでいる<ref>{{cite web|url=http://www.treatmentalternatives.com/rock-n-roll-doesnt-die-after-kicking-the-habit/ |title=Treatment Alternatives for Addiction |date=27 March 2013 |access-date=30 March 2016 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20130327154748/http://www.treatmentalternatives.com/rock-n-roll-doesnt-die-after-kicking-the-habit/ |archive-date=27 March 2013 }}</ref><ref>{{cite web |url=http://crossroadsantigua.org/ |title=Crossroads Centre Antigua, Official website |publisher=Crossroadsantigua.org |access-date=3 October 2013 |archive-url=https://web.archive.org/web/20110422215845/http://crossroadsantigua.org/ |archive-date=22 April 2011 |url-status=dead }}</ref>。クラプトンはこのセンターの資金を調達するために、1999年、2004年、2007年、2010年、2013年、2019年に[[クロスロード・ギター・フェスティバル]]を開催した<ref>{{cite web |url=http://crossroadsguitarfestival.com/ |title=Crossroads Guitar Festival, Official website |publisher=Crossroadsguitarfestival.com |date=8 April 2013 |access-date=3 October 2013 |archive-url=https://web.archive.org/web/20110708205032/http://www.crossroadsguitarfestival.com/ |archive-date=8 July 2011 |url-status=dead }}</ref>。1999年、クラプトンはギターコレクションの一部を競売にかけ、クロスロード・センターの継続的な支援のために500万米ドル以上を調達した<ref name=":0" />。2度目のギターオークションは2004年6月24日に開催されたが、その際にはクリーム時代の使用ギターや、著名な友人から提供されたギターも含まれた<ref name=":0" />。彼の[[ジョージ・ローデン|ローデン・アコースティックギター]]は41,825米ドルで落札された。クリスティーズで行われたこのオークションによって得られた収入は7,438,624米ドルであった<ref name = "cdqimo"/>。2011年、彼はニューヨークのオークションで150を超えるアイテムを出品し、収益はクロスロードセンターに送られた。出品物の中には。2005年のクリーム再結成ツアーで使用したギター、70年代初頭のドミノス時代に使用されていたスピーカーキャビネット、そしてジェフ・ベック、J.J.ケイル、ジョー・ボナマッサから提供されたギターが含まれていた<ref>{{cite web |url=http://iknowjack.radio.com/2010/12/10/eric-clapton-will-auction-vintage-guitars-amps-for-his-crossroads-centre/ |archive-url=https://web.archive.org/web/20101213164850/http://iknowjack.radio.com/2010/12/10/eric-clapton-will-auction-vintage-guitars-amps-for-his-crossroads-centre/ |url-status=dead |archive-date=13 December 2010 |title=Eric Clapton Will Auction Vintage Guitars & Amps For His Crossroads Centre }}</ref>。2011年3月、彼は1984年製のギブソン・セミアコースティックギター、1990年のロイヤル・アルバート・ホールでのコンサートで着用した[[ジャンニ・ヴェルサーチ]]のスーツなど、彼の個人的なコレクションから75本のギターと55本のアンプで構成される138ロットをオークションに出品し、130万ポンド以上を調達した。そして「ブラッキー」として知らる有名なフェンダー・ストラトキャスターのレプリカで、30,000ドル以上を獲得した。すべての収益は再びクロスロード・センターに送られた<ref>[https://www.telegraph.co.uk/finance/personalfinance/expat-money/8373815/Eric-Clapton-charity-auction-makes-1.3-million.html "Eric Clapton charity auction makes £1.3 million"] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20190531092307/https://www.telegraph.co.uk/finance/personalfinance/expat-money/8373815/Eric-Clapton-charity-auction-makes-1.3-million.html |date=31 May 2019 }}. ''The Telegraph''. Retrieved 31 May 2019</ref>。
 
