「二宮忠八」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
タグ: Refタグつき記述の除去 モバイル編集 モバイルウェブ編集
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
33行目:
ようやく軍部は忠八の研究を評価し、大正11年([[1922年]])、忠八を表彰、その後も数々の表彰を受けた。[[1925年]](大正14年)9月、[[安達謙蔵]]逓信大臣から銀瓶1対を授与され、[[1926年]](大正15年)5月、帝国飛行協会総裁[[久邇宮邦彦王]]から有功章を受章、[[1927年]](昭和2年)勲六等に叙せられ、昭和12年度から国定教科書に掲載された。すでに陸軍を退役していた長岡外史は直接忠八のもとを訪れ、謝罪した。
 
=== 神社設立 ===
忠八はその後、飛行機事故で死去した多くの人を弔うために[[京都府]][[八幡市]]に[[飛行神社]]を設立、自ら[[神主]]になっている。晩年は幡山と号して、七音五字四句一詞の形を「幡詞」と名づけ、幡詞会をもうけ、『幡詞』を著した。
飛行機発明以来、航空事故が多発するようになったことに心を痛めた忠八は、事故犠牲者の慰霊が飛行機開発に携わった者としての責任だと感じ、飛行機事故で死去した多くの人を弔うために[[京都府]][[八幡市]]に[[飛行神社]]を私財を投じて設立、自ら[[神主]]になっている<ref name=":02">{{Cite book|author=荒山彰久|title=日本の空のパイオニアたち: 明治・大正18年間の航空開拓史|year=2013|publisher=日本の空のパイオニアたち: 明治・大正18年間の航空開拓史|pages=18-25}}</ref>。安全祈願に訪れる航空、宇宙業界関係者が多く、[[例祭]]では飛行機からの参拝も実施される。晩年は幡山と号して、七音五字四句一詞の形を「幡詞」と名づけ、幡詞会をもうけ、『幡詞』を著す。
 
== 世界航空機史上における位置付け ==