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* {{flag|Thailand}}|image_size=300px|caption=1952年、[[米第45歩兵師団]] のポークチョップヒルでの戦闘を描いた絵画|date=1953年4月16日–18日 / 7月6日–11日|place=韓国 [[漣川郡]]北部|coordinates={{coord|38|14|29|N|127|1|10|E|type:event|display=inline}}|territory=|result=4月の戦闘:国連軍の勝利<br />7月の戦闘:中国軍の勝利|image=45th infantry.jpg|commander1={{flagdeco|United States|1912}} [[ジェームズ・ヴァン・フリート]]<br />{{flagdeco|United States|1912}} [[アーサー・トルドー]]|combatant2={{flag|China}}<br />{{flag|North Korea}}|commander2={{flagdeco|China}} [[彭徳懐]]<br />{{flagdeco|China}} [[鐘国楚]]|units1={{flagdeco|United States|1912}} [[第7歩兵師団 (アメリカ陸軍)|第7歩兵師団]]<br />{{flagdeco|エチオピア|1897}} [[ケブラ・ザバグナ]]<br />{{Flagdeco|Thailand}} [[第21歩兵連隊 (タイ陸軍)|第21歩兵連隊]]<ref name=kmpva_thai72>{{harvnb|Ministry of Patriots and Veterans Affairs|2010|p=72}}.</ref>|units2={{flagdeco|China}} [[67th Motorized Infantry Brigade (People's Republic of China)|第67師団]] (7月の戦闘)|strength1=19,000 名|strength2=20,000名 (国連軍推定)<br />6,800名 (7月の戦闘)|casualties1='''米軍:'''<br />戦死:347名<br />負傷:1,036名<br />捕虜:9名|casualties2='''国連軍推定:'''<br />戦死1,500 名<br />負傷4,000名<br />中国発表:<br />戦死:533名<br />負傷:1,242名}}
'''ポークチョップヒルの戦い''' (Battle of Pork Chop Hill) とは、[[朝鮮戦争]]最末期、すでに[[板門店]]で国連軍と中朝連合軍の休戦交渉中である1953年
== 背景 ==
ポークチョップヒルとは、高さ300メートルの丘の形が上から見て米国の家庭料理である[[ポークチョップ]](豚ロースの垂直カットのステーキ)に似ていたため<ref>{{Cite web|url=http://www.battlefieldreview.com/PorkChopHill.asp|title=Battlefield Review|accessdate=2013/12/17|publisher=Battlefield Review}}</ref>、この名前が付けられた。
丘は1951年10月に米第
1952年12月29日からは、国連軍の主防衛線のうち米第7歩兵師団の受け持ち戦区の中となり、敵側に露出したいくつかの丘の一つであった。この丘の前哨陣地は、土嚢を積み上げた複数の掩蔽壕が塹壕で繋がっており、それぞれを中隊や小隊単位で防衛していた。
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この戦区で対峙する両軍の兵力は概ね同規模と言えた。[[第7歩兵師団 (アメリカ陸軍)|米第7歩兵師団]](師団長:[[アーサー・トルドー]]少将)は11個歩兵大隊(指揮下のコロンビア軍やエチオピア軍の各1個大隊を含む)と1個機甲大隊、6個砲兵大隊を擁していた。一方、中朝連合軍側は12個歩兵大隊、10個砲兵大隊と1個戦車大隊で構成されていた。
1952年の始めから、こうした軍事作戦は、国連軍、中朝連合軍の双方共に休戦協定の条件交渉を有利に進めるための政治的な手段として用いてきた。ポークチョップヒルの戦いが起きる数日前の4月20日に、疾病捕虜を交換した[[リトルスイッチ作戦]]が行われたが、中朝軍側は、この捕虜交換合意は、必ずしも戦闘を止めることでは無いとの意思を示す目的もあった
== 最初の戦闘 4月16日〜4月18日 ==
=== 前哨陣地の陥落 ===
