「寄進地系荘園」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
m編集の要約なし
4行目:
班田収授制とそれに支えられた[[公地公民制]]は[[10世紀]]には解体が進み、[[11世紀]]後期には田地をはじめとする全ての土地が私領化した。私領になった土地は処分の自由が認められる一方で、公地公民制の解体で不可能となった人身的賦課([[庸]][[調]])の代替となる租税の賦課対象とされた。そのため、私領に対する賦課を強化する[[国司]]([[受領]])側と私領の所有者として新たな負担を課されることになった有力農民([[富豪層]])との間で対立が生じた。このため、有力農民は伝手を求めて有力貴族や寺社に接近し、自己の私領を彼らに寄進を行い、私領の保護と引換にこれまで国司に納めていた[[官物]]・[[雑役]]を[[年貢]]・[[公事]]の名目で被寄進者に納めることで国司の圧迫を逃れようとした。これらは結果的には国家による租税収取権限の割譲をもたらし、更には領域的な広がりを持って寄作者以外の領域内の住民に対する支配にも及び最終的には[[不入の権 (日本)|不入の権]]を口実とした行政権限の一部割譲にまで至った。これが寄進地系荘園の始まりである。古くはこうした荘園は[[摂関政治期]]から存在すると考えられていたが、近年では当該期の荘園の形態が寄進地系荘園が持つ代表的な特徴である「田地に対する[[不輸の権 (日本)|不輸]]」「寄作者に対する[[雑役免]]」など国家による租税収取権限の割譲までには至らない初期荘園の延長として捉えられるようになり、もっぱら、[[院政期]]以後の荘園に対してこの概念が用いられるようになっている。
 
被寄進者となった貴族や寺社は「[[領家]]」と称せられた。ただし、寄進の有効性を判断するのは国司の役割とされていたため、領家の政治力と国司の政治力の力関係によっては租税の免除が認められない場合があった。そこで領家は[[院宮]]や[[摂家]]などより上位の[[権門勢家]]に更に寄進を行うことで国司に対抗しようとした。一方、権門勢家側も[[封戸]]・[[位田]]・[[職封]]などの律令制に基づく俸禄システムの解体によって荘園獲得にその収入を求めざるを得なくなり、荘園整理令における現状追認の姿勢も相まってこうした寄進を受け入れるようになっていった。このような上位の被寄進者を[[本所]]または[[本家]]と称した(本所は法的な所有権と[[荘務権]]が認められている者、本家はそれを満たさない者を指す)。こうして荘園の構造は有力農民から転じて[[下司]]・[[公文]]などの[[荘官]]の地位に就いた[[在地領主]]と領家・本所からなる重層的なものになり、[[職の体系]]が確立されるようになった。また、国司に承認された荘園でも中央の[[荘園整理令]]の対象になるのを避けるために中央の[[官司]]([[太政官]]・[[民部省]])の承認を得ることが行われた([[官省符荘]])。
 
古く([[中田薫 (法学者)|中田薫]]以後)は在地領主が現地における荘務権を確保して領家や本家は一定の[[得分]]を確保するのみの存在と考えられていたが、戦後の[[永原慶二]]の研究によって在地領主の権力や得分は強力ではなく、荘務権や得分も本家に集中して本所化する例が多かったことが知られるようになった。また、近年では「寄進地系荘園」という呼称に対して批判も多く、それに代わる呼び方が用いられる場合も出てきている。例えば、初期荘園や墾田地系荘園にも寄進地を伴う荘園が存在するがその内容は院政期以後の荘園と明らかに異なること、在地領主による寄進が必ずしも土地の所有権ではなくその周辺の受益権などの寄進が行われる場合もあることなどから、「寄進型荘園」と呼ばれる場合がある<ref>安田「寄進型荘園」『国史大辞典』</ref>。また、院政期以後の荘園は[[四至牓示]]とその後の[[公験]]作成によって領域が明確化されるという点でそれ以前の荘園とは異なっていることから、「領域型荘園」と呼ばれる場合もある<ref>鈴木「寄進地系荘園」『日本古代史事典』</ref>。