「核分裂の発見」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
Deer hunter (会話 | 投稿記録) 加筆と修正 |
Deer hunter (会話 | 投稿記録) 推敲 |
||
1行目:
[[ファイル:Nuclear_fission_reaction.svg|右|サムネイル|マイトナーとフリッシュが理論的に導いた核反応。]]
'''[[核分裂反応|核分裂]]の発見'''は1938年12月に化学者[[オットー・ハーン]]と[[フリッツ・シュトラスマン]]、および物理学者[[リーゼ・マイトナー]]と[[オットー・ロベルト・フリッシュ]]らによってなされた。核分裂とは、ある[[原子核]]がそれより軽い複数の原子核に分割され、場合によってその他の粒子も発生するような[[原子核反応|核反応]]もしくは[[放射性崩壊]]をいう。この過程では多くの場合[[ガンマ線]]が発生し、放射性崩壊の基準で言っても莫大な量の[[エネルギー]]が生み出される。当時の科学者はすでに[[アルファ崩壊]]や[[ベータ崩壊]]について知っていたが、核分裂のように原子番号が大きく変わる過程は想定外の発見だった。また核分裂は[[連鎖反応 (核分裂)|連鎖反応]]が可能であること
1938年、[[ベルリン]]の{{仮リンク|マックス・プランク化学研究所|en|Max Planck Institute for Chemistry |label=カイザー・ヴィルヘルム化学研究所}}に所属していたハーンとシュトラスマンは、遅い[[中性子]]を照射
核分裂の発見以前にも、[[放射能]]の正体や性質については40年にわたって研究が行われてきた。1932年に[[ジェームズ・チャドウィック]]が発見した中性子は[[核変換]]の新しい方法を生み出した。[[ローマ]]の[[エンリコ・フェルミ]]とその同僚は、当時知られていた最も重い元素である陽子数92のウランに中性子を照射し、核反応によって陽子数93と94の新元素が生成したと主張した。フェルミは「中性子照射によって新しい放射性元素が生成することを証明し、それと関連して遅い中性子によって引き起こされる核反応を発見した」ことによって1938年の[[ノーベル物理学賞]]を獲得している。しかし、
プロトアクチニウムの最安定同位体の発見者であるハーンとマイトナーはフォン・グローセの説に興味を引かれ、同じ研究所の若手シュトラスマンを加えて問題の核反応過程を研究し始めた。4年間の紆余曲折の末に、フェルミがいう新元素が実は核分裂生成物だったことが明らかになった。この研究は物理学で長らく信じられていた通念を覆し、真の93番元素([[ネプツニウム]])と94番元素([[プルトニウム]])の発見や、ウラン以外の元素による核分裂の発見、ウランの性質における[[ウラン235]]の役割の解明につながった。[[ニールス・ボーア]]と[[ジョン・ホイーラー]]は原子核の[[ベーテ・ヴァイツゼッカーの公式|液滴モデル]]を修正して核分裂のメカニズムを説明した。
46行目:
キュリーらは中性子の放出が止んでからも放射能が残っていることに気づいていた。二人は[[陽電子放出]]という新しい形の放射性崩壊を発見しただけでなく、ある元素を別元素のそれまで知られていなかった放射性同位体に変換し、それによって元の元素が持たなかった放射能を発現させたことになる。核変換の発見により、特定の重元素に限定されていた[[放射化学]]は周期表全体に拡張された{{Sfn|Rhodes|1986|pp=200–201}}{{Sfn|Sime|1996|pp=161–162}}<ref>{{Cite journal|last=Curie|first=Irene|author-link=Irène Joliot-Curie|last2=Joliot|first2=Frédéric|date=15 January 1934|title=Un nouveau type de radioactivité|journal=Comptes rendus des séances de l'Académie des Sciences|volume=198|issue=3|pages=254–256|language=fr}}</ref>。
チャドウィックは、電気的に中性である中性子
[[ファイル:Ragazzi_di_via_Panisperna_cropped.jpg|左|サムネイル|[[エンリコ・フェルミ]]とその研究グループ([[ラガッツィ・ディ・ヴィア・パニスペルナ|パニスペルナ通りの少年たち]])、1934年ごろ。左からオスカー・ディアゴスティーノ、[[エミリオ・セグレ]]、[[エドアルド・アマルディ]]、[[フランコ・ラゼッティ]]、フェルミ。]]
