「ジェームズ・フォレスタル」の版間の差分
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{{基礎情報 軍人
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'''ジェームズ・ヴィンセント・フォレスタル'''(
==概要== [[アメリカ陸軍|陸軍]]から[[アメリカ陸軍航空軍|航空軍]]を分離する形で新たに創設された[[アメリカ空軍|空軍]]・[[アメリカ合衆国空軍省|空軍省]]は地上基地から作戦を遂行できると主張し、彼の空母機動部隊計画に反対した。空軍との対立は == 生い立ちと経歴 ==
[[1892年]][[2月15日]]に[[ニューヨーク州]]マッティーワン(現在のビーコン)で、3人息子の末子として誕生した。両親はアイルランド系カトリックである。高校卒業後に彼は新聞社で3年間働き、1911年に[[ダートマス大学]]に入学して1年後に[[プリンストン大学]]に移籍した。学費が続かず、大学中退後に彼は商売を始めたが、1914年7月の[[第一次世界大戦]]勃発後は海軍に入隊して飛行士({{en|Naval Aviator}})になった。ワシントン(海軍省)勤務もあり、中尉で終戦を迎える。戦後フォレスタルは債券のセールスマンとして、ウォール街の投資会社ウィリアム・A・リード・アンド・カンパニーで勤務し、1938年には同社の社長に就任した。
== 政府での職務 ==
1940年6月に[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルト]][[歴代アメリカ合衆国大統領の一覧|大統領]]はフォレスタルに特別補佐官への就任を依頼し、8月には彼を海軍次官に任命した。フォレスタルは海軍次官として戦時工業生産の動員に関して非常に貢献した。フォレスタルは心臓発作で死去した[[ウィリアム・フランクリン・ノックス]]の後任として1944年5月19日に海軍長官に就任し、終戦の年から戦時動員の解除まで海軍を率い、ドイツ国内の様々な兵器の情報や試作品を回収する作戦([[ジョン・F・ケネディ]]もそのメンバーの中にいた)を指揮した。
フォレスタルは国防機関の統合に反対した
彼の国家軍政省での
フォレスタルはアラブ諸国と対立することは得策ではないとして、[[パレスチナ分割決議|パレスチナ分割]]に対して否定的な態度をとり連邦制を主張したが、これに対して[[ナチス]]の迫害を受けた[[ユダヤ人]]を支援することは人道的義務であると考えるジャーナリズムや政府内外の要人から激しい批判を受けた。
また、かつてフォレスタルが海軍長官として海軍を代表し、空軍独立を含む軍再編成計画に対する反対派の中心となった過去や、海軍の[[航空母艦|空母]]と空軍の[[戦略爆撃機]]のいずれを重視するかという路線対立により<ref>この路線対立はフォレスタルの退任後、次のジョンソン国防長官の代になって、空母「[[ユナイテッド・ステーツ (空母)|ユナイテッド・ステーツ]]」と長距離戦略重爆撃機・[[B-36 (航空機)|B-36]]の予算獲得競争も重なり、海軍側の高官たちを文官・軍人とも大勢巻き込んだ「[[提督たちの反乱]]」というスキャンダルとして極限に達することになる。</ref>、空軍は国防長官のフォレスタルに対して非協力的態度を
同時期にフォレスタルは国防費の抑制を主張する[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]]大統領と、それに反対する軍部の板挟みになり苦しんだ。フォレスタル自身は[[ソビエト連邦|ソ連]]の脅威に備えるべく国防費削減に反対する立場であったが、上記の理由により軍部をコントロールすることが出来ず、問題を事実上大統領に丸投げしてしまう。元々の几帳面な性格にこうした問題による激しい心労が降りかかってフォレスタルは鬱病となり、精神を病んでいく(フォレスタルの死後国防長官の権限は強化される)。
== 病と死去 ==
1949年3月28日に「神経衰弱」により辞職し、[[鬱病]]と診断されて[[ベセスダ (メリーランド州)|ベセスダ]]の[[w:National Naval Medical Center|海軍病院]]に入院した。同年4月10日にはフォレスタルが「[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]がアメリカに侵入している」という妄想に取りつかれているとの報道がなされた<ref>「フォレスタル前国防長官発狂か」『日本経済新聞』昭和24年4月12日2面</ref>。
5月22日に彼の遺体が3階の屋根の上で発見された。彼は16階の病室に入院していたが、窓から飛び降りて自殺したと判断された。彼の神経症と病院の過失に関する公式報告書はその死の詳細な状況に対する疑念を抱かせ、ソ連の工作員による殺害から[[未確認飛行物体|UFO]]の関係まで様々な陰謀説がささやかれることとなった。生前のフォレスタルは[[イスラエル]]の[[スパイ|工作員]]が自分を尾行していると主張していた。その後、アメリカと[[アラブ世界|アラブ国家]]が[[密約]]を結ぶことを危惧したイスラエルが実際に工作員を派遣し、フォレスタルの行動を[[監視]]していたことが明らかになった。
彼の[[遺書]]とされるものは[[ソポクレス]]の悲劇『[[アイアース (ソポクレス)|アイアース]]』からの抜粋であった。
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: The never waking sleep, than linger on,
: And dare to live, when the soul's life is gone.
== 家族 ==
1926年10月にジョセフィーン・オグデンと結婚し<ref>[https://www.wikitree.com/wiki/Ogden-3939 ジョセフィンオリーブ(オグデン)フォレスタル]</ref>、2人の子女が誕生した。
== 文献 ==
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{{s-off}}
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| before = 新設
| after = [[ルイス・A・ジョンソン]]
| years = 初代:1947年9月17日 - 1949年3月28日
| president = [[ハリー・S・トルーマン]]
|
}}
{{s-gov}}
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|
| president = [[フランクリン・ルーズベルト]]
|years = 第47代:1944年5月19日 - 1947年9月17日
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{{succession box
|title = {{Flagicon|USA1912}} アメリカ合衆国海軍次官
|years = 1940年8月22日 - 1944年5月16日
|before = 新設
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