「今井町」の版間の差分

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=== 国の重要文化財 ===
[[File:今西家.JPG|thumb|今西家住宅]]
* '''[[今西家住宅]]''' - [[カバネ|姓氏]]は磯城縣主<ref>[https://kotobank.jp/word/%E7%A3%AF%E5%9F%8E%E7%9C%8C%E4%B8%BB-1329265 世界大百科事典「磯城県主」]コトバンク、2021年11月28日閲覧</ref>に系譜す連なる十市氏で、[[廣瀬大社]]曾禰連樋口家の婿養子となり河合城を築き名字を河合とした<ref>[http://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/kinki/s_hirose.html 河合町史「広瀬社神主曽祢氏系図」] 神社と社家の姓氏、2021年11月28日閲覧</ref>とした。[[1566年]](永禄9年)2月、十市遠勝が筒井順慶に圧迫されて今井へ亡命した後を追って、河合清長は十市衆の一族郎党を引き連れて当地に移住し、[[1575年]](天正3年)に織田信長軍と戦ったが敗れた。信長から赦免され[[自治権]]を認められて裁判を執り行った。大坂夏の陣の際、今井町の西辺において大野治房らを撃破した功により、[[徳川家康]]より薙刀[[来派|来国俊]]を拝領され今西を名乗るように薦められた。その後、建物は[[1650年]](慶安3年)に建て替えられ<ref group="注">日本における建設年代の明らかな民家では、[[五條新町]]の[[栗山家住宅]](1607年)や御所市名柄の中村家住宅(1632年)に次ぐ3番目の古さである。</ref>、内部の土間には[[お白州]]があり、拷問部屋のいぶし牢が残っており[[陣屋]]として使われた。[[1679年]](延宝7年)、今井は[[天領]]に組み入れられ、三惣年寄の筆頭になり領主・代官の町方支配の一翼を担った。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の構造様式を残す建造物で、別名「八つ棟」(やつむね)または「[[八棟造り|八つ棟造り]]」と呼ばれている。[[日本建築史]]上貴重な建物の1つであり、[[納戸]]の[[帳台構え]]は日本最古で「民家の[[法隆寺]]」と言われる。月曜日休館。[[1957年]](昭和32年)6月18日重文指定(附・[[棟札]]1枚)。
[[File:豊田家住宅.JPG|thumb|西の木屋(豊田家住宅)]]
* '''豊田家住宅''' - [[屋号]]を「紙八」といい、江戸末期から明治初年にこの家に移り住んだ。元々は材木商で金融業を営む豪商'''牧村家'''の所有で「西の木屋」と呼ばれた<ref group="注">「木屋」は西と東に分かれ、西の木屋の当主は本家で代々「清左衛門」と名乗り、東の木屋の当主は分家で代々「五良右衛門」と名乗った。また、今西家とは姻戚関係にあり、今井宗久とは懇ろな関係であった。</ref>。[[福井藩]]藩主[[松平春嶽]]に貸し付けを行い藩の蔵元を務め、[[高取藩]]に融資し重臣の待遇まで受けていた。しかし、明治維新後の[[廃藩置県]]によって[[大名貸]]の貸付金が凍結し、債権が放棄され今井町を離れざるを得なかった。なお、大阪府堺市の大仙公園にある今井町出身の'''[[今井宗久]]'''ゆかりの茶室「黄梅庵」は<ref group="注">今井宗久(納屋宗久)は、[[千利休]](魚屋宗易)・津田宗及(天王寺屋宗及)とともに'''[[茶人人物一覧|天下三宗匠]]'''とよばれ、豪商であるとともに信長・秀吉・家康の政権下において経済的かつ政治的な活躍をした人物である。先祖は、佐々木氏で[[近江国|近江]][[高島郡 (滋賀県)|高島郡]]今井市城を領したといわれる。茶室は、ゆかりのあった牧村家の敷地内母屋西側に建てたものと伝わる。利休が二畳、宗及が四畳半茶室を得意にしたのに対して、宗久の茶室は三畳が特徴となっている。茶室、客間、水屋などがあるこけらぶきで約80m<sup>2</sup>の建物である。</ref>もと牧村家所有の茶室を電力王で[[小田原三茶人]]の一人である[[松永安左エ門]]が買受け、[[小田原市]]に移築したものを[[1978年]](昭和53年)に相続人の松永安太郎が堺市に寄贈し、堺市制90年記念事業の一環として[[1980年]](昭和55年)10月、[[大仙公園]]内に移築された。この茶室は秀吉の吉野山花見に設けられ「宗久茶屋」と称され、後に松永安左エ門が今井宗久の菩提寺[[大徳寺]][[黄梅院 (京都市)]]にちなんで「黄梅庵」と名付けた。住宅は[[1662年]](寛文2年)の建築で今井町では、今西家に次いで古い。事前予約必要。[[1972年]](昭和47年)5月15日重文指定。
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* '''高木家住宅''' - 四条屋の分家で屋号を「大東の四条屋」といい、本家の酒造業を助けながら、後には醤油業も営んでいた。[[1829年]](文政2年)津田長道の「卯花日記」には、「今井里人高木氏は、世々四条村の人 にして、今は今井に家居す。此家にむかしより 此社の事つかさどる事になりて、別に神主もなければ、此家より神供灯明のことを物しける。高木の宮(高市御縣神社)と云也といへり」という記述があることから[[高市許梅]]に関係が深い一族である。切妻造本瓦葺きの2階建で、幕末上層民家の特徴が残る。江戸時代末期(文政~天保頃)の建物。[[1972年]](昭和47年)5月15日重文指定。
[[File:中橋家住宅.JPG|thumb|中橋家住宅]]
* '''中橋家住宅''' - 屋号を「米彦」といい、米屋を営んでいた。建築年は分から不明ものの、[[1748年]](寛延元年)の絵図に描かれていることから、当時すでに住居を構えていたことがわかる。[[1761年]](宝暦11年)には南町組頭を務めていた。非公開。[[1972年]](昭和47年)5月15日重文指定。
[[File:Kometanike Kashihara JPN 002.jpg|thumb|旧米谷家住宅]]
* '''旧米谷家住宅'''(きゅうこめたにけじゅうたく) - 屋号を「米忠」といい、代々金具商、肥料商を営んでいた。農家風の民家で、18世紀中頃の建築と推定される。また、[[1849年]](嘉永2年)には、内蔵、蔵前座敷を増築している。近年まで内蔵が3棟あったが、現在は1棟のみになっている。建物は1956年に国有になっており<ref>[http://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/123617 「旧米谷家住宅」] 文化遺産データベース、文化庁、2021年11月28日閲覧</ref>、内部は無料で一般公開されている。月曜日休館。[[1972年]](昭和47年)5月15日重文指定。
[[画像:Imaich%C5%8D_Kashihara JPN 001.jpg|thumb|河合家住宅]]
* '''河合家住宅''' - 屋号を「上品寺屋」といい、寛永年間に上品寺村(橿原市上品寺町)から移住した。家蔵文書によると[[1772年]](安永元年)には既に酒を造っており、今なお酒造業を営んでいる。18世紀後半の建築。[[1976年]](昭和51年)5月20日重文指定。