「蕭匹敵」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
テンプレート追加、リンク・カテゴリ修正
1行目:
{{基礎情報 中国順承郡王
'''蕭匹敵'''(しょう ひつてき、[[996年]] - [[1031年]])は、[[遼]](契丹)の[[政治家]]・[[軍人]]。またの名は昌裔。[[字]]は蘇隠。
|名=蕭匹敵
|代数=
|称号=蘭陵郡王
|画像=
|画像サイズ=
|説明=
|王朝=[[遼]](契丹)
|家名=契丹蕭氏
|在位期間=
|全名=
|字=蘇隠
|小字=
|官職=殿前都点検
|諡号=
|生年=[[統和]]14年([[996年]])
|生地=
|没年=[[景福 (遼)|景福]]元年([[1031年]])
|没地=
|父親=[[蕭恒徳]]
|母親=趙国公主?
|后妃=韓国長公主
|子女=
|注釈=
}}
'''蕭 匹敵'''(しょう ひつてき、[[996年]] - [[1031年]])は、[[遼]](契丹)の[[政治家]]・[[軍人]]。またの名は昌裔。[[字]]は蘇隠。
 
== 経歴生涯 ==
[[蕭恒徳]]の子として生まれた。母は趙国公主{{仮リンク|耶律延寿女|zh|耶律延壽女}}([[景宗 (遼)|景宗]]の三女)と考えられる。生まれて1月も経たないうちに、父母両親ともに相次いで死去し、後宮で育てられた。成長すると、韓国長公主(秦晋王{{仮リンク|耶律隆慶|zh|耶律隆庆}}の長女、[[聖宗 (遼)|聖宗]]の弟の秦晋王[[耶律隆慶]]の娘)を妻に迎え、{{仮リンク|駙馬|zh|驸马}}[[都尉]]に任じられ、殿前副点検となった。[[開泰 (遼)|開泰]]8年([[1019年]])、{{仮リンク|北面官|label=北面|zh|北面官}}林牙に転じた。[[太平 (遼)|太平]]4年([[1024年]])、[[{{仮リンク|殿前都点検]]|zh|殿前都点检}}となり、国舅{{仮リンク|詳穏|zh|詳穩}}として出向した。太平9年([[1029年]])、[[東京[[遼陽府]]で[[大延琳]]が乱を起こすと、匹敵は[[南京析津府|南京]][[留守官|留守]]の[[蕭孝穆]]とともに乱の鎮圧にあたった。遼陽府の城の外に重ねて城壁を築き、包囲すること数カ月、城中敵将楊詳世が内応してきて大延琳が捕らえられ、乱が平定されると、匹敵はその功績により蘭陵郡王に封じられた。
 
太平11年([[1031年]])聖宗が病に倒れると、[[欽哀皇后]]匹敵は[[仁徳蕭皇后]]と険悪で、匹敵は仁徳皇后と親しかったことから、仁徳皇后と険悪だった[[欽哀皇后]]に憎まれた。欽哀皇后は護衛の馮家奴に匹敵と{{仮リンク|蕭浞卜|zh|蕭浞卜}}(仁徳皇后の弟の蕭浞卜とが反乱を計画していると誣告させた。韓国長公主がのことを聞きつけると、た韓国長公主から[[女真|女直]]に亡命するように匹敵に勧められたが、匹敵は「朝廷がどうして流言飛語をもとに忠良を害したりするものか。死んだとしても他国に行くことはない」と言って拒絶した。聖宗が崩じて欽哀皇太后が[[興宗 (遼)|興宗]]の摂政となると、匹敵は殺害された。
 
== 伝記資料 ==
10 ⟶ 35行目:
 
{{DEFAULTSORT:しよう ひつてき}}
[[Category:遼代の人物]]
[[Category:蕭氏 (契丹)|ひつてき]]
[[Category:遼代の人物]]
[[Category:996年生]]
[[Category:1031年没]]