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=== 歴史 ===
日本においては、[[キリスト教]]圏や[[イスラム教]]圏のような「最後の審判」に備えて遺体の保存を望む信仰や、それに伴う火葬への禁忌・抵抗感の様な概念は乏しい傾向がある。また、江戸期には[[馬車]]が存在しておらず、もしも仮に旅先や遠い奉公先において急死者が出て、その遺体を遠隔地に搬送するとなれば実質的には[[長持]]などを用いて人力に頼らざるを得ず、一般[[庶民]]のレベルでは遺体をそのままの姿で長距離輸送するという考え方も選択肢も存在していなかった。明治以前の数少ない例としては、[[長享・延徳の乱|六角氏征伐]]のために[[近江国]]に在陣中に急死した[[室町幕府]]第9代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義尚]]の遺体を葬儀の開催地である[[京都]]に移すまでの間、遺骸の腐臭を防ぐ目的として口と目と鼻に水銀が注入されたケース<ref>今谷明 『戦国時代の貴族』 講談社学術文庫 2002年 p.241</ref>が知られている。この考えは欧米人によって馬車と牽引用の重種馬<ref group="注">それまでの日本の在来馬は総じて現在のポニーに近い小型のものであり、気性も荒く、馬車の牽引には凡そ適したものではなかった。</ref>が持ち込まれた[[幕末]]から[[明治]]期、そして動力近代化が進んだ明治後期以降も本質的にはあまり変わることなく、戦時中も戦死者は現地で火葬され、戦後もまた長らく、多数の死者が発生した災害や事故では現地で火葬許可を得て早々に荼毘に付して遺骨を持ち帰るという形が一般的であった。長らく土葬習慣が残っていた地域も多いが、これらでも火葬も完全には否定されておらず、火葬の技術の進歩や施設の導入によって急速に土葬が衰退した。したがって死体現象の進行や伝染病の感染リスクが低く日本においては欧米圏の様なエンバーミングの習慣が広まることはなかった。
 
[[2003年]]に「犯罪被害者の遺体修復費用の国庫補助予算」が国会で成立し、海外で[[テロリズム|テロ]]の被害によって死亡した外務官に対し公費で遺体処置が施された。しかし、公費負担による遺体の修復は、国内では[[埼玉県]]などの限られた地域でしか行われていない。また、遺体に対する切開や縫合は認められず、遺体の清拭と[[化粧]]・[[着付け]]の処置範囲に留まり、遺体の創部へは[[絆創膏]]や[[包帯]]でのカバーが行われているために、エンバーミングとは言えないのが現状である(費用も数万円でエンバーミング費用の7分の1程度)。同処置は[[司法解剖]]と死因調査解剖を受けた遺体に限定されることや、都道府県の予算化が進んでいないことも地域が広がらない原因の一つである。