「能登内親王」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
26行目:
[[天智天皇]]の女系の玄孫であり自身の従甥にあたる[[市原王]](いちはらのおおきみ、いちはらおう)に嫁し、[[五百井女王]]、五百枝王(のち[[春原五百枝]])を生む<ref>『[[続日本紀]]』天応元年(781)2月17日条</ref>。
 
その後、市原王と死別。[[宝亀]]元年([[770年]]、父・白壁王が即位すると、[[内親王]]となり四品に叙せられる<ref>『続日本紀』宝亀元年(770)11月6日条</ref>。[[宝亀]]7年([[776年]])、三品に昇叙<ref>『続日本紀』宝亀7年(776)正月7日条</ref>。
 
天応元年(781年)2月17日、薨去。一品の位を贈られる。内親王の薨去を悲しんだ光仁天皇は、孫の五百井女王・五百枝王を二世王として優遇する詔を発した(本来は五世王であるが、天皇の外孫のため格別に二世王(皇孫)として処遇することにした)<ref>『続日本紀』天応元年(781)2月17日条</ref>。なお、その死後に父の光仁天皇も俄かに病気がちとなり、同年4月に譲位、12月に崩御した。