「江川卓 (野球)」の版間の差分

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[[1973年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1973年秋のドラフト会議]](11月20日開催)で[[上田利治]]新監督率いる[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]から1位指名を受けるが、入団を拒否している。
 
江川は阪急の1位指名を蹴り、[[慶應義塾大学]]1校に進路を絞って受験したが、不合格となった。慶應大学不合格はこの日のNHKなど各テレビ局の昼のニュースのトップで報じるなど大きな話題となった。一高校生の大学受験結果がテレビのトップニュースになることは極めて異例のことである。慶應大学以外を併願受験していなかった江川はその後、[[法政大学]][[法学部]]第二部法律学科を受験し、合格した(のちに一部へ転籍)。江川は慶應大学不合格について、「日本史で、過去の出題傾向から明治以降を完全に捨ててかかったら、その年に限って近代史の問題が多く出題された」と分析している{{Sfn|されど江川 (1991)|pp=60-61}}。一方で、この当時、私立大学不正入学問題(1968年・[[早稲田大学政治経済学部]]、[[南山大学]]、1971年・[[愛知医科大学]]、1973年・[[福岡歯科大学]]、さらに江川より後になるが1976年・[[慶應義塾大学大学院商学研究科・商学部|慶應大学商学部]]、1977年・[[中央大学]][[商学部]]、1978年・[[松本歯科大学]]、さらには自殺者まで出した1980年・[[早稲田大学大学院商学研究科・商学部|早稲田大学商学部]]など)が立て続けに明らかになった。こうした私立大学入学に関する時代背景から世間やマスコミの中には少なからず疑心暗鬼の空気があった。ここで慶應大学1校に絞っていた江川を入学させると、江川と慶應大学との間に裏取引があったのではと疑われる可能性があることから、「例年なら野球部セレクションによる加点があるが、この年に限って加点が行われなかった」という説がある。実際、この年の慶應大学は、慶應大学進学を強く熱望した[[堀場秀孝]](一浪後[[慶應義塾体育会野球部|慶大]]→[[プリンスホテル硬式野球部|プリンスホテル]]→[[広島東洋カープ|広島]])、[[中尾孝義]](一浪後[[専修大学硬式野球部|専大]]→[[プリンスホテル硬式野球部|プリンスホテル]]→[[中日ドラゴンズ|中日]])などの有力選手も相次いで異例の不合格としている{{Sfn|されど江川 (1991)|pp=56-58}}。
 
=== 大学時代 ===