「鳥羽・伏見の戦い」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
参照エラー
m編集の要約なし
タグ: 2017年版ソースエディター
93行目:
 
==== 第二次長州征伐 ====
翌1865(慶応1)年、討幕派の長州藩士・[[高杉晋作]]が自らの創設した[[奇兵隊]]と[[功山寺挙兵]]を起こし、山口藩庁を武力[[クーデター]]でのっとると皇軍(官軍、幕府軍に反抗<ref name="chosyu" />、続く[[1866年]](慶応2年)6月7日から始まった[[長州征討#第二次長州征討|第二次長州征討]]の最中、同20日、[[薩摩藩]]主・[[島津久光]]・[[島津忠義]]父子は連名で[[内覧]]で[[左大臣]]兼[[関白]]・[[二条斉敬]]へ第二次長州征伐の継続に反対する建白書を提出した。朝議が紛糾するなか、三回目(8月4日)の朝議に召し出された[[禁裏御守衛総督]]兼[[将軍後見職]]・[[徳川慶喜]]は、予てから腹案として温めてきた[[王政復古]]のもとでの[[議会主義]](大政奉還後の諸侯会議の政体論、朝廷での諸[[大名]]合議制)に則り、長州藩への朝廷からの寛大な処置と、諸侯会議による国事の議決を願ったが<ref name=seibatsu1>渋沢栄一・編『昔夢会筆記 徳川慶喜公回想談』第5「長藩の処分につき勝義邦を長藩に遣わし、かつ薩肥越宇の四藩を召し給いし事」。1966(昭和41)年、東洋文庫、平凡社。58頁。</ref>、孝明天皇は幕府(徳川家の政体)へ長州征伐の継続を求め続けた。同月、幕府は長州征伐継続の費用を確保するため[[イギリス]]のオリエンタル・バンクと600万ドルの借款契約を締結していた<ref>関山直太郎『日本貨幣金融史研究』新経済社、1943年。63頁</ref>。8日、前将軍・家茂の[[名代]]として出陣すべき慶喜は朝廷へ参内し孝明天皇から天盃と節刀を賜ったが、いよいよ進発になろうという時、[[肥後藩]]主・細川韶邦らはじめ、討伐する側がみなおびえてしまった報せが届いた<ref name=seibatsu2>渋沢栄一・編『昔夢会筆記 徳川慶喜公回想談』第5「長藩の処分につき勝義邦を長藩に遣わし、かつ薩肥越宇の四藩を召し給いし事」。1966(昭和41)年、東洋文庫、平凡社。57-58頁。</ref>。慶喜はみな兵隊を解散してしまってはいくら節刀を賜っても征伐の功を為すわけにはいかないと熟慮し、王政復古の議会主義に則り、[[薩摩藩]]主の父・[[島津久光]]、前[[越前藩]]主・[[松平春嶽]]、前[[宇和島藩]]主・[[伊達宗城]]、前[[土佐藩]]主・[[山内容堂]]などを残らず呼び寄せ、私を棄ててひとつ国家の為公明正大にに評議を尽してみたい、とのちの[[四侯会議]]を考え、[[水戸藩]]士で[[一橋徳川家]]臣の側近[[梅沢孫太郎]]を使者に、国家の大本について相談したいことがあるから至急、京都へ来てもらいたいと伝えさせた<ref name=seibatsu2 /><ref>渋沢栄一・編『昔夢会筆記 徳川慶喜公回想談』第5「長藩の処分につき勝義邦を長藩に遣わし、かつ薩肥越宇の四藩を召し給いし事」。1966(昭和41)年、東洋文庫、平凡社。58-59頁。</ref>。また慶喜は、「よく考えてみると自分は別に長州を憎んでいるわけではなく、会津藩・桑名藩らはじめ旗下の者もひたすら長州憎しでどこまでもやってしまおうというのではない。ただ、禁門の変で同藩士らがが錦旗(朝廷の天皇)に発砲したとはいうものの決して主人(毛利藩主)の命令というわけではないだろうし、雪冤を望む尊攘の志からやむを得ずおこなったことでもあろうから、その筋さえ立てれば、どのように寛大にしてもよい」と思い、[[長州藩]]側に懇意な者がいる[[幕臣]]・[[勝海舟]]を呼び、彼を交渉役として長州藩が占領済みの場を譲って国許へ兵を引けば「長州は大人しい者だ」との名分が立つので、その意をくんで皇軍(官軍、幕府軍も敵方を寛大に処することで平和裏に終戦に結ぼうとした<ref name=seibatsu3>渋沢栄一・編『昔夢会筆記 徳川慶喜公回想談』第5「長藩の処分につき勝義邦を長藩に遣わし、かつ薩肥越宇の四藩を召し給いし事」。1966(昭和41)年、東洋文庫、平凡社。58-61頁。</ref>。勝が交渉を終えて慶喜のもとへ帰ってくると、「談判相手の長州藩士・[[広沢真臣]]らから丁寧に取り扱われ、長州側は話を聞いて誠に喜びました」といい、長州藩も兵を引きましょうという事になり、ほとんどの兵らを占領地から引いた<ref name=seibatsu3 />。{{要出典範囲|慶喜は14日二条へ出陣を見合わせる内願を提出、16日に勅許された。|date=2021年9月}}
 