クラプトンは、[[アムネスティ・インターナショナル]]に代わって[[モンティ・パイソン]]のメンバーである[[ジョン・クリーズ]]が共同設立したチャリティショーの[[:w:en:The Secret Policeman's Ball|シークレット・ポリスマンズ・ボール]]に出演した。彼はロンドンの[[ドゥルリー・レーン劇場]]で開催された1981年のショーに初登場し、その後も継続して出演した<ref name="performers">{{cite news |title=Remember the Secret Policeman's Ball? |url=https://www.bbc.co.uk/programmes/b0074qw2 |access-date=21 August 2019 |publisher=BBC |archive-url=https://web.archive.org/web/20190822115518/https://www.bbc.co.uk/programmes/b0074qw2 |archive-date=22 August 2019 |url-status=live }}</ref>。クラプトンは、イギリスを代表する青少年慈善団体である[[プリンス・トラスト]]と協力しており、トレーニング、自己啓発、起業支援、メンタリング、アドバイスを提供している。彼は1980年代から何度もチャリティーのロックコンサートに出演しており、最近では2010年に演奏している<ref>{{cite news|title=TRH attend The Prince's Trust Rock Gala 2010|url=https://www.princeofwales.gov.uk/news-and-diary/trh-attend-the-prince’s-trust-rock-gala-2010|agency=Princes Trust|date=2 March 2018}}{{dead link|date=March 2018 |bot=InternetArchiveBot |fix-attempted=yes }}</ref>。2008年に彼は[[スマトラ島沖地震 (2004年)|スマトラ島沖地震]]の津波から東南アジアにもたらされた荒廃の回復を支援するために[[:w:en:Aid Still Required|エイド・スティル・リクワイヤード]]のCDに曲を寄付した<ref>[http://www.aidstillrequired.org/wp-content/uploads/2013/03/Exotic_AdventureQ1-2010.pdf "Green and Growing Aid Still Required Helps Darfur Refugees Take Root"] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20171011180547/http://www.aidstillrequired.org/wp-content/uploads/2013/03/Exotic_AdventureQ1-2010.pdf |date=11 October 2017 }}. Aid Still Required.org. Retrieved 4 December 2017</ref>。
 
===サッカー===
クラプトンはイギリスのサッカークラブ、[[ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオンFC]]のファンである<ref name="West Brom"/>。1982年に彼は[[ザ・ホーソンズ]]で同クラブの選手、[[ジョン・ワイル]]の功労記念試合の前にコンサートを行った。この頃、同クラブは資金を投資するというクラプトンの申し出を拒否したと伝えられている。1970年代後半、クラプトンは彼のアルバム『[[バックレス]]』のバックカバーにウェスト・ブロムのスカーフを配置した<ref>{{cite web|url=http://www.birminghammail.co.uk/sport/football/football-news/revealed-west-bromwich-albions-most-7817282/|title=West Bromwich Albion's famous supporters|work=Birmingham Mail|date=23 June 2015|access-date=26 October 2016|archive-url=https://web.archive.org/web/20170505071908/http://www.birminghammail.co.uk/sport/football/football-news/revealed-west-bromwich-albions-most-7817282|archive-date=5 May 2017|url-status=live}}</ref>。1978-79シーズン、クラプトンは[[UEFAヨーロッパリーグ|UEFAカップ]]でウェスト・ブロムが[[トルコ]]のクラブ、[[ガラタサライSK]]とホームで行う試合のスポンサーとなった<ref name="West Brom">{{cite news|title=Throwback Thursday: The West Brom Match Sponsored By Eric Clapton (September 27, 1978)|url=https://www.pastemagazine.com/articles/2015/10/throwback-thursday-the-west-brom-match-sponsored-b.html|work=Paste Magazine|date=26 October 2016|access-date=26 October 2016|archive-url=https://web.archive.org/web/20161026233457/https://www.pastemagazine.com/articles/2015/10/throwback-thursday-the-west-brom-match-sponsored-b.html|archive-date=26 October 2016|url-status=live}}</ref>。
 
==栄誉==
{{main|:w:en:List of awards and nominations received by Eric Clapton}}
{| class="wikitable" style="width:95%;"
|-
!align=center| 年
! 賞 / 表彰
|-
|align=center|'''1983'''
|
 
