「バーク・ウィルズ探検隊」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m Botによる: {{Normdaten}}を追加
21行目:
探検隊には大量の備品が支給された。6トンの燃料用木材、2年分の食糧、[[スギ]]材で表面を覆った[[オーク]]の野営用テーブルと2つの椅子、のろし、旗、中国製の銅鑼である。備品全ての重さは20トンにもなった[http://bulletin.ninemsn.com.au/bulletin/EdDesk.nsf/0/561eeb20413f1e3eca256b110014ba20?OpenDocument]。隊員フランシス・カデルが備品を船で[[アデレード]]から輸送させ、[[マレー川]]と[[ダーリング川]]で陸揚げすればよいと進言したが、バークは取り上げることなく、全てを6つの馬車に積み込んだ。一つの荷馬車がロイヤル・パークを発ってすぐ、初日の真夜中にメルボルンの端エッセンドンに到着したばかりの時に壊れた。エッセンドンではさらに2台壊れた。激しい雨と悪路でビクトリア州を通過するのは困難で、時間を浪費することとなった。隊は1860年9月6日に[[スワン・ヒル]]に到着した。そこで隊は一部の備品と隊員数名を残した。9月24日のギャンバラで、バークはラクダに食糧の一部を運ばせることに決め、そのため数人の隊員が残りの行程を歩くことになった。10月初旬にビルバーカで、バークが60ガロンの[[ラム酒]]の廃棄を決めたことから副隊長ランドルズと口論となった(ランドルズはこのラム酒が奥地でラクダの健康を保つのに必要だと主張していた)。ダーリング川沿いのキンチェガで、ランドルズは隊の外科医ヘルマン・ベックラーに伴われて隊から離脱した。補佐のウィルズが副隊長となった。
 
1859年7月、南オーストラリア植民地政府は、オーストラリア大陸南北縦断を成し遂げた者に2,000ポンド(2003年のレートに換算して約230,000[[オーストラリア・ドル|豪ドル]])の報奨金を出すと発表した。経験を積んだ探検家[[{{仮リンク|ジョン・マクドゥアル・スュアート]]|en|John McDouall Stuart}}がこれに挑戦した。バークは、ステュアートが先に北岸に到達するかも知れないと焦り、ゆっくりした行程に我慢ができなくなっていた。隊が10月12日にメニンディーに到着したとき、バークは隊を分けて、自身を含む8名を選んで[[クーパーズ・クリーク]]へ早く到達する計画をたてた。残る隊員には、後から大陸縦断を目指す者が通りかかったら捕まえて待つよう命じた。隊は10月19日にメニンディーを出発、補佐に選ばれたウィリアム・ライトがガイドをした。トロウォット湿地でライトはメニンディーへ引き返して残りの隊員と合流し、バークはクーパー・クリークへ進んだ。
 
== クーパー・クリーク ==
93行目:
 
一方で、悲劇に終わった探検は決して無駄ではなかった。オーストラリア内陸部の理解が深まり、そこには内海はないと証明されたのである。さらに重要なことは、大陸の別々の場所から送られた救助隊により、広範囲の地勢が明らかとなった。
[[ファイル:John McDouall Stuart (Portrait).jpg|サムネイル|ジョン・マクドゥアル・スチュアート]]
 
1862年、記念碑が[[キャッスルメイン]]の町を見下ろす場所に立てられた。そこはかつて探検隊を率いる前、バークが駐在した場所であった。一方、同年[[7月24日]]にはジョン・スチュアートが6回目の探検の末に現在の[[ダーウィン (ノーザンテリトリー)|ダーウィン]]東部の砂浜に到達し、[[12月17日]]に一人の犠牲者も出さずに[[アデレード]]に帰還した。ただし彼らは[[壊血病]]に冒されていたうえ、スチュアート自身は右目の視力を失っていた。その後、彼はイギリスに帰国し1866年に亡くなった。