フェルミらはまず水に対して、次に周期表の軽い側から[[リチウム]]、[[ベリリウム]]、[[ホウ素]]、[[炭素]]と流れ作業のように中性子線照射を試していったが、いずれも放射能を示さなかった。[[アルミニウム]]、続いて[[フッ素]]で最初の成功が訪れた。最終的に22種の元素が中性子線照射による[[誘導放射能]]を示した<ref>{{Cite journal|last=Guerra|first=Francesco|last2=Robotti|first2=Nadia|date=December 2009|title=Enrico Fermi's Discovery of Neutron-Induced Artificial Radioactivity: The Influence of His Theory of Beta Decay|journal=Physics in Perspective|volume=11|issue=4|pages=379–404|bibcode=2009PhP....11..379G|DOI=10.1007/s00016-008-0415-1}}</ref><ref>{{Cite journal|last=Fermi|first=E.|author-link=Enrico Fermi|last2=Amaldi|first2=E.|last3=D'Agostino|first3=O.|last4=Rasetti|first4=F.|last5=Segrè|first5=E.|year=1934|title=Artificial Radioactivity Produced by Neutron Bombardment|journal=Proceedings of the Royal Society A: Mathematical, Physical and Engineering Sciences|volume=146|issue=857|page=483|bibcode=1934RSPSA.146..483F|DOI=10.1098/rspa.1934.0168}}</ref>。フェルミが論文の前刷りを送付した一握りの物理学者の中にマイトナーがおり、すぐにアルミニウム、ケイ素、リン、[[銅]]、[[亜鉛]]で追試を行って報告した{{Sfn|Sime|1996|pp=162–163}}。フェルミの論文が掲載された ''La Ricerca Scientifica'' 誌が[[コペンハーゲン大学]]にあるニールス・ボーアの[[ニールス・ボーア研究所|理論物理研究所]]に届くと、そこの物理学者で唯一イタリア語を読めた[[オットー・ロベルト・フリッシュ|オットー・フリッシュ]](マイトナーの甥)は同僚から翻訳をせがまれることになった。ローマのグループは[[希土類元素|希土類金属]]の試料を持っていなかったが、ボーアの研究所では[[ゲオルク・ド・ヘヴェシー]]が{{仮リンク|アウエルゲゼルシャフト|en|Auergesellschaft}}社から提供された希土類金属酸化物を一そろい所有しており、それを使ってド・へヴェシーと{{仮リンク|ヒルデ・レヴィ|en|Hilde Levi}}が実験を行った{{Sfn|Frisch|1979|pp=88–89}}。
54行目:
生成物のうち、半減期13分のベータ放出体はレニウムに似た化学的性質を持っていた。フェルミは当時の周期表に基づいて93番目の元素がエカレニウム(周期表で[[レニウム]]の下に位置する元素)であり、[[マンガン]]やレニウムと似ていると信じていた<ref name="Nature 1934"/>。フェルミは中性子を捕獲したウランが一つ重い陽子数93の元素に転換したと考え{{sfn|ホフマン|2006|pp=129-130}}、1934年6月に『[[ネイチャー]]』誌で発表した<ref name="Nature 1934" />。論文ではそのような重元素の存在が疑問の余地なく立証できたとは書かれなかったが<ref name="Nature 1934" />、「人工的な新元素の合成」は一般にも大きく報じられた{{sfn|ホフマン|2006|p=130}}。フェルミは陽子数93と94の2種類の新元素をそれぞれオーソニウムとへスペリウムと名付けた<ref name="Nature 1934">{{Cite journal|last=Fermi|first=E.|author-link=Enrico Fermi|date=6 June 1934|title=Possible Production of Elements of Atomic Number Higher than 92|journal=Nature|volume=133|issue=3372|pages=898–899|bibcode=1934Natur.133..898F|DOI=10.1038/133898a0|ISSN=0028-0836}}</ref>{{Sfn|Yruma|2008|pp=46–47}}{{Sfn|Amaldi|2001|pp=153–156}}。現在の目からみると、フェルミらが検出した「93番元素」は当時未発見だった[[テクネチウム]]で間違いない。この元素は原子番号が43で、周期表ではマンガンとレニウムの間に位置している<ref name="Discovery of Nuclear Fission"/>。