英国音楽への卓越した貢献に対して、[[マリー=クリスティーヌ (マイケル王子夫人)|マイケル・オブ・ケント王子妃]]から[[:w:en:Silver Clef Award|シルバークレフ賞]]を受賞<ref name="crossroads">Michael Schumacher, [https://books.google.com/books?id=rrFJmTceXX4C&pg=PA145&dq=pattie+boyd#PPA146,M1 ''Crossroads: The Life and Music of Eric Clapton'']. Consulted on 12 August 2007.</ref>。
|-
|align=center|'''1985'''
|
[[マイケル・ケイメン]]と共作した「[[エッジ・オブ・ダークネス]]」のスコアで[[英国映画テレビ芸術アカデミー]]から英国アカデミー賞テレビ部門を受賞<ref>{{cite web
| title = Awards Database - The BAFTA site
| work = [[British Academy of Film and Television Arts|BAFTA]]
| url = http://www.bafta.org/awards-database.html?year=1985&category=Television&award=Original+Television+Music
| access-date = 10 October 2009
| archive-url = https://web.archive.org/web/20120127125152/http://www.bafta.org/awards-database.html?year=1985&category=Television&award=Original+Television+Music
| archive-date = 27 January 2012
| url-status = live
}}</ref>。
|-
|align=center|'''1992'''
|
英国作曲家賞、作曲家賞、作曲家賞、生涯功労賞を含む4つの[[アイヴァー・ノヴェロ賞]]を受賞<ref name="Ivors Lifetime"/>。
|-
|align=center|'''1993'''
|
「ティアーズ・イン・ヘブン」は、ソング・オブ・ザ・イヤー、レコード・オブ・ザ・イヤー、男性ポップ・ボーカル・パフォーマンスで3つの[[グラミー賞]]を受賞した。 クラプトンはまた『アンプラグド』でアルバム・オブ・ザ・イヤー、ベストロックボーカルパフォーマンス、「いとしのレイラ」でベストロックソングを受賞した<ref>{{cite news
| title = 1993 Grammy Winners
| work=The New York Times
| date = 26 February 1993
| url = https://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9F0CE3DB133CF935A15751C0A965958260
| access-date =20 August 2008}}</ref>。
|-
|align=center|'''1995'''
|
音楽への貢献で[[大英帝国勲章]]、オフィサー(OBE)を受章.<ref>{{cite news |author=<!--Staff writer(s); no by-line.--> |title=Supplement to The London Gazette: 1995 New Year Honours list |url=https://www.thegazette.co.uk/London/issue/53893/supplement/11 |work=The Gazette |location=London |date=30 December 1994 |access-date=17 September 2015 |archive-url=https://web.archive.org/web/20151015223238/https://www.thegazette.co.uk/London/issue/53893/supplement/11 |archive-date=15 October 2015 |url-status=live }}</ref>。
|-
| align=center|'''2000'''
|
ソロアーティストとして[[ロックの殿堂]]入りする。今回で3度目。以前にクリーム、ヤードバーズのメンバーとして殿堂入りしている<ref>{{cite news |url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/entertainment/555396.stm |title=Clapton's Hall of Fame hat-trick |work=BBC News |date=8 December 1999 |access-date=22 August 2010 |archive-url=https://web.archive.org/web/20040326073501/http://news.bbc.co.uk/1/hi/entertainment/555396.stm |archive-date=26 March 2004 |url-status=live }}</ref>。
|-
|align=center|'''2004'''
|
バッキンガム宮殿で[[アン (イギリス王女)|アン王女]]から[[大英帝国勲章]]、コマンダー(CBE)を受章<ref>{{cite news |url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk/3357011.stm |title=CBEs - full list |work=BBC News |date=31 December 2003 |access-date=22 August 2010 |archive-url=https://web.archive.org/web/20070124230614/http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk/3357011.stm |archive-date=24 January 2007 |url-status=live }}</ref><ref>{{cite news |url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/3977571.stm |title=Musician Clapton delighted by CBE |work=BBC News |date=3 November 2004 |access-date=22 August 2010 |archive-url=https://web.archive.org/web/20111105013120/http://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/3977571.stm |archive-date=5 November 2011 |url-status=live }}</ref>。
|-
|align=center|'''2006'''
|
[[グラミー賞]] 特別功労賞生涯業績賞をクリームのメンバーとして受賞<ref name="Lifetime Achievement Award1">{{cite web|url=http://www.grammy.org/recording-academy/awards/lifetime-awards|title=Lifetime Achievement Award|year=2012|publisher=The Recording Academy. National Academy of Recording Arts and Sciences|access-date=27 September 2012|archive-url=https://web.archive.org/web/20170703201633/https://www.grammy.org/recording-academy/awards/lifetime-awards|archive-date=3 July 2017|url-status=live}}</ref>。
|-
|align=center|'''2015'''
|
小惑星[[クラプトン (小惑星)|4305 クラプトン]]は彼にちなんで命名された。
|-
|align=center|'''2017'''
|
フランスの[[芸術文化勲章]]、コマンドールを受章<ref>{{cite web | url=http://www.whereseric.com/eric-clapton-news/303-france-honors-eric-clapton | title=France Honors Eric Clapton | work=Where's Eric! The Eric Clapton Fan Club Magazine | date=27 May 2017 | access-date=2 June 2017 | archive-url=https://web.archive.org/web/20170531024401/http://www.whereseric.com/eric-clapton-news/303-france-honors-eric-clapton | archive-date=31 May 2017 | url-status=dead }}</ref>。
|}
 
