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== 来歴 ==
[[東京市]](現・[[東京都]])生まれ。1952年(昭和27年)4月9日、父の大辻司郎が[[もく星号墜落事故]]で死去した。これを機に高校を休学し、[[板前]]として柳橋の[[料亭]]と[[歌舞伎座]]の地下食堂で働いた。後に[[役者]]の道を志し[[早稲田大学]][[文学部]]演劇科に同級生より2年遅れで入学し、劇団[[自由舞台]]に参加。[[スタニスラフスキー・システム]]を学ぶも、1955年に中退し[[伊志井寛]]に師事。[[新派]]では通行人の端役ながら役作りに工夫を凝らし賞をもらっている。その後[[市川崑]][[監督]]に認められ、1960年[[大映]]に入社。[[テレビドラマ]]や[[映画]]を中心に活躍。脇役や準主役が多いものの抜群の存在感で注目を集めた。その演技力は幅広く、気弱な男から悪の首領、主役を食うほどのヒーロー、時には老婆までを見事に演じ分け「'''[[怪優]]'''」と呼ばれた。
 
[[1963年]](昭和38年)のテレビドラマ『[[赤いダイヤ]]』([[TBSテレビ|TBS]])では一攫千金か無一文か、綱渡りする相場師の生き方を熱演し、[[日本放送協会|NHK]][[アナウンサー]]から[[俳優|女優]]に転じた[[野際陽子]]とともに評判となった<ref>翌年、大辻の役を[[藤田まこと]]に代えて[[東映]]が映画化した</ref>。また映画では[[大映]]や[[東映]]を中心に多くの名作に出演した。
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女性遍歴も多く、中学の同級生だった最初の妻とは20歳で学生結婚するも7年後に離婚。大辻は子供への償いは[[異母兄弟]]を作らないことだと考え、[[不妊手術#男性|パイプカット]]の手術を行っている。だが、それが災いして2度目の妻とも離婚した。
 
[[通夜]]に参列した[[加藤嘉]]は「喧嘩っ早い、仕事をすっぽかす、借金をする、女房はとっかえる。そんな評判だけを背中に負わせてはつらい。大辻は本気で仕事をしようとしていたふしがある。常に自分をギリギリのところに立たせていないと[[芝居]]ができないと思っていた奴だ。彼は仕事が始まる初日には背広にネクタイをキチッとしめ挨拶をする男だった」と言っている。
 
大辻の死から5日後の5月26日、[[文京区]]の[[寂円寺]]で「大辻伺郎を偲ぶ会」が開かれ、[[伴淳三郎]]、[[小松方正]]、[[藤村俊二]]をはじめ、[[早稲田大学]]演劇科時代の友人らが駆けつけた。
 
担任によると、「よく人の面倒を見る男で家出した友達を探すために突然学校を休んだので、“警察に任せておけばいいじゃないか”と言うと彼は、”だって先生、かわいそうじゃないか“と言った。そういう優しい男でした」と語っている。
 
[[勝新太郎]]は「金なんか残さなくてもいい、世間的な常識もいらない。役者は芸さえあれば、と言いたいがそれが通用しない世の中になった。彼のように鍛えこんだ芸がいくらあっても、ポッと出の新人にペコペコ頭を下げなきゃならないこともある。それをまた彼は神経が細かいだけにオーバーなくらいにやってしまう。今度のことはそういう自分が見えてきて何もかも嫌になっちゃったんだろう」と語った。
 
[[三國連太郎]]は大辻の死に触れ、「私は大辻さんに学ぶことが多かった。あの才能にはジェラシーを感じたこともある。もうちょっと長生きしていたら……」と惜しんだ。
 
[[通夜]]に参列した[[加藤嘉]]は「喧嘩っ早い、仕事をすっぽかす、借金をする、女房はとっかえる。そんな評判だけを背中に負わせてはつらい。大辻は本気で仕事をしようとしていたふしがある。常に自分をギリギリのところに立たせていないと[[芝居]]ができないと思っていた奴だ。彼は仕事が始まる初日には背広にネクタイをキチッとしめ挨拶をする男だった」と言っている。
[[勝新太郎]]は「金なんか残さなくてもいい、世間的な常識もいらない。役者は芸さえあれば、と言いたいがそれが通用しない世の中になった。彼のように鍛えこんだ芸がいくらあっても、ポッと出の新人にペコペコ頭を下げなきゃならないこともある。それをまた彼は神経が細かいだけにオーバーなくらいにやってしまう。今度のことはそういう自分が見えてきて何もかも嫌になっちゃったんだろう」と語った。
 
大辻の死から5日後の5月26日、[[文京区]]の[[寂円寺]]で「大辻伺郎を偲ぶ会」が開かれ、[[伴淳三郎]]、[[小松方正]]、[[藤村俊二]]をはじめ、[[早稲田大学]]演劇科時代の友人らが駆けつけた。
 
== 出演作品 ==