「松本たかし」の版間の差分

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満5歳より能の修業を始める。[[千代田区立お茶の水小学校|錦華小学校]]卒業後、在宅で[[漢学]]や[[国文学]]を学びつつ能の修行に専心するも、1920年に14歳で肺尖カタルと診断される。[[静岡県]]静浦にて療養中、病床を見舞った父が残していった「[[ホトトギス (雑誌)|ホトトギス]]」を読んで俳句に興味を持ち、1922年に父の能仲間の句会「七宝会」に参加。翌年より俳句を[[高浜虚子]]に師事する。
 
1924年より[[神経衰弱 (精神疾患)|神経衰弱]]に悩むようになり、1926年、療養を兼ねて[[鎌倉市]][[浄明寺 (鎌倉市の地名)|浄明寺]]に移住。6月に療養中の句が「ホトトギス」に4句入選し、これを機に能役者になることをほぼ諦め俳句に専心するようになる。1929年、「ホトトギス」巻頭を取り23歳で同人に推される。この頃より派遣看護婦であった高田つやと夫婦生活に入った。1931年、[[川端茅舎]]、[[高野素十]]と知り合い親交を結ぶ。1935年には父が脳溢血で死去し生活が困窮するが、虚子から与えられた仕事が生活の支えとなった。
 
1945年、[[岩手県]][[稗貫郡]]へ疎開。10月に島村茂雄の誘いで上京し、1946年に島村の援助をうけて「笛」を創刊・主宰。上京後は[[杉並区]][[久我山]]に定住した。その後「笛」に「茅舎研究」を連載。1948年には能の師であった[[宝生九郎]]をモデルにした伝記小説『初神鳴』を「苦楽」に発表。この小説はのちに映画化された(1953年、[[伊藤大輔 (映画監督)|伊藤大輔]]監督による『獅子の座』)<ref>『松本たかし』 161頁</ref>。1954年、第四句集『石魂』(笛発行所、1953年)にて第5回[[読売文学賞]](詩歌俳句賞)を受賞。