==映画やテレビで使用された楽曲==
クラプトンの音楽は何十もの映画やテレビ番組で使用されており、初めて登場したのは1973年の「[[ミーン・ストリート]]」までさかのぼる。同作ではデレク・アンド・ザ・ドミノスの「アイ・ルックト・アウェイ」やクリームの「[[ステッピン・アウト]]」が使用された。他の作品では、「[[特捜刑事マイアミ・バイス|マイアミ・バイス]]」シリーズ(「[[ワンダフル・トゥナイト]]」、「[[ノック・オン・ウッド]]」、「シーズ・ウェイティング」、「いとしのレイラ」)、「[[バック・トゥ・ザ・フューチャー]]」(「ヘヴン・イズ・ワン・ステップ・アウェイ」)、「[[ハスラー2]]」(「[[イッツ・イン・ザ・ウェイ・ザット・ユー・ユーズ・イット]]」)、「[[リーサル・ウェポン2/炎の約束]]」(「[[天国への扉 (ボブ・ディランの曲)|天国の扉]]」)、「[[グッドフェローズ]]」(「レイラ」、「[[サンシャイン・ラヴ]]」)<ref>{{cite web | url=https://www.imdb.com/title/tt0099685/soundtrack | title=Soundtracks for Goodfellas | publisher=[[IMDb]] | access-date=17 February 2007 | archive-url=https://web.archive.org/web/20070209111949/http://www.imdb.com/title/tt0099685/soundtrack | archive-date=9 February 2007 | url-status=live }}</ref>、「[[フリークス学園]]」のエピソード「I'm With the Band」(「サンシャイン・ラヴ」、「[[ホワイト・ルーム (クリームの曲)|ホワイト・ルーム]]」、「[[クロスロード・ブルース|クロスロード]]」)、「[[フレンズ (1994年のテレビドラマ)|フレンズ]]」のエピソード「The One with the Proposal, Part 2」(「ワンダフル・トゥナイト」)、「The One Where Rachel Has A Baby」(「リヴァー・オブ・ティアーズ」)、「[[スクール・オブ・ロック]]」(「サンシャイン・ラヴ」)、「[[メン・イン・ブラック3]]」(「[[ストレンジ・ブルー]]」)、「[[キャプテン・フィリップス]]」(「ワンダフル・トゥナイト」)、「[[8月の家族たち]]」(「[[レイ・ダウン・サリー]]」)、「[[グッド・ガールズ!~NY女子のキャリア革命~]]」のエピソード「The Year-Ender」(「ホワイト・ルーム」)、「[[リック・アンド・モーティ]]」のエピソード「The Vat of Acid Episode」(「イッツ・イン・ザ・ウェイ・ザット・ユー・ユーズ・イット」)そして「[[ジョーカー (映画)|ジョーカー]]」(「ホワイト・ルーム」)などがある<ref>{{cite web |url=http://www.prnewswire.com/news-releases/original-motion-picture-soundtrack-of-august-osage-county-to-be-released-on-january-7-2014-238884511.html |title=Original Motion Picture Soundtrack Of 'August: Osage County' To Be Released On January 7, 2014 |agency=PR Newswire |access-date=22 July 2017 |archive-url=https://web.archive.org/web/20170808233115/http://www.prnewswire.com/news-releases/original-motion-picture-soundtrack-of-august-osage-county-to-be-released-on-january-7-2014-238884511.html |archive-date=8 August 2017 |url-status=live }}</ref>。
 