[[レオ・シラード]]とトマス・A・チャルマーズは、
1934年当時に最先端だった原子核のモデルは[[ジョージ・ガモフ]]が1930年に初めて提唱した[[液滴模型]]である<ref>{{Cite journal|last=Gamow|first=George|author-link=George Gamow|year=1930|title=Mass Defect Curve and Nuclear Constitution|journal=[[Proceedings of the Royal Society A]]|volume=126|issue=803|pages=632–644|bibcode=1930RSPSA.126..632G|DOI=10.1098/rspa.1930.0032|JSTOR=95297}}</ref>。ガモフの単純でエレガントなモデルは[[カール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカー]]によって、[[中性子の発見]]を挟んで1935年には[[ヴェルナー・ハイゼンベルク]]によって、さらに1936年にニールス・ボーアによって洗練されていき、実験事実と非常によく一致した。このモデルでは[[強い相互作用|強い核力]]が[[核子]]を互いに結びつけ、最小体積の形状(球)を作らせる。核力は
== 核分裂の発見 ==
65行目:
[[ファイル:Dahlem_Thielallee_Hahn-Meitner-Bau.JPG|左|サムネイル|ベルリンにある旧カイザー・ヴィルヘルム化学研究所。第二次世界大戦後に[[ベルリン自由大学]]に吸収され、1956年にオットー・ハーン・ビルディングと、さらに2010年にはハーン=マイトナー・ビルディングと改名された{{Sfn|Sime|1996|p=368}}<ref>{{Cite web|title=Ehrung der Physikerin Lise Meitner Aus dem Otto-Hahn-Bau wird der Hahn-Meitner-Bau|publisher=Free University of Berlin|language=de|url=https://www.fu-berlin.de/campusleben/campus/2010/101028_hahn-meitner/index.html|date=28 October 2010|accessdate=10 June 2020|archivedate=3 August 2020|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200803124727/https://www.fu-berlin.de/campusleben/campus/2010/101028_hahn-meitner/index.html}}</ref>。]]
フェルミの主張を批判したのはノダックだけではなかった。{{仮リンク|アリスティッド・フォン・グローセ|en|Aristid von Grosse}}はフェルミ
1935年の初め{{Sfn|ケルナー|1990|p=124}}、ハーンとマイトナーは[[フリッツ・シュトラスマン]]をチームに加えた。シュトラスマンは1929年に[[ハノーファー大学|ハノーファー工科大学]]で分析化学の博士号を取得し<ref>{{Cite journal|last=Friedlander|first=Gerhart|author-link=Gerhart Friedlander|last2=Herrmann|first2=Günter|date=April 1981|title=Fritz Strassmann|journal=Physics Today|volume=34|issue=4|pages=84–86|bibcode=1981PhT....34d..84F|DOI=10.1063/1.2914536|ISSN=0031-9228}}</ref>、ハーンの下で学ぶことが将来の職につながると信じてカイザー・ヴィルヘルム化学研究所に来た。そこでの仕事と同僚は性に合っており、1932年に奨学金が切れた後も留まり続けた。しかし1933年に[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチ党]]がドイツの政権を握ると雲行きが変わってきた