1953年3月23日の夜、中国人民志願軍第141師団第423連隊は、ポークチョップヒルの近傍にあるオールドバルディ(266高地)の前哨陣地を奇襲攻撃し、この丘を巡る
4月16日の深夜、ポークチョップヒルに布陣していた第31歩兵連隊E中隊(トーマス・U・ハロルド中尉)、に対して突如、激しい砲撃が浴びせられ続いて中国人民志願軍201連隊が突撃し、一部の孤立した陣地を除いて丘は蹂躙された。この夜は米第7歩兵師団の戦区全域に渡り攻撃が行われた
=== 米第31歩兵連隊の反撃 ===
戦線後方で予備部隊であった米31連隊のK中隊(中隊長:ジョセフ・G・クレモンス中尉)とL中隊(中隊長:フォレスト・J・クリテンドン中尉)は反撃を命じられ、攻撃開始時間を4月17日0430時とされた。夜明けまでに丘の頂上部にある主塹壕まで到達したが、両部隊の死傷率は50%に達しL中隊の半数は隣接する200高地の前哨陣地から前進できない状況となった。そのため、この突撃の戦術指揮官のクレモンス中尉は増援部隊の要請を行った。すぐに戦力消耗のため第31連隊の指揮下に入っていた米第17歩兵連隊のG中隊(指揮官のウォルター・B・ラッセルJr中尉は、クレモンス中尉の義理の兄弟)が前線に投入され、午前8時30分にはK中隊と連携した戦闘を開始した。しかし、前線の
この間、司令部と前線部隊の情報伝達の混乱により、3個中隊のうち、他の
このとき、師団長のトルドー少将はカーン大佐に第17連隊の第1大隊と第2大隊の戦術指揮を任せると共に、255高地上の新たな中隊を増援として送り込むように命じた。
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4月18日未明、0130時に中国志願軍第201連隊は再び攻撃を開始した。F中隊の陣地に対し大隊規模の攻撃を仕掛けため、中隊は激しい損害を受け陣地は崩壊間際に追い詰められた。このとき、第17連隊E中隊が中国志願軍の側面を突く奇襲攻撃を仕掛けたことで、中国軍は浮き足立ち、攻撃は尻すぼみとなった。中国第141師団はこのあと、0320時と0420時にも中隊規模の攻撃を仕掛けたが、どちらも失敗に終わり、中国軍は元の陣地へと戻った。
4月18日の夜明け頃、第2大隊所属の2個中隊への増援として、第1大隊から追加で1個歩兵中隊(第17連隊A中隊)が送られた。
この戦闘で国連軍の砲兵部隊は、77,000発の支援砲撃を行い、このうちポークチョップヒルには、4月18日だけで40,000発の砲撃を行った。中国軍の砲撃量もほぼ同等と推察される。
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== 2度目の戦闘(7月6日〜11日) ==
=== 防御態勢の再構築 ===
1953年の5月から6月にかけて、戦闘が小康状態に入ったため米第7師団ではポークチョップヒルの防御陣地の再構築を行った。休戦協定の最終調印に向けて大詰めの交渉が行われて
=== 夜間奇襲攻撃 ===
1953年7月6日の夜、中国軍は前回の攻撃とほぼ同じ戦術で再びポークチョップヒルを攻撃してきた。このとき、丘は第17歩兵連隊A中隊が布陣しており、中隊長は参謀のアルトン・マッケルフィッシュ・Jr.が代行していた。予備部隊として同連隊のB中隊が隣接する200高地に待機していたため、すぐに応援に駆けつけた。しかし、1時間も経たないうちにA中隊は、塹壕内での白兵戦に巻き込まれていた。戦闘は混戦状態となり、司令部は3個目の中隊を応援として送り込んだ。天候は、この戦闘が始まったころから、
2日目の夜、中国軍は新たな攻勢を行った。この攻撃に対処するため、米第7師団は再び増援部隊を送り込んだ。4個中隊により防御されているポークチョップヒルには両軍の砲弾が降り注いだ。7月8日の夜明け頃、それまでの降雨が一時的に止み、最初から防衛に当たっていた部隊が丘から撤退したが
=== 第7師団の反撃 ===
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中国で発行された''抗美援朝战争卫生工作总结 卫生勤务(朝鮮支援抗米戦争における衛生兵の記録)''によると、第67師団の兵士6800名のうち、1953年夏の戦いで533名が戦死し、1242名が負傷したとなっている。ポークチョップヒルの戦いから3週間もしないうちに、国連軍と中朝連合軍が停戦協定に合意し戦闘は終結した。
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
* [[勝利なき戦い]]
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{{朝鮮戦争}}
{{DEFAULTSORT:ほおくちよつふひるのたたかい}}
[[Category:朝鮮戦争の戦闘]]
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