「和気広虫」の版間の差分

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[[神護景雲]]4年([[770年]])9月に帰洛を許され<ref>『続日本紀』巻三十、称徳天皇 神護景雲4年9月6日条</ref>、改元された[[宝亀]]元年10月には[[無位]]より[[従五位下]]に叙せられた。この時、「和気公」とある<ref>『続日本紀』巻三十一、光仁天皇 宝亀元年10月25日条</ref>。そして「吐納」のことを掌っている<ref name="広虫1"/>。同5年([[774年]])9月、清麻呂とともに[[宿禰]]を改めて[[朝臣]]の姓を賜り<ref>『続日本紀』巻三十四、光仁天皇 宝亀5年9月28日条</ref>、以後昇任して[[桓武天皇|桓武朝]]の[[延暦]]4年([[785年]])には[[藤原延福]]・[[藤原人数]]・[[因幡国造浄成女]]とともに[[従四位|従四位上]]に叙せられている<ref>『続日本紀』巻三十八、桓武天皇 今皇帝 延暦4年正月9日条</ref>。この前後に[[典蔵]]に任ぜられたようである<ref name="広虫1"/>。
 
同8年([[777年]])6月15日の[[勅旨所]]牒によると「[[内侍司]][[典侍]][[従四位|従四位上]]和気朝臣」とあり、その宣により、[[勅旨所]]は[[東大寺]][[三綱]]にあて、地1町2段を東大寺に施入する旨を牒している<ref>『平安遺文』4897号</ref><ref>[[角田文衛]]氏所蔵文書、弘文荘待賈書目第三十号</ref>。同13年([[782年]])7月、新京の家をつくるため、[[山城国|山背]]・[[河内国|河内]]・[[摂津国|摂津]]・[[播磨国|播磨]]などの国の稲一万一千束が、[[百済王明信]]・[[五百井女王]][[置始女王 (光仁朝 - 桓武朝)|置始女王]]・因幡国造浄成女ら15人に与えられている<ref>『日本後紀』巻第三、桓武天皇 延暦13年7月9日条</ref>。同15年([[796年]])9月、[[典侍]]の時に[[山城国]][[紀伊郡]]の[[陸田]]2町を賜っている<ref>『日本後紀』巻第五、桓武天皇 延暦15年9月8日条</ref>。
 
延暦18年([[799年]])正月、典侍・[[正四位|正四位上]]で没。行年70<ref name="広虫4"/>。[[淳和天皇]]の[[天長]]2年([[825年]])に[[正三位]]が贈られている<ref name="広虫1"/>。