「古谷惣吉連続殺人事件」の版間の差分

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そして同年12月19日、古谷は西宮市内の民家の郵便受けに「明日までに現金50,000円を用意しろ」と書いた脅迫状を入れ、この民家の住民から金品を脅し取ろうとした{{Sfn|神戸サンケイ新聞社|1978|p=195}}。しかし翌20日、現金の受け渡し場所として指定した場所で、張り込んでいた兵庫県警の捜査員によって取り押さえられ{{Sfn|神戸サンケイ新聞社|1978|p=195}}、[[恐喝罪|恐喝未遂罪]]で{{Sfn|兵庫県警察|1999|p=312}}、[[西宮市警察]]に検挙された{{Efn2|『読売新聞』 (1965) は「1951年12月に兵庫県内で恐喝事件を起こして西宮署に検挙された」と<ref name="読売新聞1965-12-13"/>、『朝日新聞』 (1965) は「同年12月8日、脅迫容疑で西宮署に逮捕された」とそれぞれ報道している<ref name="元教員殺し">『朝日新聞』1965年12月13日西部朝刊第16版第一社会面15頁「【京都】14年前の元教員殺しも?」(朝日新聞西部本社)</ref>。<!--池上・斎藤 (1996) は「古谷は偽名を名乗っていたが、1952年(昭和27年)3月に恐喝未遂事件を起こして[[明石警察署]](兵庫県警)に逮捕され、裁判で懲役3年が確定。1953年9月に仮釈放されるまで[[加古川刑務所]]に服役していた」と述べている{{Sfn|池上正樹|斎藤充功|1996|pp=153-154}}。-->}}{{Sfn|神戸サンケイ新聞社|1978|p=196}}。この時、古谷は「清水正雄」の偽名{{Efn2|『読売新聞』や『[[週刊新潮]]』、『西宮市警察史』 (1954) 、神戸サンケイ新聞社 (1978) では「清水正雄」と表記<ref name="読売新聞1965-12-13"/>{{Sfn|週刊新潮|1965|p=124}}{{Sfn|西宮市警察局|1954|p=108}}{{Sfn|神戸サンケイ新聞社|1978|pp=195-196}}。このほか、佐木 (1992) では「清水政雄」{{Sfn|佐木隆三|1992|p=154}}、池上・斎藤 (1996) では「清水定夫」と表記されている{{Sfn|池上正樹|斎藤充功|1996|p=153}}。}}を用い、取り調べに対しても容疑を否認していたが、筆跡鑑定により犯行が証明された{{Sfn|西宮市警察局|1954|pp=107-108}}{{Sfn|神戸サンケイ新聞社|1978|pp=195-196}}。その後、西宮市警が[[国家地方警察]](国警)本部に指紋照会を依頼したところ、「清水」の正体は古谷惣吉(当時38歳:前科6犯)であることも判明した{{Sfn|西宮市警察局|1954|p=108}}。その後も古谷は、「2、3日前に知り合った『山口』という人物と共謀して脅迫状を郵便受けに入れたが、脅迫状は主犯の『山口』が書いた」と主張したが、各種証拠から「『山口』は架空の人物で、事件は古谷の単独犯である」として起訴された{{Sfn|西宮市警察局|1954|p=108}}。古谷は犯行を否認し続けたことで、裁判官の心証を悪くし{{Sfn|神戸サンケイ新聞社|1978|p=196}}、1952年(昭和27年)2月1日、[[神戸地方裁判所]]尼崎支部で懲役3年に処され{{Efn2|兵庫県警察 (1999) は「通常ならば[[起訴猶予処分|起訴猶予]]か[[執行猶予]]の可能性が高い恐喝未遂罪でありながら、古谷の場合は複数の前科が考慮されて実刑となった」と述べている{{Sfn|兵庫県警察|1999|p=312}}。}}{{Sfn|刑事裁判資料|1981|p=110}}、刑務所に服役した{{Efn2|石田郁夫 (1971) は「古谷は強盗殺人容疑で逮捕された当時、明石刑務所に服役していた」と{{Sfn|石田郁夫|1971|p=193}}、神戸サンケイ新聞社 (1978) は「古谷は(恐喝未遂罪で懲役3年の刑に処され)神戸刑務所に収容された」と{{Sfn|神戸サンケイ新聞社|1978|p=198}}、池上・斎藤 (1996) は「古谷は1953年(昭和28年)9月に[[加古川刑務所]]から仮釈放されたが、出所直後に[[姫路市]]内で洋服の窃盗事件を起こして逮捕され、仮釈放も取り消された」と述べている{{Sfn|池上正樹|斎藤充功|1996|p=154}}。}}{{Sfn|神戸サンケイ新聞社|1978|p=198}}{{Sfn|池上正樹|斎藤充功|1996|p=154}}。しかし、この事件について兵庫県警は「古谷はあえて刑務所に入ることで、強盗殺人の余罪を追及されることを免れようとした」とみなしている{{Sfn|神戸サンケイ新聞社|1978|p=196}}{{Sfn|兵庫県警察|1999|pp=312-313}}。この件に関しては、福岡刑務所にいた1954年(昭和29年)5月1日付で刑期満了を迎えている{{Sfn|更生保護|1966|p=41}}。
 
