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| 在位 = [[元符]]3年[[2月10日 (旧暦)|2月10日]]<ref>『宋史』巻19, 徽宗紀 元符三年二月丁未条による。</ref> - [[大観 (宋)|大観]]2年[[9月26日 (旧暦)|9月26日]]<br />([[1100年]][[3月22日]] - [[1108年]][[11月1日]])
| 戴冠日 =
| 別称号 =
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| 配偶者1 = [[徽宗]]
| 配偶者2 =
| 子女 = [[欽宗]]<br />[[趙金奴]](栄徳帝姫)
| 氏族 = <!--出身氏族-->
| 家名 =
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'''顕恭皇后'''(けんきょうこうごう、[[1084年]] - [[1108年]]11月1日)は、[[北宋]][[徽宗]]の[[皇后]]で[[欽宗]]の母。姓は'''王氏'''。[[諡]]は初め'''静和'''であった。
 
== 生涯 ==
[[開封府|開封]]で[[徳州 (山東省)|徳州]][[刺史]]王藻の娘として生まれた。[[元符]]2年(1099([[1099]])6月、端王趙佶(のちの徽宗)に嫁ぎ、順国夫人に封ぜられた。端王が皇帝に即位後、皇后に立てられた。趙桓([[欽宗]])と[[趙金奴]](栄徳帝姫)を産んだ。
 
徽宗は王皇后をあまり寵愛せず、[[顕粛皇后|鄭貴妃]](後に皇后となった)と[[大王貴妃 (宋)|大王貴妃]]を寵愛し、皇后は彼女らと等しく扱われた。[[大観 (宋)|大観]]2年9月26日(1108年11)91日)、崩じた。徽宗の父[[神宗 (宋)|神宗]]の永裕陵に従葬された。
 
== 伝記資料 ==