[[オペル]]と[[ボクスホール]]は1987年から95年にかけての広告キャンペーンで「レイラ」のギターリフを使用した。メディアに登場する彼の音楽に加えて、クラプトンはいくつかの映画で単独または共同でスコアを書いたり、オリジナル曲を提供している。そのような作品として「[[リーサル・ウェポン]]」(マイケル・ケイメンと共作)<ref>[{{AllMusic|class=album|id=r115586|pure_url=yes}} "Lethal Weapon"]. AllMusic. Retrieved 16 December 2017</ref>、「[[コミュニオン]]」、「[[ラッシュ (1991年の映画)|ラッシュ]]」、「[[フェノミナン]]」(「[[チェンジ・ザ・ワールド (ワイノナ・ジャッドの曲)|チェンジ・ザ・ワールド]]」)、「[[リーサル・ウェポン3]]」(「イッツ・プロバブリー・ミー」を[[スティング (ミュージシャン)|スティング]]と、「ランナウェイ・トレイン」を[[エルトン・ジョン]]と共作)が含まれる<ref>[https://www.allmusic.com/album/lethal-weapon-3-mw0000078222 "Lethal Weapon 3"] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20171222050818/https://www.allmusic.com/album/lethal-weapon-3-mw0000078222 |date=22 December 2017 }}. AllMusic. Retrieved 16 December 2017</ref>。
 
== 日本におけるクラプトン ==
[[画像:Eric Clapton Budokan 20061124.jpg|thumb|250px|[[日本武道館]]、2006年11月24日]]
30年以上コンスタントにワールドツアーを行い、日本公演も多数(2019年春=22回目)。特に日本武道館公演は外国人アーティストとしては最多公演回数96回公演を行った。
 
136 ⟶ 412行目:
2000年の日本ツアーは18万人と驚異的な動員数を誇った。
 
[[新世紀エヴァンゲリオン|エヴァンゲリオン]]のキャラクターデザイナー[[貞本義行]]のファンであり、自身98年のアルバムPilgrim(1998)『ピルグリム』のジャケット制作を依頼している。
 
=== 日本公演 ===
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
[[ファイル:eclapton_cardiff.jpg|thumb|190px|right|[[ウェールズ]]・[[カーディフ]]の[[ミレニアム・スタジアム]]における[[津波]]救済コンサートで演奏するクラプトン([[2005年]][[1月22日]])]]
* [[1974年]]
:10月31日・11月1日・2日 [[日本武道館]]
198 ⟶ 474行目:
:12月11日 大阪城ホール
:12月13日 [[横浜アリーナ]]
</div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
* [[1991年]]
:'''ジョージ・ハリスン with エリック・クラプトン and ヒズ・バンド'''
243 ⟶ 520行目:
:12月5日 宮城県総合運動公園総合体育館
:12月7日 [[札幌ドーム]]
</div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
* [[2006年]] [[画像:Eric Clapton Budokan 20061124.jpg|thumb|250px|[[日本武道館]]、2006年11月24日]]
* [[2006年]]
:11月11日・12日・14日・15日 大阪城ホール
:11月17日・18日 名古屋レインボーホール
275 ⟶ 553行目:
: 4月13日・15日・17日・18日・20日 日本武道館
: 5月12日
</div>{{clear|left}}
 