20日[[大坂城]]で将軍・家茂が20歳で[[薨去]]した<ref>『孝明天皇紀』巻二百十六。慶應二年八月二十日。16-20頁。</ref>。22日、孝明天皇は将軍・家茂の薨去により、上下(親王から庶民まで)が哀しむ情を察し、長州征伐を一時休止させる勅を出し、慶喜ら征長軍へしばらく戦を休ませたが、同時に「長門国・周防国を支配する長州藩に隣国の境界を侵略した地域を早々に引き払い鎮定するよう取り計らってほしい。また長州藩が朝命に逆らうようなら早々に討ち入りしてほしい」との国書を第二次征長軍の先鋒総督で[[紀伊藩]]主・[[徳川茂承]]へ送った<ref name=komei>『孝明天皇紀』巻二百十六。慶應二年八月二十日。「二十二日 戊申 将軍の薨去を以て上下の哀情を察し勅をして姑く征長の干戈を休めしむ」20-21頁。[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1245508/22 国立国会図書館デジタルアーカイブ]、2021年10月8日閲覧。</ref>。
142行目:
慶応3年[[12月9日 (旧暦)|12月9日]]([[1868年]][[1月3日]])、[[明治天皇]]は[[王政復古 (日本)|王政復古の大号令]]を発し、1.徳川慶喜の将軍職辞職を勅許。2.江戸幕府の廃止、[[摂政]]・[[関白]]の廃止と[[総裁]]、[[議定]]、[[参与]]の三職の設置。3.諸事[[神武天皇|神武]]創業のはじめに基づき、至当の公議をつくすことが宣言された<ref name="mypedia2">[https://kotobank.jp/word/%E7%8E%8B%E6%94%BF%E5%BE%A9%E5%8F%A4%28%E6%97%A5%E6%9C%AC%29-821769 百科事典 王政復古 (日本) (コトバンク)]、2021年10月8日閲覧。</ref>。
 
同日夕刻開かれた[[小御所会議]]で討幕・[[佐幕]]藩公儀政体派両陣営が激しく意見を対立させた。冒頭で司会の公家・[[中山忠能]]が「大政奉還に際し、先ず一点、無私の公平で、はじめに王政の基本を定める公議を尽くすべき」旨を述べ<ref name=teibou>国書刊行会・編『史籍雑纂』苐四(国書刊行会、1911-1912年)「丁卯日記」254頁。</ref><ref>渋沢栄一・著『徳川慶喜公伝』第4巻、第二十九章 大坂城移徙、小御所会議、竜門社、1918(大正7)年、183頁。</ref>、公卿の間で「内府公(内府は内大臣。慶喜のこと)は政権を返上したが、おこなった目的の正邪が弁じ難いため、実績で罪科を咎めるべきだ」との意見がみられると<ref name=teibou /><ref>渋沢栄一・著『徳川慶喜公伝』第4巻、第二十九章 大坂城移徙、小御所会議、竜門社、1918(大正7)年、183頁。</ref>、前[[土佐藩]]主・[[山内容堂]]が大声を発して議論をはじめ<ref>多田好問・編『岩倉公実記』下巻、小御所会議ノ事、157頁。</ref>「速やかに内府公(慶喜公)のほうから朝議にご参与していただくべきだ」と主張<ref>多田好問・編『岩倉公実記』下巻、小御所会議ノ事、158頁。「豊信先ツ議ヲ発シテ曰ク速ニ徳川内府ヲ召シテ朝議ニ参与セシムヘシ」</ref>。[[公卿]]・[[大原重徳]]に「内府公(慶喜)が大政奉還したのは忠誠から出た行動かどうか知れないため、しばらく朝議に参与させない方がよい」と反論されると山内は抗弁し、「今日の(会議参加者の)ご挙動はすこぶる陰険なところが多い。