「乙子城」の版間の差分

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地図
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| reject_y = [[天正]]10年([[1582年]])頃
| remains = 曲輪跡、列石
|cultural asset=[[史跡]]等未指定<ref>[https://www.city.okayama.jp/shisei/0000005177.html 「岡山市文化財目録」]岡山市公式HP</ref>
| location = {{ウィキ座標2段度分秒|34|37|49.56|N|134|202|21.93|E|scaleregion:100000JP-21_scale:30000|display=inline,title}}
|地図=Japan Okayama
|ラベル=乙子城
|緯度度=34|緯度分=37|緯度秒=49.56
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|アイコン=日本の城跡
|ラベル位置=bottom
}}
 
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== 概要と沿革 ==
岡山市南東部の[[吉井川]]河口にある標高40m40メートル[[丘陵]]に位置する。この地に城が構えられていた時代は、丘陵は河口に突き出していた。その丘陵に連郭式の[[曲輪]]が構えられていた。
 
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に[[備前国]]に覇を唱えた[[浦上宗景]]が、[[児島湾]]への睨みを利かせる為に構えたが、築城年については不明である。宇喜多直家が[[天文_(元号)|天文]]13年([[1544年]])、備前の[[守護大名]][[赤松晴政]]との合戦に初陣し武功をたて、宗景より最初に任された城であると伝えられており、この年が築城年とされ、300貫の知行と足軽30人が与えられた<ref name="jokaku">平井ほか 日本城郭大系 13 広島・岡山編1980 p.344 </ref>。
 
しかし、『吉備前秘録』によれば直家の祖父・[[宇喜多能家|能家]]が在城していたとも、『戸川記』によれば父・[[宇喜多興家|興家]]が守将となっていたとも伝えられている。
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== 参考文献 ==
[[平井聖]]ほか 1980『[[日本城郭大系]]』第13巻(広島・岡山)p.344
*岡山県高等学校教育研究会社会科部会歴史分科会/編 『新版 岡山県の歴史散歩』 山川出版社 1991年 p.34ページ
 
== 関連項目 ==