「中部配電」の版間の差分

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中部配電株式会社は、「[[配電統制令]]」(昭和16年8月30日勅令第832号)に基づき設立され、配電事業の統制のため配電事業を経営した電力会社である<ref name="chuhai-93">[[#chuhai|『中部配電社史』]]93-97頁</ref>。同令によって全国に9社設立された配電会社の一つであり<ref name="hosei-224">[[#hosei|『電気事業法制史』]]224-228頁</ref>、中部配電は[[愛知県]]・[[岐阜県]]([[滋賀県|滋賀]]・[[富山県|富山]]両県に接する各1か村を除く)・[[三重県]](南端部を除く)・[[静岡県]]([[富士川]]以西)・[[長野県]]の5県を管轄した<ref name="chuhai-37">[[#chuhai|『中部配電社史』]]37-48頁</ref>。
 
配電統制令公布・施行後の[[1941年]](昭和16年)9月、配電統制令に基づく[[逓信省|逓信大臣]]の中部配電株式会社設立命令が[[静岡市]]([[静岡市電気部|市営事業]]を持つ)と[[伊那電気鉄道]]・揖斐川電気工業(現[[イビデン]])・[[日本電力]]・[[東邦電力]]・[[中央電力 (1938-1942)|中央電力]]・[[中央電気]]・[[中部合同電気]]・[[長野電気]]・[[矢作水力]]・[[諏訪電気|信州電気]]の民間10社、合計11事業者に対して発令される<ref name="chuhai-16">[[#chuhai|『中部配電社史』]]16-20頁</ref>。この11事業者により中部配電の設立準備が進行し<ref name="chuhai-21">[[#chuhai|『中部配電社史』]]21-29頁</ref>、翌[[1942年]](昭和17年)[[3月30日]]に[[名古屋市]]の[[名古屋商工会議所]]にて創立総会が開催され、同年[[4月1日]]付をもって設立[[登記]]ならびに事業開始に至った<ref name="chuhai-30">[[#chuhai|『中部配電社史』]]30-34頁</ref>。設立当時の資本金は2億円<ref name="chuhai-30"/>。本店は名古屋市[[中区 (名古屋市)|中区]][[南大津通]]に置かれた<ref name="chuhai-132">[[#chuhai|『中部配電社史』]]132-139頁</ref>。
 
設立の時点においては、11事業者の統合(第一次統合)を実施したのみで管轄地域の配電統制を全面的に実現したわけではなかった<ref name="chuhai-37"/>。そのため順次残存配電事業の統合(第二次統合)が進められ、1942年から翌[[1943年]](昭和18年)4月までの間に計49事業者を統合して配電統合を完了した<ref name="chuhai-37"/>。以後、全国規模で発電・送電事業を受け持つ[[日本発送電]]や一部残存した発電事業者から卸売りされる電力を中部配電が受電し、これを自社[[水力発電|水力]]・[[火力発電所]]で発電した電力とあわせて管轄区域の需要家に対して供給するという供給体制が確立された<ref name="chubu1-380">[[#chubu|『中部地方電気事業史』上巻]]380-385頁</ref>。ただし一部大口需要家の工場は日本発送電からの直配であり<ref name="chubu1-374">[[#chubu|『中部地方電気事業史』]]374-377頁</ref>、他にも中部配電の配電業務が及ばなかった集落も存在する。
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|[[大阪市]][[北区 (大阪市)|北区]]
|1億6845万円<!--減資前--><ref name="kabu1942-607"/>
|中部は岐阜県下1か村以外は電力供給区域のみ<ref name="y30-614">[[#yoran30|『電気事業要覧』第30回]]614-615頁。{{NDLJP|1073660/338}}</ref>
|-
![[東邦電力|東邦電力(株)]]
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1948年2月22日、中部配電は他の配電会社8社および日本発送電とともに[[過度経済力集中排除法]](集排法)の指定を受けた<ref name="chubu1-405">[[#chubu|『中部地方電気事業史』上巻]]405-409頁</ref>。電力国家管理の体制を見直す動きは終戦後から存在したが、集排法指定を機に本格化していくことになる<ref name="chubu1-405"/>。
 
集排法指定を受け、当事者である日本発送電と各配電会社は4月22日付で各自別々に再編成計画書を[[持株会社整理委員会]]へと提出した<ref name="chubu1-405"/>。日本発送電の再編計画は発送配電事業の全国一元化目指す内容、各配電会社の再編計画は地区別9社を発送配電一貫経営に再編する内容であった<ref name="chubu1-405"/>。以後、政府やGHQ内部で再編成をめぐる議論が続くが、成案化には至らなかった<ref name="chubu1-405"/>。1949年になるとGHQ内部において関西・中部・北陸を1社に統合して7社の発送配電一貫経営の電力会社に再編するという7ブロック案が具体化されるようになる<ref name="chubu1-409">[[#chubu|『中部地方電気事業史』上巻]]409-414頁</ref>。7ブロック化の動きに対し中部配電は需要地としての中部地方の独自性を主張して反対運動を展開し、需要家側の[[名古屋商工会議所]]なども反対の声をあげた<ref name="chubu1-409"/>。結局GHQは再編成の具体案作成を日本側にゆだねる方針を採り、その結果1949年11月に[[通商産業省]]の諮問機関として「電気事業再編成審議会」が立ち上げられた<ref name="chubu1-409"/>。
 
翌[[1950年]](昭和25年)2月、電気事業再編成審議会の答申が通商産業省へ提出された<ref name="chubu1-409"/>。その内容は、全国を9ブロックに分け新会社を設立しつつ日本発送電の設備の半分程度を電力融通会社に引き継がせるというものであったが、日本発送電を全面的に解体し設備をすべて9つの新会社に分配するという会長[[松永安左エ門]]の案(松永案)も参考として添付されていた<ref name="chubu1-409"/>。しかし融通会社案はGHQの賛同を得られず、通商産業省は松永案の採用を決定、GHQとの折衝の末に企業形態は松永案、行政機構についてはGHQの意向に沿った路線で具体案を策定すると結論付けた<ref name="chubu1-409"/>。そして4月から再編成法案の国会審議が始まるが、今度は政府案が与党[[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]]を含め国会の支持を得られず、5月に法案は審議未了・廃案となった<ref name="chubu1-414">[[#chubu|『中部地方電気事業史』上巻]]414-421頁</ref>。