「春原五百枝」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
タグ: Refタグつき記述の除去
26行目:
 
== 経歴 ==
母が[[光仁天皇]]の皇女・[[能登内親王]]であったことから、[[桓武天皇|桓武朝]]初頭の[[天応 (日本)|天応]]元年([[781年]])に皇孫(二世王)としての[[蔭位]]を受け、同母姉妹の[[五百井女王]]と共に[[无位]]から[[従四位|従四位下]]に直叙され、[[侍従]]に[[任官]]する。翌天応2年([[782年]])[[兵衛府|右兵衛督]]に任ぜられ、延暦3年([[784年]])には従四位上に昇叙される。しかし、延暦4年([[785年]])に[[藤原種継暗殺事件]]に巻き込まれて[[伊予国]]への[[流罪]]に処される。
 
しかし、延暦4年([[785年]])に[[藤原種継暗殺事件]]に巻き込まれて[[伊予国]]への[[流罪]]に処される。木本好信はこの背景について、市原王父子が歌を通じて暗殺事件の首謀者とされた大伴家持と親交が深かったこと、同じく首謀者とされた皇太弟[[早良親王]]が母・能登内親王の末弟であることから親交が疑われた可能性があること、光仁天皇の外孫である五百枝王の存在自体が桓武天皇並びに安殿親王(後の平城天皇)の皇位継承に対する潜在的な競争相手とみられたとする<ref>木本好信「藤原種継の暗殺事件と五百枝王」『高岡市万葉歴史館紀要』23号、2011年</ref><ref>木本、2021年、P89-100.</ref>。皇位継承の問題に関しては西本昌弘が批判<ref name=nishimoto>西本昌弘『早良親王』(吉川弘文館〈人物叢書〉、2019年)P111-121.</ref>し、木本が反論<ref>木本、2021年、P101-102・118-126.</ref>している{{Efn|西本説は桓武天皇の即位・早良親王の立太子の時点で[[高野新笠]]が生んだ皇子の子孫による皇位継承が確定したとする見解<ref name=nishimoto/>に基づくのに対し、木本説は桓武天皇の即位後も生母である高野新笠の出自の低さから同じ身分の低い母を持つ異母弟の諸勝王(後の[[広根諸勝]])や既に臣籍降下した[[氷上川継]]さえも皇位継承の競合相手であったとする見解<ref>木本「桓武天皇の皇権確立」『奈良平安時代史の諸問題』(和泉書院、2021年)ISBN 978-4-7576-0976-1 P76-85.</ref>に基づくところが大きい。}}。
 
延暦21年([[802年]])伊予国の[[国府]]周辺に居住することを許され、延暦24年([[805年]])20年ぶりに赦免され帰京する。延暦25年([[806年]])3月の桓武天皇の[[崩御]]直前に本位(従四位上)に復し、天皇の[[大葬]]では[[装束司|御装束司]]を務めるとともに[[誄]]も述べている<ref>『日本後紀』大同元年4月1日条</ref>。同年4月には二世王に復すが、まもなく[[臣籍降下]]を[[上表]]して許され、[[春原氏|春原朝臣]]姓を賜与される。[[平城天皇|平城朝]]では[[武蔵国司|武蔵守]]を務める。