「津田信澄」の版間の差分

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* 信澄は信長の右腕的存在{{sfn|西ヶ谷|2000|p=229}}で、側近としての役割も果たし、[[安土城]]の造営においては総普請奉行である丹羽長秀と共に普請奉行として工事に携わるなど、織田一門の中では叔父の織田信包と共に信長から信任されていた{{sfn|西ヶ谷|2000|p=78}}。
* 織田家では、2度も背いた信長の弟の遺児であったという境遇はほとんど窺えず、その待遇は厚かった。一門衆の序列は第5位であり、信長の嫡子である信忠、信雄、信長の弟の信包、信長の庶子の信孝に次ぐ立場で、信澄の後ろに続くのは信長の弟の[[織田長益|長益(有楽斎)]]、[[織田長利|長利]]であって、破格の待遇であった<ref name="p109"/>。
* 前述のように謀反に荷担したという噂が当時の市中に流れていたわけであるが、信長の厚遇に応えて信澄は忠義を尽くしており、謀反に荷担した様子はなく、光秀に助力しようとした素振りも窺えない<ref name="p109"/>。ただし、謀反に加担していなくても、信長死後の主導権争いにおいて一門衆内部の序列の高い信澄が警戒・排除の対象になった可能性は否定できない
* [[宣教師]][[ルイス・フロイス]]は、信澄の死去にあたり「この若者は異常なほど残酷でいずれも彼を暴君と見なし、彼が死ぬ事を望んでいた」と評している{{refnest|group="注釈"|『[[フロイス日本史]]』による<ref name="p384"/>。}}。同じく『耶蘇会報』でも「甚だしく勇敢だが惨酷」と評し、信澄が2人の罪人を馬に踏み殺させた逸話を記している<ref name="p109"/>{{refnest|group="注釈"|宣教師による厳しい評価は、概ねキリスト教への態度が影響することが多く、{{独自研究範囲|date=2019年9月|信澄が天台宗徒だったことが関係した可能性はある。また、信澄を殺した信孝は、キリスト教に造詣が深いことで宣教師に高く評価されており、信澄を殺害したことで「三七殿は勇気と信用を獲得し、ただちに河内国のあらゆる有力者たちは彼を訪れ、主君として認めるに至った」{{refnest|group="注釈"|『フロイス日本史』<ref name="p385">{{Harvnb|岡田|1999|loc=p.385}}</ref>。}}とフロイスは書いているので、討たれた側の残忍性が強調された面もあろう}}。}}
* [[奈良]][[興福寺]]の[[英俊|多聞院英俊]]は「一段の逸物也」<ref name="p109"/><ref name="p384"/>とその死を惜しんで高い評価を与えており、[[谷口克広]]は信長に似た行動力に富んだ人物だったのではないかとしている。