「沖縄国体日の丸焼却事件」の版間の差分
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「国民体育大会開催基準要項」(以下「基準要項」)によると、大会の開始式については[[国旗掲揚]]として[[日の丸|日の丸旗]]の掲揚を必ず取り入れるものとするとされていたが、各競技別の開始式については、競技の開始に先立って簡単な開始式を行うことができ、その方法については別に細則で定めるとされていた{{Sfn|控訴審判決|1996|p=267}}。「国民体育大会開催基準要項細則」(以下「細則」)には、各競技別の開始式について可能な限り簡素なものとし、その内容は、(1)競技会会長開会の挨拶、(2)会場地代表挨拶、(3)大会会長トロフィー返還の3つが定められており、国旗掲揚は取り入れられていなかった{{Sfn|控訴審判決|1996|p=267}}。ただし、これまでの国民体育大会においては、各競技別の開始式でも国旗掲揚を行うことが慣行となっていた{{Sfn|控訴審判決|1996|p=267}}。[[1986年]](昭和61年)[[1月24日]]に沖縄県実行委員会の常任委員会で決定された「沖縄国体開始式・表彰式実施要項」では、基本方針として、各競技会の開始式と表彰式は、「基準要項」・「細則」に基づき、会場地市町村実行委員会が当該競技団体と協議のうえ実施すると定め、式典内容として開始式の中には「国旗掲揚」が取り入れられた{{Sfn|控訴審判決|1996|p=267}}。読谷村実行委員会はこれを受けて、日本ソフトボール協会と協議の上、開始式等の実施要領を定め、その運営に当たることとなった{{Sfn|第一審判決|1993|p=115}}。
1986年(昭和61年)7月、日本ソフトボール協会会長・弘瀬勝は、沖縄国体のリハーサルとして行われたソフトボール大会後のパーティーの席で、日の丸旗の掲揚について問題が起こるかも知れないとの説明を受けた{{Sfn|第一審判決|1993|p=115}}。そこで、弘瀬は山内に対して日の丸旗の掲揚が慣行どおり行えるかどうか確認し、山内から「
上記の事情を知り、弘瀬の強硬な申し入れによって日の丸旗の掲揚を押し付けられたと思った[[知花昌一]]は、日の丸旗の掲揚が行われれば読谷村民の意思が踏みにじられると感じ、開始式で仲間と共に日の丸旗反対を表明する横断幕を掲げ、日の丸旗が掲揚された場合には単独でこれを引き降ろそうという考えに至った{{Sfn|第一審判決|1993|p=116}}{{Refnest|group="注釈"|知花は、[[第二次世界大戦]]中の[[沖縄戦]]において
1987年(昭和62年)[[10月26日]]午前9時頃、知花が[[読谷平和の森球場]]において競技会の開始式の様子を見ていたところ、諸旗掲揚台兼スコアボード(以下「スコアボード」)に設置されたセンターポールに国旗として日の丸旗が掲揚されたのを確認し{{Refnest|group="注釈"|知花は、事前に職員から日の丸旗と共に読谷の非核宣言の旗も上がるという話を聞き、両者を同列に扱うように掲揚されると期待していたが、日の丸旗がメインポールに上がっていたことで、日の丸が勝ち誇っているような、読谷村民の意思を押し潰して嘲笑っているように見えた、と自著で述べている{{Sfn|知花|1996|pp=12-13}}。}}、日の丸旗を引き降ろして再掲揚されないために燃やすことを決め、スコアボードの壁面をよじ登り、センターポールに取り付けられたロープをカッターナイフで切断した上、国旗として掲揚されていた日の丸旗を引き降ろしライターで火をつけ、球場にいる人々に見せつけてから{{Refnest|group="注釈"|知花は、燃えるように日の丸旗を振っただけで見せつける余裕はなかった、と自著で述べている{{Sfn|知花|1996|p=14}}。}}、その場に投げ捨てた{{Sfn|第一審判決|1993|p=116}}。
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