「三浦逸平」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
修正
修正
75行目:
[[愛知県]][[碧海郡]]刈谷町大字熊字元屋敷(現在の[[刈谷市]])出身。材木商の三浦桂助の長男。いったんは三浦家の家業を継ぎ、1887年(明治20年)頃に家業を整理して上京。[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]にある株屋の社員となり、株式仲買店を経営して財を成した。1909年(明治42年)9月5日には[[第10回衆議院議員総選挙]]の補欠選挙に出馬して当選。1913年(大正2年)1月には[[第11回衆議院議員総選挙]]に出馬して2選。三浦は[[豊田自動織機]]の工場を刈谷町に誘致するなどした。
 
1910年(明治43年)には三浦と[[才賀藤吉]]が主たる発起者となり、碧海軽便鉄道会社(軌間762mmで動力蒸気による鉄道)を設立<ref name="神谷伝兵衛">『神谷伝兵衛』中日新聞社、2018年復刻、pp.155-156</ref>。1912年(明治45年)5月30日には碧海軽便鉄道が[[三河鉄道]]に改称し、三浦は専務取締役に就任したが、1913年(大正2年)5月30日には専務取締役を辞している<ref name="神谷伝兵衛"/>。1914年(大正3年)には三河鉄道の大浜駅-刈谷駅間が開業し、翌年には刈谷駅-知立駅間も開通した。
 
愛知県で[[旧制中学校]]設立の機運が高まった際、[[愛知県議会|愛知県会]]では刈谷町を設置場所の候補にすら上げていなかった。三浦は[[大野介蔵]]や[[神谷周助]]と手を組んで刈谷町への誘致を働きかけた。陳情書を愛知県会・[[愛知県知事]]・[[文部省]]に提出し、愛知県会議員を個別に訪問して訴えると、1919年(大正8年)4月に愛知県立第八中学校(後の愛知県刈谷中学校、現在の[[愛知県立刈谷高等学校]])が開校した。