1933年の{{仮リンク|職業官吏再建法|de|Gesetz zur Wiederherstellung des Berufsbeamtentums}}により[[ユダヤ人]]は学術界を含む公務員職から追放された。マイトナーはユダヤ系の血筋を隠していなかったが、いくつかの理由で当初この法の影響を免れていた(1914年より前から職に就いており、第一次大戦中に軍で働いており、ドイツ人ではなくオーストリア国籍であり、さらにカイザー・ヴィルヘルム研究所は政府と産業界の共同経営だった){{Sfn|Sime|1996|pp=138–139}}。しかし第一次大戦での奉仕が前線ではなかったことと1922年まで大学教員資格を得ていなかったことが理由でベルリン大学外部教授の地位からは追われることになった{{Sfn|Sime|1996|p=150}}。カイザー・ヴィルヘルム研究所の主要な出資者の一つ[[IG・ファルベンインドゥストリー|IGファルベン]]の取締役だった[[カール・ボッシュ]]はマイトナーに同所での地位を保証し、マイトナーも留まることに同意した{{Sfn|Sime|1996|pp=138–139}}。反ナチ姿勢を共有するマイトナー、ハーン、シュトラスマンは研究所の中で孤立し、そのぶん三人の間の個人的な絆を強めていった。一方で、研究所の運営業務がハーンやマイトナーの手から離れたことで研究時間が十分取れるようにもなった{{Sfn|Sime|1996|pp=156–157, 169}}。
83行目:
# {{Chem|238|92|U}} + n → {{Chem|239|92|U}} (23 min) → {{Chem|239|93|ekaRe}}
遅い中性子には原子から陽子やアルファ粒子をそぎ落とすほどのエネルギーがないため、(n, γ) 反応が関わっていることには確信が持てた。マイトナーは3通りの分岐がウランの異なる同位体(ウラン238、ウラン235、ウラン234の3種が知られていた)に由来する可能性を考慮した。しかし{{仮リンク|中性子断面積|en|Neutron cross section}}を計算すると値が非常に大きく、最も存在量の多い同位体ウラン238がすべての出発点だとしか考えられなかった。そこでマイトナーは、1922年にハーンがプロトアクチニウムで発見した[[核異性体]]が複数の反応を生んでいると結論付けた(核異性体に物理的説明を与えたフォン・ヴァイツゼッカーは1936年にマイトナーの助手を務め、その後カイザー・ヴィルヘルム物理学研究所に移籍してていた)。プロトアクチニウムの核異性体はそれぞれ異なる半減期を持っており、ウランでもそうだという可能性はあった。しかしその場合、半減期の違いが何らかの機構によって娘生成物や孫生成物に受け継がれていることになり、そこまでいくと根拠が薄弱だと思われた。そしてまた、上に示した (n, γ) 反応の3つ目が遅い中性子でしか生成しない問題があった{{Sfn|Sime|1996|pp=174–177}}。これらを踏まえて、マイトナーは自身の論文の末尾にハーンとはまったく異なる所見を書いている。「この過程
[[ファイル:75th_Anniversary_Discovery_of_Nuclear_Fission_(01311665)_(11049703086).jpg|左|サムネイル| ドイツ博物館の実験台は2013年に核分裂発見75周年を記念して[[ウィーン国際センター]]で展示された。ここでは実験台がレプリカだという説明がなされ、マイトナーとシュトラスマンの写真が目立つ位置に置かれている。]]
その後ベルリンのチームは、シュトラスマンの言によると「ウラン研究の恐怖から立ち直るために」、トリウムの研究に移った{{Sfn|Sime|1996|p=179}}。しかしトリウムがウランより扱いやすいわけではなかった。たとえばトリウムの崩壊生成物の一つ[[トリウムの同位体|ラジオトリウム]] ({{Chem|228|90|Th}}) は放射能が強く、中性子が誘起する弱い放射能を覆い隠してしまう。しかしハーンとマイトナーは、ラジオトリウムの母同位体[[ラジウムの同位体|メゾトリウム]] ({{Chem|228|88|Ra}}) を数年にわたって除去し続けることでラジオトリウムが一掃されたトリウム試料を持っていた。それでもなお、中性子照射による崩壊生成物がトリウム本来の放射性崩壊による生成物と同じ元素の同位体だったことからやはり扱いは困難だった。マイトナーらは三つの異なる崩壊系列を発見し、そのいずれも他の重元素では見られないアルファ放出体だった。マイトナーはここでも複数の核異性体の存在を仮定しなければならなかった。興味深い結果が一つあった。入射中性子のエネルギーが2.5 [[電子ボルト|MeV]]を下回るとこれらの (n, α) 崩壊系列が同時に起きるのだが、エネルギーがそれより高ければ {{Chem|233|90|Th}} を生成する (n, γ) 反応が優位になったのである{{Sfn|Sime|1996|pp=180–181}}。
