「アルブレヒト1世 (マイセン辺境伯)」の版間の差分

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== 生涯 ==
傲岸伯アルブレヒトは、ヴェッティン家一門、裕福伯[[オットー (マイセン辺境伯)|オットー]]の息子で後継者。彼は、[[1186年]]にアウシヒ(現[[チェコ]]の[[ウースチー・ナド・ラベム地方|ウースチー・ナド・ラベム]])でゾフィー・フォン・ベーメンと結婚した。彼の父は、次男の[[ディートリヒ (マイセン辺境伯)|ディートリヒ]]を後継者に据えようと考えていた。このためアルブレヒトは、[[1188年]]、武力によって父親を捕縛した。皇帝[[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]]の命令により、父親を解放するが、これにより、相続権の承認を得て、父の後継者として1190年にマイセン辺境伯に就いた。彼は皇帝[[ハインリヒ6世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ6世]]に従って、[[イタリア]]へ向かったが、すぐに急ぎ戻っている。これは、[[パレスチナ]]から帰還する弟から自分の領土を守るためであった。弟は、その岳父に当たる[[テューリンゲン]]方伯[[ヘルマン1世 (テューリンゲン方伯)|ヘルマン1世]]の支援を受けて辺境領を要求してきたのである。レフェニンゲンの近くで戦闘となり、アルブレヒトは修道士に変装して、苦労の末に[[ライプツィヒ]]へ逃れ、帰還した。度重なる兄弟の私闘に皇帝は怒りを覚えたが、予想外にもイタリア問題が解決したことでその怒りは和らいでいた。兄弟間の戦いは、彼の死によって終結した。彼は、1195年6月24日に、[[フライベルク]]から[[マイセン]]へ向かう途中のクルンメンヘンナースドルフで亡くなった。彼は毒殺されたのだと推測されている。彼の遺体は、アルトツェラ修道院教会に安置された。
 
== 外部リンク ==
*[http://susi.e-technik.uni-ulm.de:8080/meyers/servlet/showSeite?SeiteNr=0298&BandNr=1&textmode=true Albrecht], in: Meyers Konversationslexikon, 4.Aufl. 1888-90, Bd.1, S.298
 
{{先代次代|[[マイセン辺境伯]]|1190 - 1195|[[オットー (マイセン辺境伯)|オットー]]|[[ディートリヒ (マイセン辺境伯)|ディートリヒ]]}}
 
[[Category:ドイツの領邦君主|あるぶれひと1_まいせん]]