「第二次日韓協約」の版間の差分

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一編集希望者さんが提示していた出典を実際に確認したところ、一編集希望者さんの記述とは正反対の内容が書かれていました。[https://www.jkcf.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/2010/10/3-allj.pdf]
284行目:
李完用らが上疏した「五大臣上疏文」では、締結交渉自体を拒否しようとした強硬派大臣たちに対し、高宗自らこれを戒め「交渉妥協」を導いた様子が報告されている。また、高宗は少しでも大韓帝国に有利になるように協約文の修正を行うこととし、李らの修正提案を積極的に評価している。大日本帝国側も大韓帝国側からなされた4カ所の修正要求を全て受け入れ協約の修正を行った<ref name="harada">[[原田環]]「第二次日韓協約調印と大韓帝国皇帝高宗」青丘学術論集24, 2004年4月</ref>。
 
ただし原田は別の論文<ref>{{Cite web|title=日韓歴史共同研究報告書(第2期)第3分科会(近現代史)篇「大韓国国制と第二次日韓協約反対運動―大韓帝国の国のあり方」|url=https://www.jkcf.or.jp/projects/2010/17283/|website=公益財団法人 日韓文化交流基金|accessdate=2021-09-08|language=ja|first=公益財団法人|last=日韓文化交流基金|page=13}}</ref>で、それは調印当日の「(11月)17日午後の御前会議」の話であり、15日の伊藤・皇帝交渉後に皇帝が方針「転換」したものだとする。原田は別の発表<ref>{{Cite web|title=第12回研究会・原田環報告|url=http://www.hmn.bun.kyoto-u.ac.jp/asorder/meetings12-02.html|website=www.hmn.bun.kyoto-u.ac.jp|accessdate=2021-09-08}}</ref>でも同様の話をしている。つまり15日交渉時の伊藤の強圧が先であり、それを受けての方針転換である。
朝鮮大学の歴史地理学部長である康成銀は「五大臣上疏文」自体が李完用ら協約賛成派によって記され、協約に賛成する事で売国奴と糾弾された[[乙巳五賊]]自身の皇帝に対する弁明を記した上疏文に過ぎない事などを指摘している。1906年1月5日に提出された「呉炳序等上疏文」は「五大臣上疏文」を批判して、五大臣が責任を皇帝に被せようとした諸事実を指摘しており、皇帝はこの「呉炳序等上疏文」に批答を与え「爾(なんじ)の言葉は詳しく明らかであり、条里(ママ)がある」と肯定的に評価している。また1905年11月25日に乙巳五賊のひとりである当の権重顕が提出した「権重顕上疏文」には「乙巳五条約」が定められた条約手続きを踏んでいないことや、皇帝の裁可を経ずに調印されたことなど、後に提出された「五大臣上疏文」とはまったく正反対の内容が記されている。康成銀はこれらの事実を以って「五大臣上疏文」の資料としての信頼性に疑問を呈している。