「ピエール・ドリュ=ラ=ロシェル」の版間の差分

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戦後は放蕩三昧の生活をおくり、1921年頃から文学者と交流しはじめ詩集、エッセイ、小説を発表し始めアメリカとソ連が世界の覇権を握ると見抜き、ヨーロッパが対抗するには[[ファシズム]]以外の道はないと考えるようになる。1936年には、ファシズム政党の[[フランス人民党]]に入党するが党首[[ジャック・ドリオ]]に失望して1939年に離党する。同年、フランスがドイツに宣戦布告すると一時的に召集されるがドイツと近すぎることを理由に[[退役軍人]]扱いにされる。身の安全のためにパリを去るがフランスの降伏後は、[[ヴィシー政権]]への協力を決意する。フランス人民党に復党し、1940年12月には旧友の駐仏独大使[[:de:Otto Abetz|オットー・アベッツ]]から要請されて[[新フランス評論]]編集長に就任。同時に[[反ユダヤ主義]]の雑誌に寄稿して主として言論界でファシズムを賛美する活動を続けていた。だが新フランス評論は、同人らの非協力のため、1943年6月に休刊に追い込まれた。
 
ドイツの旗色が悪くなるにつれ自己嫌悪に陥るようになり、1944年にドイツ軍がフランスから引き揚げる時には、同行を断り留まった。秋には毒薬を飲んで自殺を図ったが未遂に終わり治療を受けた後、逮捕状が出ていたため身を隠していた潜伏先のパリで1945年3月、[[レジスタンス運動|レジスタンス]]による復讐を逃れるため自殺した<ref>{{Cite book|和書|author=H・R・ロットマン|year=1985|title=セーヌ左岸|publisher=みすず書房|pages=P.96}}</ref>
 
== 著書 ==
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== 参考文献 ==
*『筑摩世界文学大系72』
 
== 脚注==
<references/>
 
== 外部リンク ==