「二宮忠八」の版間の差分

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* 1991年には、忠八の故郷である八幡浜市で行われた「やわたはまみなと祭」の一環として、玉虫型飛行器のレプリカ機である[[超軽量動力機]]「二宮式玉虫型飛行器-R447型」が製作された。改設計・製作は[[日本大学理工学部・大学院理工学研究科|日本大学理工学部]]の専任講師によって行われ、同年4月に完成。10月20日に開催されたやわたはまみなと祭でジャンプ飛行を行ったが、離陸直後に高度30 cmほどまで達したところで右前方向からの横風によって横転し、観客の中に墜落。観客1名が重傷を、2名が軽傷を負い機体は小破した。なお、この機体は忠八による原設計には無い[[垂直尾翼|垂直]]・[[水平尾翼]]を有しているなどの改設計が加えられていた<ref>{{PDFlink|[http://www.mlit.go.jp/jtsb/aircraft/rep-acci/92-4-none.pdf 航空事故調査報告書「二宮式玉虫型飛行器-R447型」超軽量動力機 愛媛県八幡浜市 平成3年10月20日]}} - [[運輸安全委員会]]公式サイト。</ref>。
*ライト兄弟の初飛行はアメリカ国内ですらほとんど報道されなかった。また、その後兄弟が(アイディアの盗用を恐れて)なかなか公開飛行を行わなかったため、広く知られるようになったのは1908~9年頃である([[村岡正明]]『航空事始』(東京書籍、1992年)によれば、日本で初めて報じられたのは、雑誌『科学世界』の明治40年([[1907年]])11月号だという)。日本の新聞記事等からもこのことは裏付けられ、忠八がライト兄弟の飛行機を知ったのもその時期と考えられる。[[鈴木真二]]の著書『飛行機物語』(中公新書、2003年)では、忠八がライト兄弟の飛行機を知ったのは1909年10月3日付の新聞(紙名は記載なし)であると記している。村岡正明は、1907年3月25日の「[[萬朝報]]」における[[アルベルト・サントス・デュモン]]の飛行記事によって、二宮が外国人の初飛行を知ったと推測している。
*飛行機発明以来、航空事故が多発するようになったことに心を痛めた忠八は、事故犠牲者の慰霊が飛行機開発に携わった者としての責任だと感じ、私財を投じて犠牲者の霊を祀る[[飛行神社]]を[[京都府]][[八幡市]]に創建し、自ら神官となった<ref name=":02">{{Cite book|author=荒山彰久|title=日本の空のパイオニアたち: 明治・大正18年間の航空開拓史|year=2013|publisher=日本の空のパイオニアたち: 明治・大正18年間の航空開拓史|pages=18-25}}</ref>。安全祈願に訪れる航空、宇宙業界関係者が多く、[[例祭]]では飛行機からの参拝も実施される。
* [[2017年]]1月、[[名古屋市立工業高等学校]]の生徒が忠八の機体を参考にして設計・製作した有人動力飛行機が、[[津市]]で約70メートルの飛行に成功した<ref>{{Cite news|url=http://mainichi.jp/articles/20170129/k00/00m/040/052000c|title=名古屋の高校、飛行成功 忠八の夢実現|newspaper=[[毎日新聞]]|date=2017-01-29|accessdate=2017-01-29}}</ref>。