そればかりではなく、凶器をもてあそんで、諸藩の武装させた兵どもに議場を守らせ、わざわざ厳戒態勢をしくにいたっては陰険さが最もはなはだしく、くわしい理由すら分からぬ。王政復古の初めにあたっては、よくよく公平無私な心でなにごとも措置されるべきでござろう。そうでもございますまいば、天下の衆心を帰服させられもすまい。[[元和偃武]]から300年近くも[[天下泰平]]の世を開かれたのは[[徳川氏]]ではござらぬのか。なのに或る朝なれば突然理由もなく、大いなるご功績のあらせられる徳川氏ともあろうおかたをおそれおおくも排斥いたすとはいったい何事なのか。これぞ恩知らずというものではないか。いま内府公(慶喜公)がご祖先からご継承された覇権をも投げうたれ、ご政権をご返上なされたのは政令一途であらせられるからに違いなく、金甌無欠の[[国体]]を永久に維持しようとしたものであらせられます。かの忠誠のほどは、まことこのわたくしなどにも、感嘆をこらえがたいほどだ。しかも、内府公(慶喜公)のご英明の名は、すでに天下にとどろいているのではないのか。一刻でも早く、すみやかに内府公(慶喜公)のほうへ朝議にご参与していただき、<ruby>台慮<rp>(</rp><rt>たいりょ</rt><rp>)</rp></ruby>(貴人の考え)を開陳していただき遊ばされるべきだ。しかるに、2、3の公卿のかたがたはいったいどんなご見識をもってこんな陰険な暴挙をなされる。わたくしにはすこぶる理解しがたい。恐らくではありますが、幼い天皇をだきかかえ<ref>小御所会議時の明治天皇は16歳である。</ref>、この国の権勢を盗もうとたくらむ[[悪意]]でもおありになるのではございますまいか。まこと天下に戦乱の兆しを作るくわだてと申すべきでござろう」と一座を睥睨すると、意気軒高に色を成し主張した<ref name=yodo>国書刊行会・編『史籍雑纂』苐四(国書刊行会、1911-1912年)「丁卯日記」254頁。</ref><ref name=yodo2>渋沢栄一・著『徳川慶喜公伝』第4巻、第二十九章 大坂城移徙、小御所会議、竜門社、1918(大正7)年、183頁。</ref><ref name=yodo3>多田好問・編『岩倉公実記』下巻、小御所会議ノ事、158-159頁。</ref>。[[越前藩]]主・[[松平春嶽]]も「王政を施行する最もはじめのときにあたって、刑罰の名をとって、道徳の方を捨ててしまうのは、はなはだよろしくない。徳川氏にあらせられては200余年の太平の世を開かれた。幕府による天下泰平の功績はこんにちのわずかな罪を償うに余りありましょう。皆さまもよくよく、土佐殿(山内容堂公)のお言葉をお聞きになるべきです」と、山内に歩調をあわせた大論陣を張った<ref name=syungaku1>渋沢栄一・著『徳川慶喜公伝』第4巻、第二十九章 大坂城移徙、小御所会議、竜門社、1918(大正7)年、184頁。</ref><ref name=syungaku2>『大久保利通日記』5巻(慶応3年12月)、414頁。</ref><ref name=syungaku3>国書刊行会・編『史籍雑纂』苐四(国書刊行会、1911-1912年)「丁卯日記」254頁。</ref>。会議に参加していた[[福井藩]]士・[[中根雪江]]による『丁卯日記』によると、[[薩摩藩]]士・[[大久保利通]]が「幕府が近年、正しい道に背いたのははなはだ重罪なだけでなく、このたびの内府公(慶喜公)の処置につきまして、わたしが正否を問いますと、尾張候([[徳川慶勝]])、越前候([[松平春嶽]])、土佐候([[山内容堂]])、おさんかたの無理にお立てになった説をうのみにすべきではございません。事実をみるに越したことはない。まず内府公(慶喜公)の官位をけなしてみまして、所領を朝廷へ収めるよう命じまして(辞官納地)、わずかなりとも不平不満の声色がなく、真実をみることができましたならば、すみやかに参内を命じ、会議に参加していただけばよろしい。もしそれと違って、一点でも要求受け入れを拒んで、あるいはふせぐ気配があったなら、政権返上(大政奉還)はうそいつわりの策略であります。