 
== ディスコグラフィ ==
==ディスコグラフィ==
{{リンクのみの節|date=2020年5月10日 (日) 11:18 (UTC)}}
{{Main|エリック・クラプトンの作品}}
===ソロアルバム===
{{columns-list|colwidth=30em|
*''[[エリック・クラプトン・ソロ]]'' (1970)
*''[[461 オーシャン・ブールヴァード]]'' (1974)
*''[[安息の地を求めて]]'' (1975)
*''[[ノー・リーズン・トゥ・クライ]]'' (1976)
*''[[スローハンド (アルバム)|スローハンド]]'' (1977)
*''[[バックレス]]'' (1978)
*''[[アナザー・チケット]]'' (1981)
*''[[マネー・アンド・シガレッツ]]'' (1983)
*''[[ビハインド・ザ・サン]]'' (1985)
*''[[オーガスト (エリック・クラプトンのアルバム)|オーガスト]]'' (1986)
*''[[ジャーニーマン (アルバム)|ジャーニーマン]]'' (1989)
*''[[ラッシュ (サウンドトラック)|ラッシュ]]'' (1992, soundtrack)
*''[[フロム・ザ・クレイドル]]'' (1994)
*''[[ピルグリム]]'' (1998)
*''[[レプタイル]]'' (2001)
*''[[ミー&Mr.ジョンソン]]'' (2004)
*''[[セッションズ・フォー・ロバート・J]]'' (2004)
*''[[バック・ホーム]]'' (2005)
*''[[クラプトン (アルバム)|クラプトン]]'' (2010)
*''[[オールド・ソック]]'' (2013)<ref>{{cite web |url=https://www.rollingstone.com/music/news/new-eric-clapton-album-old-sock-due-in-march-20130129 |title=New Eric Clapton Album 'Old Sock' Due in March |work=Rolling Stone |date=29 January 2013 |access-date=8 June 2013 |archive-url=https://web.archive.org/web/20130207071225/http://www.rollingstone.com/music/news/new-eric-clapton-album-old-sock-due-in-march-20130129 |archive-date=7 February 2013 |url-status=live }}</ref>
*''[[アイ・スティル・ドゥ]]'' (2016)
*''[[ハッピー・クリスマス (エリック・クラプトンのアルバム)|ハッピー・クリスマス]]'' (2018)
}}
 
===コラボレーション===
== 愛用・使用ギター ==
*''[[ライディング・ウィズ・ザ・キング]]'' (with [[B.B. King]]) (2000)
[[ファイル:Fender Stratocaster Blackie(Tribute Model).jpg|thumb|フェンダー・ストラトキャスター(ブラッキー)]]
*''[[ザ・ロード・トゥ・エスコンディード]]'' (with [[J. J. Cale]]) (2006)
[[ファイル:C.F. Martin 000-28EC Eric Clapton model details.jpg|thumb|マーティン・000-28EC]]
*''[[ザ・ブリーズ~J.J.ケイルに捧ぐ]]'' (by Eric Clapton & Friends) (2014)
ギターコレクターであり、数百本ものギターをコレクションしたりオークションに出している。それらギターの中でもとりわけ使用頻度の高いものを挙げる。
* [[フェンダー・テレキャスター]]
*: 主にヤードバーズ時代に使用していた。またサンバーストのテレキャスターを[[ブラインド・フェイス]]の1969年6月のハイドパーク公演でメインで使用しているのが映像で確認できる<ref>[[Blind Faith]]『[[:en:London Hyde Park 1969 (album)|London Hyde Park 1969]]』(2006、DVD、EAN 0060768842397)</ref>。この個体はネックがストラトキャスターのものに変更されている。
* [[ギブソン・レスポール]]・スタンダード(サンバースト)
*: 1960年製。[[フレディ・キング]]の1954年製レスポール・ゴールド・トップに憧れて購入。[[ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズ]]時代に使用していた。ピックアップのカバーは両方外されている。ピックアップのボビンがフロントはダブルホワイト、リアはダブルブラック。ペグがグローバー。先述の[[ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズ]]時代のアルバム・「BluesBreakers」でレスポールと[[マーシャル (アンプ)|マーシャル]]アンプの組み合わせを確立した。
* [[ギブソン・ES-335]]
*: クリーム時代に使っていた。1964年製。ブロックポジション・インレイ、グローバー・ペグ仕様。2005年にギブソン・カスタムショップから世界限定250本で復刻された。
* [[ギブソン・SG]]
*: ストラトキャスターの前にメインとして使っていたエレクトリックギター。サイケデリックペイントが施されておりクリーム時代に使っていた。ドキュメンタリー映画の中で「レスポールモデルと同じネックで新しいギター。」と呼んでいる。
* フェンダー・ストラトキャスター
*: 何本か所有しているが、とりわけ以前所有していたカスタマイズド・ストラトキャスターの通称'''ブラッキー'''(色はブラック)が有名。<ref group="注">ブラッキーは数本のストラトキャスターの気に入った部分を自分で組み合わせたもの。</ref>その後はフェンダーが開発した自身のシグネチャーモデルやニューヨークで活動するアートディレクター、[[ジョン・メイトス|クラッシュ]]が施したグラフィティ・ペイントのストラト(クラッシュキャスター)を使用していたが、2006年のジャパン・ツアーではニューカラーのメタリックグレー(ピューター)のストラトに持ち替えていた。
*: なお、フィンガービブラートを主として[[ビブラート・ユニット|トレモロ・アーム]]でのビブラートはしない、またアームプレイはしないためトレモロ・アームを外し、トレモロ・ユニット自体も木のブロックをはめ込んで固定してある。([[ジミ・ヘンドリクス]]の[[トリビュートアルバム]]で"Stone Free"を演奏した際には、初めてトレモロ・アームを使用したという)<ref group="注">「フィクストブリッジは好きではない」とのことで、裏面のスプリングの共鳴が彼の音の好みを左右しているものと考えられる。</ref>。ストラトでは、21フレットネックも22フレットネックも使用する。また、シグネチャーモデルは、ミッドブースター回路が特徴である。
* [[マーティン (楽器メーカー)|マーティン]]・[[マーティン・000-28|000-28]]・[[マーティン・000-42|000-42]]
*: アンプラグドで使用したのがビンテージの000-42である。
*: 近年のライブツアーでは、000-28や、自身のオリジナルモデルである000-28ECを主に使っている。マーティンにとっては公式には初めてとなるアーティストモデルのギターでもあった。
*: [[ヘリンボーン (模様)|ヘリンボーン]]・トリムが特徴。
*000-28ECモデルは何度か発売され、Bellezza Neraという真っ黒と真っ白のモデルまで発売されている。
 
