「セルゲイ・ソコロフ」の版間の差分

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| alma_mater = ゴリコフ装甲戦車学校
| party = [[File:КПСС.svg|25px]] [[ソビエト連邦共産党]]
| 称号・勲章 = [[レーニン勲章]]<br>赤旗勲章2個<br>三等「ソ連軍における祖国への奉仕に対する」勲章を受章した。<br>[[ソ連邦元帥]]
 
| office = {{SSR}}<br/>第6代[[ソビエト連邦の軍部大臣一覧#ソビエト連邦国防省|国防大臣]]
| term_start = [[1984年]][[12月22日]]
| term_end = [[1987年]][[5月30日]]
| 元首職 = 閣僚会議議党書記
| 元首 = [[ラインスタンティン・チーホノフェルネンコ]]<br>[[ニコラミハイシコバチョフ]]
| predecessor = [[ドミトリー・ウスチノフ]]
| successor = [[ドミトリー・ヤゾフ]]
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| allegiance = {{SSR}}
| branch = [[File:Red star with hammer and sickle.svg|25px]][[ソビエト連邦軍]]
| serviceyears = [[1932年]]5月 - [[19871992年]]1月
| rank = [[File:Rank insignia of маршал Советского Союза.svg|15px]] [[ソ連邦元帥]]
|native_name= {{lang|ru|Сергей Соколов}}
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|awards =
}}
'''セルゲイ・レオニードヴィッチ・ソコロフ'''({{Lang-ru|Сергей Леонидович Соколов}}、ラテン文字表記の例:{{en|Sergei Leonidovich Sokolov}}、[[1911年]][[7月1日]] - [[2012年]][[8月31日]])は、[[ソビエト連邦]]の[[軍人政治家]]、[[政治家]]。[[ソ連邦元帥]]1984年12月から1987年5月まある。[[コンスタンティン・チェルネンコ|チェルネンコ]]、[[ミハイル・ゴルバチョフ|ゴルバチョフ]]の時代に[[ソビエト連邦の軍部大臣一覧#ソビエト連邦国防省|国防大臣]]を務め、それ以前は[[ソ連共産党政治局|党政治局員候補]]であった。
 
== 経歴 ==
[[1911年]][[7月1日]]、[[ロシア帝国]]クリミアの[[イェウパトーリヤ]]にまれるした。1932年5月から[[赤軍]]に所属した。1934年11月にゴリコフ装甲戦車学校を卒業し、極東で小隊長・中隊長・大隊長を歴任し、そして1938年7月の[[張鼓峰事件]]に参加した。
 
[[独ソ戦]]においては、1941年6月から9月まで戦車連隊参謀長として東部戦線で戦う。同年10月からカレリア戦線の自動車装甲戦車局の課長補佐、1942年4月から課長、6月から同局局長、1943年1月から同戦線の装甲戦車・機械化兵司令官局参謀長を務め、同年には[[大佐]]に昇進した。1944年3月から9月まで同戦線第32軍の装甲戦車・機械化兵司令官を務めた。
 
戦後は1947年11月に装甲戦車・機械化兵軍事アカデミーを卒業した後は戦車連隊長に任命され、1948年5月に戦車師団参謀長となった。1951年に参謀本部軍事アカデミーを卒業し、1952年1月から機械化師団長、1953年8月に[[少将]]、1959年5月に[[中将]]に昇進した。1960年1月から1964年7月に[[モスクワ軍管区]]参謀長を務め、在任中の1963年4月に[[大将]]に昇進し、1964年7月から同管区第一副司令官となった。
 
[[1965年]]10月に[[レニングラード軍管区]]司令官となり、[[1967年]]4月に国防第一次官を兼務し、同年にはまた[[上級大将]]に昇進した。[[1978年]]2月に[[ソ連邦元帥]]となる。[[1984年]][[12月20日]]に[[ドミトリー・ウスチノフ|ウスチノフ]]国防相が死去し、それに伴って後任の国防相に就任した。前任のウスチノフが[[クレムリン]]の[[キングメーカー]]と言われるほどの実力者であったのに対し、ソコロフは純粋な職業軍人として地味な存在であった。また、[[アンドレイ・グレチコ|グレチコ]]とウスチノフの2人の前任者が[[ソビエト共産党|党]]政治局員であったのに対し、ソコロフは議決権を持たない政治局員候補に据え置かれた。
 
[[1987年]]5月に[[西ドイツ]]の青年である[[マティアス・ルスト]]がセスナ機で[[赤の広場]]に着陸した責任を取らされる形で国防相を解任された。奇しくも[[1986年]]10月に[[大西洋]]北東部の[[バミューダ]]沖で[[ヤンキー級原子力潜水艦]][[K-219 (原子力潜水艦)|K-219]]が火災により沈没した事故に際し、艦長が寄港命令に背いて自沈させたとしてソコロフ当人が強硬に厳罰を主張し極刑に処されるところであったが、この事件によるソコロフの失脚で極刑は免れた。
 
1966年から[[ソビエト共産党|党]]中央委員会委員候補、1968年から委員、第7期から第10期までの最高会議代議員を務めた。[[2011年]]7月1日に100歳の誕生日を迎え、[[ドミートリー・メドヴェージェフ|メドヴェージェフ]][[ロシア連邦大統領|大統領]]から祝福された<ref>{{citenews|url=http://www.rian.ru/society/20110701/396031944.html|title=Медведев поздравил экс-министра обороны СССР Соколова со 100-летием
 
[[レーニン勲章]]、赤旗勲章2個、三等「ソ連軍における祖国への奉仕に対する」勲章を受章した。
 
[[2011年]][[7月1日]]に100歳の誕生日を迎え、[[ドミートリー・メドヴェージェフ]][[ロシア連邦大統領|大統領]]から祝福された<ref>{{citenews|url=http://www.rian.ru/society/20110701/396031944.html|title=Медведев поздравил экс-министра обороны СССР Соколова со 100-летием
|publisher=RIA NOVOSTI|date=2011年7月1日|accessdate=2011年7月1日}}</ref>。
 
2012年8月31日、3日前の8月28日に亡くなったマリーヤ夫人の後を追うように[[モスクワ]]で死去した。101歳であった<ref>{{citenews|url=http://www.vesti.ru/doc.html?id=894898|title=Маршал-долгожитель скончался на боевом посту|publisher=Вести.ru|date=2012年8月31日|accessdate=2012年8月31日}}</ref>。この3日前にはマリーヤ夫人が死去した
 
== 家族 ==
1940年9月に誕生したワレリー(1940と19471月に誕まれ)としたウラジーミル(1947年生まれ)の2人の子供もいずれもは両方が大将まで昇進した。
 
== 脚注 ==