「オットー・フォン・ハプスブルク」の版間の差分

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[[1999年]]に欧州議会議員を辞めた後も、精力的に政治活動を続けた。[[2004年]]、オットーは「ヨーロッパの将来は[[キエフ]]と[[リヴィウ]]で決せられる」と発言した{{Sfn|スナイダー|pp=357-358}}。フランスと同程度の面積を持ち、人口5000万人を擁する[[ウクライナ]]を見て、共産主義体制だった諸国に民主政治を拡大できるかを試そうとしたのである{{Sfn|スナイダー|pp=357-358}}。
 
[[1922年]]から84年間務めていた家長の座を、高齢のため[[2006年]]いっぱいで長男に譲り、[[2007年]]から[[カール・ハプスブルク=ロートリンゲン|カール]]がハプスブルク家家長となった。その後もしばらくは元気な姿を周囲に見せていたが、[[2009年]]に自宅の階段から落ちて以来、万全な体調ではなくなってしまった<ref>[https://web.archive.org/web/20110707005108/http://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp1-20110704-800009.html 最後の皇帝の長男O.ハプスブルク氏死去] 日刊スポーツ 2011年7月4日付記事、Internet Archiveより{{リンク切れ|date=2021年1月}}</ref>。
 
==== 死去と葬儀 ====
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* {{Cite book|和書|author=[[江村洋]]|date=1994年|title=フランツ・ヨーゼフ ハプスブルク「最後」の皇帝|publisher=[[東京書籍]]|isbn=4-487-79143-X|ref={{SfnRef|江村}} }}
* {{Cite book|和書|author=[[リチャード・リケット]](Richard Rickett)|translator=[[青山孝徳]]|date=1995年|title=オーストリアの歴史|publisher=[[成文社]]|isbn=4-915730-12-3|ref={{SfnRef|リケット}} }}
* {{Cite book|和書|author={{仮リンク|タマラ・グリセール=ペカール|en|Tamara Griesser Pečar}}|translator=[[関田淳子]]|date=1995-05-10|title=チタ――ハプスブルク家最後の皇妃|publisher=[[新書館]]|isbn=4-403-24038-0|ref={{SfnRef|グリル=ペカール}} }}
* {{Cite book|和書|author=[[矢田俊隆]]|date=1995-07-21|title=オーストリア現代史の教訓|publisher=[[乃水書房]]|isbn=4-88708-172-3|ref={{SfnRef|矢田}} }}
*[[関口宏道]]「オットー・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン(その2)」([[玉川大学]]文学部紀要『論叢』38号、1998年3月)
* {{Cite book|和書|author=[[倉田稔]]||date=2006年|title=ハプスブルク文化紀行|publisher=[[日本放送出版協会]]|isbn=4-14-091058-5|ref={{SfnRef|倉田}} }}