「マーガレット・オブ・スコットランド」の版間の差分

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== 生涯 ==
[[ノルマンディー公国|ノルマンディー]][[ノルマンディー公|公]]ギヨーム2世([[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム1世]])によるイングランド征服([[ノルマン・コンクエスト]])から母アガサや弟エドガーらと逃亡の途中で船が遭難し、スコットランド東海岸に打ち上げられた。これが[[1068年]]の出来事で、彼らはスコットランドの宮廷に迎えられ、翌[[1069年]](または[[1070年]])にマーガレットは最初の王妃イーンガボーグを亡くしていたマルカム3世と[[ダンファームリン]]で結婚、新たな王妃となった。粗野なマルカム3世と信心深いマーガレットは対照的だったが、マルカム3世はマーガレットを熱烈に愛し、教養が高い彼女の影響でスコットランドは政治・文化が向上していった<ref>森、P40 - P44、トランター、P47 - P51、松村、P453 - P454。</ref>
 
サクソン好みのマルカム3世は、サクソン人王の血を引くマーガレットはサクソン好みのマルカム3世とも[[封建制|封建制度]]を押し進めた。また、宮廷の習慣をサクソン方式に改め、商業・手工業・教育を奨励して文化向上にも努め、宗教政策にも熱心に取り組み、[[ケルト系キリスト教|ケルト教会]]優勢のスコットランドにローマ・カトリック教会を導入、教会の行事や典礼をそれまでのケルト式からローマ式に改革した。[[ベネディクト会]]の招聘・保護や巡礼の宿泊施設整備、修道院建設も推し進め、ケルト教会の一派・[[コルンバ]]派の拠点で火事で焼失した[[アイオナ修道院]]を再建、コルンバ派のカトリック改宗にも尽力した。マーガレットはその功績から、[[1250年]]に[[列聖]]された<ref>森、P44 - P46、トランター、P51 - P54、松村、P454。</ref>
 
1093年11月に夫と長男エドワードがイングランド侵攻で戦死した時、[[エディンバラ城]]で病の床にあり、2人の後を追うように亡くなった。夫亡き後に王位簒奪した義弟の[[ドナルド3世 (スコットランド王)|ドナルド3世]]はイングランド嫌いのため、マーガレットの遺体を奪い取りスコットランドをイングランド化しようとした元凶として糾弾しようと企んだが、それを察した側近たちにより遺体はダンファームリン・アビーへ移葬された<ref>森、P48、P50、トランター、P57 - P58。</ref>。
 
== 子女 ==
マルカム3世とマーガレットの間には6男2女が生まれた<ref>森、P43、Weir, p. 186P186。</ref>。
* エドワード(1093年11月16日没) - アニックの戦いで受けた傷がもとで[[ジェドバラ]]近くのエドワードシスル(Edwardsisle)で死去した
* [[エドマンド・オブ・スコットランド|エドマンド]](1070年? - 1097年?) - スコットランド王、実際に王位についていたか疑問視されている
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== 参考文献 ==
* [[森護]]『スコットランド王室史話』[[大修館書店]]、1988年。
* [[ナイジェル・トランター]]著、[[杉本優]]訳『スコットランド物語』大修館書店、1997年。
* [[松村赳]]・[[富田虎男]]編『英米史辞典』[[研究社]]、2000年。
* Alison Weir, ''Britain's Royal Families'', Vintage Books, 2008.
 
== 関連項目 ==
* [[立教女学院中学校・高等学校]]
* [[立教女学院短期大学]]
* [[セント・マーガレット教会堂]]
* [[キリスト教の聖人一覧]]
 
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