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'''ヴァシーリー・ミハーイロヴィチ・ゴロヴニーン'''({{lang|ru|Васи́лий Миха́йлович Головни́н}}、 ヴァシリイ・ミハイロヴィッチ・ゴロヴニン({{lang|en|[[:en:Vasily Golovnin|Vasilii Mikhailovich Golovnin]]}})、[[1776年]][[4月19日]]([[ユリウス暦]]4月8日) - [[1831年]][[7月11日]](ユリウス暦6月29日)<ref>[https://www.britannica.com/biography//Vasily-Mikhaylovich-Golovnin Vasily Mikhaylovich Golovnin Russian naval officer] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>)は[[ロシア帝国]]([[ロマノフ朝]])の海軍軍人、探検家、学者。

== 表記揺れ ==
ゴロヴニン、ゴローヴニン、ゴロブニン、ゴローブニン、あるいはワシーリー・ゴローニン、ゴロウニン、ゴローウニン<ref>山川出版社「詳説 日本史B」</ref>などの表記があり表記揺れが激しい。最も一般的な'''ゴローニン'''は「ゴロヴニン」の「ヴ」の濁点が欠落し「ゴロウニン」と表記されたことによる。
 
==人物・来歴==
1807年から1809年にかけ[[ディアナ号]]で世界一周航海に出て、[[クリル諸島]]の測量を行なう。1811年、軍により[[千島列島]]の測量を命じられ、自らが艦長を務めるディアナ号で[[択捉島]][[国後島]]を訪れる。しかし国後島にて[[江戸幕府|幕府]]役人[[調役奈佐瀬左衛門]]に捕縛され、[[函館市|箱館]]で幽閉される。ゴロヴニーンは幽閉中に[[間宮林蔵]]に会見し、村上貞助や[[上原熊次郎]]にロシア語を教えたりもした。
 
1813年、ディアナ号副艦長{{仮リンク|ピョートル・リコルド|ru|Рикорд, Пётр Иванович}}の尽力により、ロシア側が捕らえた[[高田屋嘉兵衛]]らの日本人を解放するのと引き換えにゴロヴニーンは解放された([[ゴローニン事件]])。帰国後の1816年に日本での幽閉生活を『[[日本幽囚記]]』という本にまとめ、この本は欧州広範囲で読まれた。1825年には日本でもオランダ本から訳された「遭厄日本紀」が出版された。同書は、[[ニコライ・カサートキン]]が日本への[[正教]][[伝道]]を決意するきっかけとなったことでも知られる。1817年から1819年にかけてカムチャツカ号で再度世界一周航海に出た。
 
1823年、海軍主計総監に任命され海軍中将に就任。ロシア初の[[蒸気船]]を含む200以上の船舶を造った。また[[フェルディナント・フォン・ウランゲル]]をはじめとする数々のロシア人探検家たちの良き指導者でもあった。
 
1831年、[[コレラ]]で死去。55歳没。