パリではイレーヌ・キュリーと{{仮リンク|パヴレ・サヴィッチ|en|Pavle Savić}}もフェルミの発見を再現しようと試みており、{{仮リンク|ハンス・フォン・ハルバン|en|Hans von Halban}}やペーター・プライスヴェルクの協力を得て、トリウムへの照射によってフェルミが報告した半減期22分の同位体を生成した。試料からは全部で8つの異なる半減期が見出された。キュリーとサヴィッチは半減期3.5時間の放射
1938年3月12日に起きたドイツの[[アンシュルス|オーストリア併合]]により
=== 解釈 ===
パリのグループは1938年9月に結果を発表した<ref name="Sur les radioéléments"/>。ハーンは半減期3.5時間の同位体を汚染として片づけたが、パリグループが行った実験の詳細と崩壊曲線を見たシュトラスマンは不安に駆られた。そこで自身のもっと効率的なラジウム分離法を用いて
: {{Chem|238|92|U}} + n → α + {{Chem|235|90|Th}} → α + {{Chem|235|88|Ra}}
[[ファイル:Kernspaltung.gif|右|サムネイル|核分裂のメカニズム。中性子が原子核を揺さぶり、伸長させ、二つに割った。]]
11月にハーンはコペンハーゲンへと赴き、ボーアとマイトナーに会った。二人はハーンにラジウム異性体説は到底受け入れられないと告げた{{Sfn|Sime|1996|pp=227–230}}。複数のアルファ粒子の同時放出は考えにくく、また3通りの崩壊列を説明するために核異性体を仮定しなければいけない問題点も残っていた<ref name="Belated Discovery of fission"/>{{Sfn|Sime|1996|pp=221–224}}<ref>{{Cite journal|last=O.|first=Hahn|last2=Strassmann|first2=F.|date=18 November 1938|title=Über die Entstehung von Radiumisotopen aus Uran durch Bestrahlen mit schnellen und verlangsamten Neutronen|journal=Naturwissenschaften|volume=26|issue=46|pages=755–756|language=de|DOI=10.1007/BF01774197|ISSN=0028-1042}}</ref>。マイトナーは書簡でも、
フリッシュは例年のクリスマスをベルリンでマイトナーと一緒に祝うのが常だったが、1938年にはマイトナーがフォン・バールから{{仮リンク|クングエルブ|en|Kungälv}}の家族と過ごすよう招待され、フリッシュにも来るよう勧めた。マイトナーはそこでハーンからの手紙を受け取った。手紙には中性子照射ウランからの生成物の一部がバリウムであることの化学的証拠が書かれていた。バリウムの原子質量はウランより40%小さく、それまでに知られている放射性崩壊の理論ではこれほど大きな原子核質量の差を説明できなかった{{Sfn|Frisch|1979|pp=113–114}}{{Sfn|Sime|1996|pp=235–239}}。にもかかわらずマイトナーはすぐに返事を書いて次のように述べた。「現時点ではそのような真っ二つの分割を仮定するのは非常に難しいように思えますが、核物理の分野では何度もびっくりするようなことに出会ってきましたから、頭から「そんなことあり得ない」とは言えません」{{Sfn|Sime|1996|p=235}}。マイトナーは注意深い化学者であるハーンが初歩的なミスを犯したとは思わなかったが、この結果を説明するのは難しかった。当時信じられていた[[ジョージ・ガモフ]]のアルファ崩壊理論によると、核の直接反応によって原子核の欠片が弾き出されるのは、その欠片が入射粒子からエネルギーを受け取ってポテンシャル障壁を超えることによる。欠片が大きくなるにつれてポテンシャル障壁は高くなるため、そのような崩壊が起きる確率は加速度的に減少する<ref name="Belated Discovery of fission"/>。しかしマイトナーとフリッシュは原子核の液滴模型に基づいて、核が入射中性子から受け取った余分なエネルギーが起こす「振動」が、核を一つにまとめている表面張力に打ち勝つ可能性を見出した<ref name="Belated Discovery of fission"/>{{Sfn|Frisch|1979|pp=115–116}}。
|