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'''チョーラ朝'''(チョーラちょう、Chola dynasty)は、[[9世紀]]から[[13世紀]]にかけて、[[南インド]]を支配した[[タミル人|タミル]]系の[[ヒンドゥー教|ヒンドゥー]]王朝([[846年]]頃 - [[1279年]])。首都は[[タンジャーヴール]]、{{仮リンク|ガンガイコンダチョーラプラム|en|Gangaikonda Cholapuram}}。
 
チョーラ朝の名が付く南インドの地方政権は、[[シャンガム文学]]と呼ばれるタミル古典文学にも記述があって、[[1世紀]]から[[3世紀]]頃に[[カーヴィリ川|カーヴェーリ]]河畔の[[タンジャーヴール]]よりやや上流のウライユールに首都をき、全インド征服したとか[[セイロン島]]遠征をして多くの捕虜を連れ帰ったというカリカーラ王の伝承で知られているが、一般的には[[パッラヴァ朝]]の封臣であった[[ヴィジャヤーラヤ・チョーラ|ヴィジャヤーラヤ]]がタンジャーヴールに興した王朝のことを指す。なお、シャンガム文献のチョーラ朝とこれから記述するチョーラ朝と関係はであるらかになっていない
 
== 歴史 ==
=== チョーラ朝の台頭と試練 ===
[[File:MainGopuram-BrihadisvaraTemple-Thanjavur,India.jpg|thumbnail|300px200px|right|タンジャーヴールのプリハディーシュヴァラ寺院]]
チョーラ家の[[ヴィジャヤーラヤ・チョーラ|ヴィジャヤーラヤ]](在位:846年 - 871年)は、[[パッラヴァ朝]]が[[パーンディヤ朝]]と抗争を繰り返す過程で勢力を拡大し、[[846年]]頃にパッラヴァ朝の封臣ムッタライヤル家から[[タンジャーヴール]]を奪って本拠とした<ref>チャンドラ『中世インドの歴史』、p.24</ref>。
 
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だが、次王[[ウッタマ・チョーラ]](在位:970年 - 985年)の治世には、[[973年]]に[[デカン高原]]にラーシュトラクータ朝に代って[[後期チャールキヤ朝]]が成立し、後期チャールキヤ朝の攻撃を受け弱体化した。
 
=== ラージャラージャ1世とラージェーンドラ1世の栄光 ===
[[File:Temple Tangore 3.jpg|thumbnail|350px200px|right|タンジャーヴールのブリハディーシュヴァラ寺院に刻まれた壁面レリーフの一部]]
[[File:Rajendra map new.svg|thumbnail|350px200px|right|最盛期のチョーラ朝の領土と勢力圏]]
[[File:Gangaikonda_CholaPuram.JPG|thumbnail|350px200px|right|ガンガイコンダチョーラプラムのラージェーンドレーシュヴァラ寺院]]
[[File:Cities caves and ancient sites of middle and south india.JPG|thumbnail|350px200px|right|デカン、南インドの中世都市及び石窟寺院]]
ウッタマ・チョーラの死後、{{仮リンク|ラージャラージャ・チョーラ1世|en|Raja Raja Chola I|label=ラージャラージャ1世}}(在位:985年 - 1016年)が即位することとなった。ラージャラージャ1世はチョーラ朝の英傑として知られ、パーンデイヤ朝と[[ケーララ州|ケーララ]]、セイロンの勢力を破り、セイロンの北半分を併合、支配した<ref>チャンドラ『中世インドの歴史』、p.25</ref>。
 
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また、ラージェーンドラ1世は、東チャールキヤ朝との関係を一層強め、東チャールキヤ王[[ラージャラージャ・ナレーンドラ]]に王女[[アマンガ・デーヴィ]]を嫁がせるなど、通婚関係を深めた。
 
=== 東チャールキヤ朝との合体と後期チャールキヤ朝との争い ===
その後もチョーラ朝はその版図を維持し、[[ヴィーラ・ラージェーンドラ]](在位:1063年 - 1069年)のときにシュリーヴィジャヤ王のためにスマトラ島で起こった反乱を鎮定している。
 
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[[1077年]]に宋に送った通商使節は、70人に達し、中国側には「[[ガラス]]器、[[樟脳]]、[[綿]]織物、[[犀]]の角、鹿の角、[[象牙]]などの品々が捧げられ、81800本分の銅貨を下賜した。」という記述が残されている。
 
=== チョーラ朝の衰退と滅亡 ===
[[File:Pandya,Hoysala&Terminal Chola.JPG|thumb|300px200px|350px200px|right|終末期のチョーラ朝とホイサラ朝、パーンディヤ朝]]
その後、チョーラ朝は、優れた寺院建築を残したもののじわじわと衰え、地方領主層の台頭が目立つようになってくる。
 
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そして、[[1279年]]にチョーラ朝とホイサラ朝の連合軍はパーンディヤ朝の軍に敗北し、首都ガンガイコンダチョーラプラムを落とされ、チョーラ朝は滅亡した(ラージェーンドラ3世は殺害されたようである)。
 
== チョーラ朝の統治機構社会の様子 ==
チョーラ朝の王の権威は強力で、王に助言するための大臣の会議、身辺警護兵がいた。また、「三つの足」と称せられる[[戦象]]部隊、[[騎兵]]部隊、歩兵部隊のほかに強力な海軍をもっていた<ref>チャンドラ『中世インドの歴史』、p.28</ref>。
 
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チョーラの王たちは、交易の振興や軍用道路として道路網の整備を行い、カーヴェリー川などの河川から[[灌漑]]用の水路がひかれ、多くの貯水池がつくられた。また地租を徴集するためにその適切な課税額を把握するため、一種の[[検地]]が行われた。また、特筆すべきなのは、道路網の整備や海軍の警察力によって北インドやジャワやスマトラ方面にまで交易活動をおこなうような商人[[ギルド]]が存在したことである。
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
* {{Cite|和書|author =サティーシュ・チャンドラ|authorlink=サティーシュ・チャンドラ|translator=小名康之、長島弘|title =中世インドの歴史|publisher =山川出版社|date =2001年|isbn =}}
* 『アジア歴史事典』6(タ〜テ)貝塚茂樹、鈴木駿、宮崎市定他編、平凡社、1960年
 
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[[Category:インドの王朝|ちよら]]