「内ヶ島氏理」の版間の差分

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天正11年([[1583年]])長月29日、領内の山河へ立ち入ることを禁止した取り決めが守られなくなってきたために、違反した者は註交名承(名前を聞いて記して、徹底的に追求する)すると、氏理はその再確認を照蓮寺にさせている<ref>{{Cite journal|和書|author=安達正雄|title=白山大地震により埋没した「帰雲城」と「木舟城」―第3報 内ヶ島系図と石黒氏系図の研究―|journal=日本海域研究所報告|issue=9号|year=1977}}</ref>。
 
天正13年([[1585年]])8月に佐々成政が[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]の侵攻([[富山の役]])を受け、内ヶ島軍は佐々の援軍として越中に赴いた。羽柴秀吉は同時に、佐々の同盟者である[[姉小路氏]]と内ヶ島氏の拠る飛騨国の攻略を[[金森長近]]に命じた。しかし頼みの佐々成政が秀吉の大軍の前に戦わずして剃髪して恭順してしまい、氏理も留守中に城代老であった川尻氏信の内応があり[[帰雲城]]を金森長近に奪われた。姉小路氏は所領を全て奪われ降伏、氏理もまた金森長近を通じて羽柴方に降伏し、内ヶ島氏の家名と所領の安堵はされたが、飛騨一国を治めることになった長近に従属することとなった。
 
同年11月29日、帰雲城において和睦成立を祝う宴を翌日に控え、氏理本人はもちろん、娘婿の[[東常堯]]や嫡男・[[内ヶ島氏#系譜|氏行]]など内ヶ島一族、重臣、家臣の主だった者が前日から勢揃いしていた。しかし同日深夜、[[天正地震]]が発生し、帰雲城は[[帰雲山]]の[[山体崩壊|山崩れ]]に巻き込まれ崩壊し完全に埋没。これにより氏理をはじめとする内ヶ島氏の一族郎党は全員行方不明(事実上の死亡)となり、戦国大名 内ヶ島氏は一夜にして滅亡した。
 
氏理の身内では実弟・経聞坊ともう一人の実弟のみが仏門にあった為に宴席に参加しておらず難を逃れ、経聞坊はこの地震に関する書物(経聞坊文書)を残した。他にも譜代家臣また、独断内ヶ島金森方に城を明け渡した咎により宴へ血族でもあ参加を許されなかった山下時慶・[[山下勝]]父子は生き延びた。のち信も結果的氏勝は[[江戸幕府]]成立後の[[尾張藩]]に仕え、大規模な都市移転「[[清洲越し]]」の立役者命拾いする事となった。
他にも譜代家臣で内ヶ島の血族でもあった山下時慶・[[山下氏勝]]父子は内ヶ島氏が長近へ従順する事に反発し、出奔していた事から難を免れ、生き延びた。のちに氏勝は[[江戸幕府]]成立後の[[尾張藩]]に仕え、大規模な都市移転「[[清洲越し]]」の立役者となった。
 
なお、この氏理の居城跡に[[埋蔵金]]が埋まっているとの伝説がある([[内ヶ島氏#埋蔵金伝説]]も参照のこと)。