「三湖伝説」の版間の差分

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三湖伝説第二類の縁起では八郎太郎の先祖が[[秋田県]][[大館市]]独鈷の大日堂や[[鹿角市]]小豆沢の[[大日霊貴神社|大日堂]]の別当であるとしている。『十和田由来記』では、八郎太郎の父の出身地は赤子とされ「とっこ」とルビがふられている。『十和田記』ではそれが赤谷とされている。ルビはないものの北沼が近くにあると記されていることから、それが[[大館市]]独鈷の大日堂であることが分かる。十和田信仰の宗派は[[熊野権現]]の[[天台宗]]であるが、秋田藩内にある独鈷の大日堂の宗派は現在[[真言宗]]である。
 
秋田藩はもともと天台宗よりもはるかに真言宗が多かった。それに加えて秋田藩の政策が真言宗派であった。佐竹氏の水戸時代の第15代当主[[佐竹義舜]]の長子である永義は庶腹の子であったので僧籍に入れられた。それを嫌った永義は父義舜の立腹叱責をかえりみず[[今宮神社]]において俗籍にかえり元服し今宮姓を名のる。のちは天台宗の[[聖護院]]につき山伏修験となり、[[水戸藩]]内の山伏に対して役銀をとり、山伏の犯罪を成敗する治外法権的支配権を得た。の長子の光義は跡目相続をして、常州寺山の城主と同時に山伏修験の頭領になった。光義は大和の[[大峯山]]でも修行をして、遂には関東地方全域の頭領の職につき常蓮院と名乗った。[[1602年]][[佐竹義宣 (右京大夫)|佐竹義宣]]が秋田に転封されると光義は62歳で今宮一族を連れて随行し、[[平鹿郡]]増田に住み、まもなく[[角館]]に移り63歳で没した。佐竹氏が秋田に転封されると天台宗の[[聖護院]]は「羽州は遠国であるから関東の山伏支配は不能である」と一方的に関東一円の山伏支配権を取り上げた。佐竹氏は聖護院と断交して真言宗についた<ref>『秋田の山伏修験と密教寺院』、佐藤久治、無明舎出版、[[2009年]]、p.3-5</ref>。
 
独鈷大日堂や小豆沢大日堂と[[だんぶり長者]]伝説と通じて縁が深い岩手県[[二戸市]]浄法寺町の[[天台寺]]は[[915年]]の三湖物語との関連が語られている[[十和田火山]]の大噴火によって成立した可能性が語られている<ref>『十和田湖が語る古代北奥の謎』、校倉書房、「古代北奥への仏教浸透について」、大矢邦宣、p.56-57、[[2006年]]</ref>。また、十和田火山の大噴火が原因となった[[米代川]]の火山灰による白い濁りは、民話ではその[[だんぶり長者]]伝説と結び付けられている。