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製造された松根粗油は、各地に配置された第一次精製工場で軽質油とその他の成分に分け、そのうち軽質油をもとに第二次精製工場で水素添加などの処理を施し他の成分を加えて、航空揮発油を製造する計画であった。第二次精製工場の主力は[[四日市市]]と[[徳山市|徳山]](現[[周南市|周南]])市の海軍第二・第三燃料廠であった。しかし四日市では度重なる[[空襲]]により最終製品の製造には至らず、徳山でも[[1945年]]5月14日から生産された500キロリットルの完成を見たのみである。この松根油確保のために[[谷田部海軍航空隊]]の練習航空隊の学生も借り出されている。この任に予備学生14期として従事した、元鹿屋海軍航空隊昭和隊所属の杉山幸照少尉曰く、当時「こんなものを掘って、いつまで続くもんかなあ……」と思った、と著書で述べている。また作業に動員された軍人や民間人からも疑問に感じたという証言が多く得られている<ref name=kora113s06082301 />。
 
運搬の手間を省くため飛行場内や付近に精製施設を設け近隣の松を運び込んで利用する計画もあった。[[矢吹陸軍飛行場]]では使用する航空機の燃料や機械油を得るため精製施設を建設し、所在する[[矢吹町]]にある大池公園で採取した松ヤニを運び込んで精製を試みた。実用化はされなかったが公園内には現在でも皮を剥がされた松が残っている。[[人吉海軍航空隊]]基地では付近の森の中に精製所を建設していた<ref name=newswitch12847>[https://newswitch.jp/p/12847 熊本の隠れた戦時遺産 山里の旧海軍“秘密基地”] - [[日本工業新聞]]</ref>。さらに、東京の「著名な[[カントリークラブ|クラブのゴルフ場]]」に乾溜装置が据え付けられ、[[コース (ゴルフ)|コース]]内の松根の掘り出し等に進んで参加し模範を示すよう、[[会員]]に対して要請がなされるというケースもあった<ref>コーヘン(1950)218頁</ref>。
 
[[饒村曜]]は[[カスリーン台風]]で山間部の土砂災害が多発したのは、松根油精製のため広範囲に松が伐採され手入れもされなかったことが原因の一つと指摘している<ref>[https://news.yahoo.co.jp/byline/nyomurayo/20170913-00075632/ 荒れた国土と土砂災害 カスリーン台風は、大水害だけの台風ではない(饒村曜)] - [[饒村曜]]</ref>。
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製造された揮発油を航空燃料として使うには追加工程が必要なため、レシプロ機に使われたという公式記録はないが<ref name=harima001 />、「松根油」と書かれたドラム缶を飛行場で見たという証言もあり他の燃料と混合し代用ガソリンとして使用したと推測されている<ref>[http://minamishinshu.jp/news/local/%E9%87%8E%E5%BA%95%E5%B1%B1%E3%81%A7%E6%88%A6%E6%99%82%E4%B8%AD%E3%81%AE%E6%9D%BE%E3%82%84%E3%81%AB%E6%8E%A1%E5%8F%96%E7%97%95%E8%B7%A1%E3%82%92%E7%99%BA%E8%A6%8B.html 野底山で戦時中の松やに採取痕跡を発見] - [[南信州新聞]]</ref>。実際に1945年6-8月頃<ref>高田(1989)125頁によると、沖縄陥落後の頃の出来事。</ref>、北京市の南苑飛行場にあった第5航空軍の第28教育飛行隊では、飛行機の燃料が不足して2,3日に1度の発着をすることしかできなくなっていたため、日本から送られてきた松根油を混ぜた燃料を積んで試験飛行を行い、傾斜角度をつけて旋回したり、垂直旋回したりしたところ、エンジンが詰まり、プロペラが止まったため、部隊長らは相談して「松根油を使うときは、傾斜15度以上の急旋回はすべからず」という珍命令を出した<ref>高田(1989)126-128頁</ref>。高田(1989)の著者で、第28教育飛行隊の操縦者だった高田英夫は、それでは旅客機並みの機体操作しかできず、戦闘機がおとなしい旋回をしていたらたちまち撃ち落とされてしまうと考え、命令を聞いて情けないやら、くやしいやらで腹が立ってきた、と回想している<ref>高田(1989)128頁</ref>。
 