== 慈善事業 参照==
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1993年から1997年まで、薬物・アルコール依存者の治療センター「クラウズ・ハウス」のディレクター、役員を務めた。1994年から1999年まで、ケミカル・ディペンデンシー・センターの役員を務めた。この二つの組織は、2007年にAction on Addictionに統合された。
 
==参考文献==
1998年、カリブ海の[[アンティグア]]にクロスロード・センターを設立。薬物とアルコール依存症者の回復を助けるための施設である。この施設への募金を募るために、クロスロード・ギター・フェスティバルを2004年、2007年、2010年、2013年に開催した。
; On Clapton's career:
{{refbegin|30em}}
** Eric Clapton, ''Clapton, The Autobiography'', 2007 and 2008, Broadway Books, 352 pp. / Arrow, 400 pages / Century, 384 pp.
** Eric Clapton, Derek Taylor and Peter Blake, ''24 Nights'', Genesis Publications, 2 volumes, 1992, 198 and 64 pp. <small>Eric Clapton's signed limited edition books, in a Solander box with 2 live CD</small>
** Ray Coleman, ''Clapton!: The Authorized Biography'', Warner Books, 368 pp, or Futura, 336 pages, 1986; originally publ. as "Survivor: The Authorized Biography", Sidgwick & Jackson, 1985, 300 pp.
** Christopher Hjort w/ a foreword by John Mayall, ''Strange brew: Eric Clapton and the British Blues Boom, 1965-1970'', Jawbone, 2007, 352 pp.
** Marc Roberty, ''Eric Clapton: The Complete Recording Sessions 1963-1992'', Blandford or St. Martin's Press, 1993, 192 pp.
** Marc Roberty, ''Slowhand: The Life & Music of Eric Clapton'', Octopus or Harmony, 1991, 176 pp; upd. ed. Crown, 1993, 192 pp.
** Marc Roberty, ''Eric Clapton in His Own Words'', Omnibus Press, 1993, 96 pp.
** Marc Roberty, ''Eric Clapton: The New Visual Documentary'', Omnibus Press, 1990, 128 pp.; rev. ed., 1994, ...pp.; originally publ. as ''Eric Clapton: A Visual Documentary'', 1986, ... pp.
** Marc Roberty, ''Eric Clapton: The Man, the Music and the Memorabilia'', Paper Tiger-Dragon's World, 1994, 226 pp.
** Marc Roberty, ''The Complete Guide to the Music of Eric Clapton'', Omnibus Press, 1995, 152 pp.&nbsp;CD format; rev. ed., 2005, 128 pp.
** Michael Schumacher, ''Crossroads: The Life and Music of Eric Clapton'', Hyperion, 1995, 388 pp.; rev. ed, Time Warner p'backs, 1998, 411 pp.; new ed. titled ''Eric Clapton'', Sphere, 2008, 432 pp.
** Harry Shapiro, ''Eric Clapton: Lost in The Blues'', Guinness Books or Muze, 1992, 256 pp.; rev. ed. Da Capo press, 1193, 225 pp.; originally publ. as ''Slowhand: The Story of Eric Clapton'', Proteus Books, 1985, 160 pp.
** Dave Thompson, ''Cream: The World's First Supergroup'', Virgin Books, 2005, 256 pp.; rev., upd. & illustr. ed. titled ''Cream: How Eric Clapton Took the World By Storm'', 2006, 320 pp.
** Steve Turner, ''Conversations with Eric Clapton'', London: Abacus, 1976, 116 pp.
 
