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しかし[[延暦]]4年([[785年]])、[[造長岡宮使]]・[[藤原種継#藤原種継暗殺事件|藤原種継の暗殺事件]]に連座して[[廃太子|廃され]]、[[乙訓寺]]に幽閉された。無実を訴えるため[[絶食]]し10余日、[[淡路国]]に配流される途中に[[河内国]]高瀬橋付近(現・[[大阪府]][[守口市]]の[[高瀬神社 (守口市)|高瀬神社]]付近)で憤死した(『日本紀略』前編13、桓武天皇、延暦4年〈785年〉9月23-24日)とする。だが、親王の死は次の各説がある。
* 抗議の絶食による死とする説<ref>北山茂夫「藤原種継事件の前後」『日本古代内乱史論』</ref>
* 桓武天皇が、意図的に飲食物を与えないで[[餓死]]させることで直接手を下さずに処刑したとする説<ref>西本昌弘「研究余録 早良親王薨去の周辺」日本歴史学会 編『日本歴史』629号、2000年10月 p.69-74、長谷部将司「〈崇道天皇〉の成立とその展開―九世紀における〈天皇〉の位相―」根本誠二 他編『奈良平安時代の〈知〉の相関』、岩田書院、2015年</ref>。
 
種継暗殺に早良親王が実際に関与していたかどうかは不明である。しかし、東大寺の開山である[[良弁]]が死の間際に、当時僧侶として東大寺にいた親王禅師(早良親王)に後事を託したとされること(『東大寺華厳別供縁起』)、また東大寺が親王の還俗後も寺の大事に関しては必ず親王に相談してから行っていたこと([[実忠]]『東大寺権別当実忠二十九ヶ条』)などが伝えられている。桓武天皇は[[宇佐八幡宮神託事件|道鏡事件]]での僧侶の政治進出の大きさに、弊害と、その原因として全般にまつわる奈良寺院の腐敗があると問題視していた。種継が中心として行っていた[[長岡京]]造営の目的の一つには、東大寺や大安寺などの奈良寺院の影響力排除があった。桓武天皇は種継暗殺事件の背後に奈良寺院の反対勢力を見た。それらとつながりが深く、平城京の寺の中心軸の東大寺の組織の指導者で、奈良仏教界でも最高位にいた早良親王の責任を問い、これらに対して牽制と統制のために、[[遷都]]の阻止を目的として種継暗殺を企てたとの疑いをかけ、事実上の処刑に及んだとする<ref>永村眞『中世東大寺の組織と経営』塙書房、1989年、p.54-55</ref>。