海軍では[[ターボジェットエンジン]]を搭載した[[橘花 (航空機)|橘花]]への使用を目指し、テスト飛行時に松根油を含有する低質油での飛行に成功した<ref name=newswitch12847 />。終戦直前には一定量を確保していたが[[横浜大空襲]]で貯蔵施設が火災に遭い失われたとされる。この火災の黒煙を見た[[昭和天皇]]は[[米内光政]]から松根油が燃えた煙だと聞くと「松根油は農民が苦労して集めたものではないか。至急消すよう」と言ったとされる<ref name=kora113s06082301 />。海軍では[[パルスジェット]]エンジンを搭載した[[梅花 (航空機)|梅花]]への使用を計画していたが機体完成前に終戦となった。<!-- 海軍の当初計画でもテストおよび調整が完了し実戦に投入されるのは1945年(昭和20年)後半の予定であった。 -->
 
戦後残された松根油は民間に放出され代用ガソリンとして使用されており、旧陸軍が放出した無線機の発電用エンジンを使用した[[モペッド]]にも使われていたという<ref>[https://www.webcg.net/articles/-/39439 第32回:本田宗一郎 技術一筋で身を立てた男の夢と美学] - [[カーグラフィック]]</ref>。なお、[[米国戦略爆撃調査団]]および[[シャウプ勧告#日本税制使節団(シャウプ使節団)|シャウプ使節団]]のメンバーとして来日したことのある<ref>コーヘン(1950)12頁</ref>ジェローム・B・コーヘンによると、進駐軍が松根油を[[四輪駆動車|ジープ]]の燃料として試験的に用いてみたところ、数日で[[自動車エンジン|エンジン]]が止まって使い物にならなくなった<ref>コーヘン(1950)215頁</ref>。
 
{{要出典|範囲=戦後、進駐軍が未調整のままの松根油を[[ジープ]]に用いてみたところ、「数日でエンジンが止まって使い物にならなかった」という記述がJ. B. コーヘン『戦時戦後の日本経済』にあるという。なお、海軍の当初計画でもテストおよび調整が完了し実戦に投入されるのは1945年(昭和20年)後半の予定であった。|date=2015年12月}}
 
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* コーヘン(1950): ジェローム・B・コーヘン著, [[大内兵衛]]訳『戦時戦後の日本経済』上巻 [[岩波書店]]、1972年。
* 高田(1989): 高田英夫『陸軍特別操縦見習士官よもやま物語』光人社、1989年。
* 脇(1989): 脇英世「三燃最後の生産物・松根油」脇英世ほか『徳山海軍燃料廠史』第3編第2章、徳山大学総合経済研究所<徳山大学研究叢書7号>、1989年。
* 杉山(1972): 杉山幸照著『海の歌声』行政通信社、1972年。
* 高田(1989): 高田英夫『陸軍特別操縦見習士官よもやま物語』[[潮書房光人|光人社]]、1989年。
*[http://www.shinmai.co.jp/news/20130323/KT130322SJI090011000.php 戦争中の国策「松根油」製造、松本で釜発見] 信濃毎日新聞 2013年3月23日
* 脇(1989): 脇英世「三燃最後の生産物・松根油」脇英世ほか『徳山海軍燃料廠史』第3編第2章、[[徳山大学]]総合経済研究所<徳山大学研究叢書7号>、1989年。
*[http://www.shinmai.co.jp/news/20130323/KT130322SJI090011000.php 戦争中の国策「松根油」製造、松本で釜発見] [[信濃毎日新聞]] 2013年3月23日{{リンク切れ|date=2021年9月}}。
 
== 関連項目 ==