;About Clapton's playing and sound:
== 趣味 ==
** {{cite book|title=Introduction to Guitar Tone & Effects|first=David M.|last=Brewster|chapter=Eric Clapton|page=54|publisher=Hal Leonard Corporation|year=2003|isbn=978-0-634-06046-5}}
[[File:FerrariSP12EC.jpg|thumb|right|200px|フェラーリ SP12EC]]
** {{cite book|title=The Blues-Rock Masters|first1=H. P.|last1=Newquist|first2=Richard|last2=Maloof|page=27|chapter=Eric Clapton|publisher=Backbeat Books|year=2003|isbn=978-0-87930-735-6}}
スポーツカー、その中でも[[フェラーリ]]のコレクターとして世界的に有名で、[[2012年]]にはワンオフモデル(世界に1台の特別注文モデル)の「SP12EC」をフェラーリに発注したことで話題となった。
** {{cite book|title=Gear Secrets of the Guitar Legends|first1=Pete|last1=Prown|first2=Lisa|last2=Sharken|chapter=Eric Clapton|page=6|publisher=Backbeat Books|year=2003|isbn=9780879307516}}
 
;日本語文献:
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** {{Cite book |和書 |first=Eric |last=Clapton |title=エリック・クラプトン自伝 |others=[[中江昌彦]](訳) |publisher=[[イースト・プレス]] |year=2008 |isbn=978-4872578867 |ref={{SfnRef|エリック・クラプトン自伝|2008}} }}
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== 脚注 外部リンク==
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=== 注釈 ===
* {{Official website|http://www.ericclapton.com/}} {{en icon}}
{{Notelist2}}
* {{Rockhall}}
=== 出典 ===
* {{musicbrainz artist|id=618b6900-0618-4f1e-b835-bccb17f84294|name=Eric Clapton}}
{{Reflist|2}}
* {{Discogs artist|Eric Clapton}} {{en icon}}
* {{IMDb name|0002008}}
 
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |first=Eric |last=Clapton |title=エリック・クラプトン自伝 |others=[[中江昌彦]](訳) |publisher=[[イースト・プレス]] |year=2008 |isbn=978-4872578867 |ref={{SfnRef|エリック・クラプトン自伝|2008}} }}
* {{Cite book |last=Welch |first=Chris |title=Clapton - Updated Edition: The Ultimate Illustrated History |publisher=Voyageur Press |year=2016 |isbn=0-7603-5019-1 |ref=harv }}
* {{Cite book |和書 |author=大友博 |title=エリック・クラプトン |publisher=[[光文社]] |year=2011 |isbn=978-4334036553 |ref=harv }}
 
== 外部リンク ==
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* [http://www.whereseric.com/ '''Eric Clapton Portal''' by Where's Eric! The Eric Clapton Fan Club Magazine] {{en icon}}
* [http://www.ericclaptonfaq.com/ '''Eric Clapton FAQ''' - Eric Clapton Frequently Asked Questions] {{en icon}}
* {{Official website|https://www.ericclapton.com/|Eric Clapton Official Website}} {{en icon}}
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* [http://blog.honeyee.com/eric/ 本人によるブログ(ウェブマガジンhoneyee.com内)] {{en icon}}
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* {{MySpace|ericclapton}} {{en icon}}
* [http://www.gingerbaker.com/ New Official Ginger Baker Archive and Drummers forum launched by the Baker family September 2010 with rare Claptopn and Cream unpublished vintage press articles]
* {{instagram|ericclapton|ericclapton}}{{en icon}}
 
 
{{エリック・クラプトン}}