さすれば、実際に官位剥奪のうえ領地も削り、内府公(慶喜公)の罪と責任を天下に示すべきであります」といい、[[公家]]・[[岩倉具視]]は大久保の説に追従しまわりにも採用するようしきりに勧めながら「内府公(慶喜公)の正邪を分かつには、空論で分析をもてあそぶより、実績を見るに越したことはない」と弁論をきわめ、山内や春嶽とおのおの正論と信じるところを主張しあって、会議は決着しなかった<ref name=okubo>国書刊行会・編『史籍雑纂』苐四(国書刊行会、1911-1912年)「丁卯日記」254-255頁。</ref>{{refnest|group="注釈"|なお多田好間・編『岩倉公実記』では岩倉具視側の記述として大久保利通より先に岩倉が発言したとされ、その発言内容に続く山内容堂の反応など細部が異なっているが、高橋秀直『幕末維新の政治と天皇』(2007年)によれば、他の一次史料など同時期の関連史料に共通してみられない『岩倉公実記』での岩倉発言・逸話は、天皇や岩倉の権威を高める目的で岩倉側によっておこなわれた後世の創作とする。}}。この後、会議は休憩に入るが、休憩中に[[薩摩藩]]士・西郷隆盛が「短刀一本があれば片が付く」と刀を示した<ref name=asano>手島益雄・編『浅野長勲自叙伝』平野書房、1937年、84-85頁。</ref>。この西郷の言葉を聴いてから休憩室に入った岩倉<ref name=asano />は「山内容堂がなおも固く前と同じ論陣を張るなら、私は非常手段を使って、ことを一呼吸の間に決するだけだ」と心に期し<ref>多田好問・編『岩倉公実記』下巻、小御所会議ノ事、160-161頁。</ref>、[[広島藩]]主・[[浅野長勲]]へ[[土佐藩]]士・[[後藤象二郎]]を説得するよう依頼した<ref>手島益雄・編『浅野長勲自叙伝』平野書房、1937年、85頁。</ref>。浅野はその様にはからうと「私は岩倉卿の論が事理の当然とします。いま([[広島藩]]士)[[辻維岳]]に命じ、後藤を説得させていますから、しばらくお待ちください。後藤がうなずきませんでしたら、私は飽くまでも土佐殿(山内容堂)に抗弁してやめませんから」と岩倉へ伝えた<ref>多田好問・編『岩倉公実記』下巻、小御所会議ノ事、160-161頁。</ref><ref>手島益雄・編『浅野長勲自叙伝』平野書房、1937年、85頁。</ref>。五藩重臣の休憩室で、後藤は大久保へ山内説に従わせようとしていた。しかしすでに同じ休憩室にいた辻が、浅野の指令をうけて「岩倉説に抗弁すると主君(山内容堂)に不利な結果になる」と遠回しに後藤を諭していたこともあり、大久保はなんらききいれることがなかった<ref>多田好問・編『岩倉公実記』下巻、小御所会議ノ事、160-161頁。</ref>。後藤はそれまで主君・山内の説どおり、「会議参加者一同が陰険なふるまいをやめ、公正にことを決める」よう一所懸命に全員を諭しつづけてきていたが<ref>国書刊行会・編『史籍雑纂』苐四(国書刊行会、1911-1912年)「丁卯日記」255頁。</ref><ref>渋沢栄一・著『徳川慶喜公伝』第4巻、第二十九章 大坂城移徙、小御所会議、竜門社、1918(大正7)年、186頁。</ref>、主君が間接的に命をおびやかされている事に悟ると、今度は山内と春嶽の方を向いて「さきほど殿が申されたまこと立派なご説法は、さも内府公(慶喜公)がはかりごとを企てていらっしゃることをご承知の上で、隠そうとなさっているかのごとく嫌疑されております。願わくばどうかもう一度お考え直されますように」といった<ref name=yodo4>多田好問・編『岩倉公実記』下巻、小御所会議ノ事、160-161頁。</ref>。[[明治天皇]]がすでに席に着き、会議参加者もあつまって議論が再開されると、山内は腹心の後藤にも裏切られ心が折れてしまい、敢えてもう一度論戦を始めようとしなかった<ref name=yodo4 />。再開された議決では岩倉・大久保らの説に決まり、[[有栖川宮熾仁親王]]が天皇の裁可を得た<ref>多田好問・編『岩倉公実記』下巻、小御所会議ノ事、157-161頁。</ref>。
 
こうして[[朝廷]]は、[[内大臣]]・慶喜へ官位返上と、領地からくる収入を[[天皇家]]へ献上するよう命じた。