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|画像キャプション = 鹿野山を南南東に位置する[[:ja:高宕山|高宕山]]より望む
|標高 = 379
|座標 = {{ウィキ座標2段度分秒|35|15|20|N|139|58|18|E|region:JP-12_type:mountain_scale:25000|display=inline}}<ref>{{Cite web|url=https://www.gsi.go.jp/kihonjohochousa/kihonjohochousa41152.html|title=千葉県の山|publisher=国土地理院|accessdate=2020-04-08|}}</ref>
|所在地 = {{JPN}}<br />[[千葉県]][[君津市]]
|山系 = [[房総丘陵]]
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== 概要 ==
鹿野山は[[房総丘陵]]の一角を成し、[[愛宕山_(南房総市)|愛宕山]]に次いで千葉県で2番目に高い山で、[[南房総国定公園]]に指定されている。[[上総国|上総地方]]の[[最高峰]]である<ref name="kadokawa">*角川日本地名大辞典編纂委員会『[[角川日本地名大辞典|角川日本地名大辞典(12.千葉県)]]』、[[角川書店]]、[[1984年]]</ref>。鹿野山とは、白鳥峰(東峰、379m)・熊野峰(中央峰、376m)・春日峰(西峰、352.4m、1等[[三角点]])の3峰の総称である。白鳥峰の直下には久十九谷展望公園、熊野峰の直下には[[神野寺 (君津市)|神野寺]]、春日峰には[[国土地理院]]の測地観測所がある。
 
== 山名の由来 ==
山名の由来は、[[鹿]]が多くいたことから[[サールナート|鹿野苑]]にちなんで名づけられたという説や、[[砂鉄]]が採れたので「金生山」と呼ばれていたという説などがある。当山を構成する3峰の名称は、それぞれの山頂に[[白鳥神社 (君津市)|白鳥神社]]・[[熊野神社]]・[[春日神社]]が祀られたことに由来する。
 
== 人間史 ==
[[ヤマトタケル|日本武尊]]が東征の際訪れ、[[先住民]]の[[豪族]]の阿久留王(あくるおう、「[[悪路王]]」ともいわれる)と戦い征伐したという伝説がある。[[598年]]、[[聖徳太子]]により神野寺が開山され、その後[[修験道]]の山として、また[[上総国]]と[[安房国]]を結ぶ[[街道]]の町として栄えた。
 
鹿野山は平地から視認しやすく、[[国立天文台|旧・東京天文台]]から[[日本経緯度原点]]の方向の基準である原方位を定めるために、[[1879年]]には日本最初の[[三角点|一等三角点]]が山頂に置かれた。その後も[[2001年]]の[[測量法]]改正まで原方位とされていた<ref>[http://www.gsi.go.jp/kanozan/kengaku_sankaku.html 国土地理院による解説]</ref>。[[1956年]]には[[国土地理院]]の測地観測所が設置され、[[地磁気]]<ref>[https://www.gsi.go.jp/buturisokuchi/menu02_index.html 地磁気を測る] 国土地理院</ref>や[[人工衛星]]の観測などが行われている<ref>{{Cite journal|和書|author=石川甲子男 |title=鹿野山における地磁気経年変化の局地性 |journal=測地学会誌 |ISSN=0038-0830 |publisher=日本測地学会 |year=1980 |volume=26 |issue=1 |pages=50-58 |naid=130004069975 |doi=10.11366/sokuchi1954.26.50 |url=https://doi.org/10.11366/sokuchi1954.26.50}}</ref>。なお、地磁気観測は房総西線の直流雹化により支障を生じたため、観測機器の改良などを実施した<ref>{{Cite journal|和書|author=田島稔, 瀬戸孝夫 |title=地磁気観測の計数化処理について |journal=測地学会誌 |ISSN=0038-0830 |publisher=日本測地学会 |year=1970 |volume=15 |issue=4 |pages=150-157 |naid=130004189036 |doi=10.11366/sokuchi1954.15.150 |url=https://doi.org/10.11366/sokuchi1954.15.150}}</ref>。[[1960年代]]、[[マザー牧場]]と[[ゴルフ場]]がオープンし観光の山となった。
 
南側斜面は地盤が弱く、1970年梅雨時の豪雨などによりたびたび崩壊している<ref>{{Cite journal|和書|author=古谷尊彦, 大倉博 |title=房総半島鹿野山周辺地域の斜面崩壊の地形・地質的特性 |journal=地すべり |ISSN=0285-2926 |publisher=日本地すべり学会 |year=1992 |volume=28 |issue=4 |pages=29-36 |naid=130001009463 |doi=10.3313/jls1964.28.4_29}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=小平哲夫, 中村徹 |title=鹿野山山腹崩壊地の植生 : 緑化工事跡地の初期の植生発達 |journal=森林立地 |ISSN=0388-8673 |publisher=森林立地学会 |year=1982 |volume=24 |issue=2 |pages=22-28 |naid=110008146489 |doi=10.18922/jjfe.24.2_22 |url=https://doi.org/10.18922/jjfe.24.2_22}}</ref>。
 
== 文学 ==
* 1922年に[[大町桂月]]が鹿野山<ref>[http://www.aozora.gr.jp/cards/000237/files/48430_33552.html  『鹿野山』]</ref>を執筆。
* 作家の[[志賀直哉]]は、[[学習院高等科]]在籍中に友人ら鹿野山を訪れ、そのときの感動から、1907年に一人で滞在した鹿野山の旅館「丸七」で『菜の花と小娘』を執筆。アンデルセンの童話に影響されて書いた作品で、のちに妻の名で婦人雑誌の懸賞童話に応募したが落選、その後子供雑誌から原稿依頼があり、本作を提供し懸賞の数倍の原稿料を得たという。志賀の友人である[[里見弴]]も「丸七」で『お峯』を執筆<ref>[https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/1237/1/bungeikenkyu_80_101.pdf {{Cite journal|和書|author=冨澤成實 |title=志賀直哉菜の花と小娘」-第三の処女作の位相]宮越勉、[[』とアンデルセン |journal=明治大学]]教養論集 |ISSN=0389-6005 |publisher=明治大学教養論集刊行会 |year=2015 |month=jan |volume=504 |pages=67-85 |naid=120005844865 |url=https://hdl.handle.net/10291/18089}}</ref>
 
== 文学碑 ==
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== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
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* [[神野寺 (君津市)|神野寺]]
* [[マザー牧場]]
* [[佐貫町駅]]
* [[南房総国定公園]]