「アブドゥル・ラザク」の版間の差分

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1971年に、マレーシア新経済計画を策定した。アブドゥル・ラザクと以後のマレーシア第2世代の政治家たちは、民族間の不和の要因となる経済・社会的な不平等の解消に対して精力的に活動した。マレーシア新経済計画では、貧困の撲滅と民族間の経済的格差の解消を目標としている。
 
また政治的には、1972年2月にマレーシア国会が再開されることで、マレーシア議会政治の危機を克服するとともに、不安定な政治的状況を乗り越えるため、[[全マレーシア・イスラーム党]](PAS)、[[グラカン]]、[[{{ill2|人民進歩党]] (マレーシア)|en|People's Progressive Party (Malaysia)|label=人民進歩党}}(PPP)にも与党に参加をすることを呼びかけ、1973年1月、[[国民戦線]](BN)を組織した。彼は、その後も国民戦線に参加する政党を増やすことを推進し、政治面での安定をもたらした。
 
さらに、1974年総選挙後、フセイン・オンを副首相権蔵相に任命することで自らの後継者に指名するのと同時に、5月13日事件でラーマンと対立していたマハティールを教育相に任命したがこのことはマハティールがUMNO・No.3の立場を獲得したと同時に、[[ブミプトラ政策]]推進上でアブドゥル・ラザクがマハティールの能力を認めたことを意味していた。