古谷は在監1年目の暮れ、知人に手紙を出した{{Efn2|『週刊新潮』 (1965) は「出所を控え、郷里の対馬へ手紙を出した」と{{Sfn|週刊新潮|1965|p=124}}、神戸サンケイ新聞社・兵庫県警察 (1976) は「仮出所のために必要な身元引受人を頼むため、郷里の友人に手紙を出した」と{{Sfn|神戸サンケイ新聞社|1978|p=198}}、兵庫県警察 (1999) は「満期出獄を間近に控え、福岡の知人に便りをした」とそれぞれ述べている{{Sfn|兵庫県警察|1999|p=313}}。}}が、1951年の強盗殺人を捜査していた福岡市警がこれを把握{{Efn2|池上・斎藤 (1996) は「指紋照会から2件の強盗殺人への関与が発覚した」と述べている{{Sfn|池上正樹|斎藤充功|1996|p=154}}。}}{{Sfn|神戸サンケイ新聞社|1978|p=198}}。このため、古谷は[[神戸刑務所]]から福岡市警へ移監され{{Sfn|神戸サンケイ新聞社|1978|p=198}}、福岡刑務所在監中の1954年(昭和29年)44月16日<ref name="西日本新聞1955-06-16"/>、強盗殺人容疑で逮捕された{{Efn2|兵庫県警察史 (1999) は「神戸刑務所で服役していた古谷は、1954年5月に突然福岡刑務所へ移送された」と述べている{{Sfn|兵庫県警察|1999|p=312}}。一方、『朝日新聞』 (1955) は「古谷は福岡刑務所服役中の1954年4月16日、[[福岡地方検察庁|福岡地検]]に強盗殺人罪で逮捕された」と報じている<ref name="朝日新聞1955-06-16"/>。}}<ref name="朝日新聞1955-06-16"/>。この時、福岡署の留置場に勾留された古谷は、1941年に盗みで自身を逮捕した鹿子生と再会したが、鹿子生は「古谷は死刑か無期懲役になるだろう」と考え、古谷に好きな果実などを頻繁に差し入れていた<ref name="鹿子生">『朝日新聞』1965年12月13日西部朝刊第16版1第一社会面15頁「【福岡】福岡県警の鹿子生さん 古谷と宿命の対決 これで三度目に」(朝日新聞西部本社)</ref>。
 
しかし、古谷は逮捕直後に同房者から、坂本が既に死刑に処されていることを聞かされたため、坂本に罪を押し付けることを思いつき、取り調べに対しては徹底的に犯行を否認{{Efn2|『朝日新聞』 (1955) は「古谷は最初から『人違いだ』と無罪を主張していた」と報道している<ref name="朝日新聞1955-06-16"/>。}}{{Sfn|夕刊フクニチ新聞社|1976|p=323}}。坂本が「殺害実行犯は古谷」と主張していた八幡市の事件については、「自分は逃げた」と供述した{{Sfn|週刊新潮|1965|p=124}}。また、古谷の犯行を証明する証拠も不十分で、最大の証人となり得た坂本も既に死刑を執行されていたため{{Sfn|週刊新潮|1965|p=124}}、一連の犯行で古谷がどのような役割を果たしたかは解明されなかった<ref name="読売新聞1965-12-13"/>。梅田は、「古谷も強盗に入った以上、『相手の出方次第では殺す』という意思を有しており、刑事責任は坂本と同等である」という旨を主張し、古谷の[[国選弁護制度|国選弁護人]]を担当していた高良一男も、古谷の主張を聞いて「古谷は坂本の従犯ではなく、刑事責任は同等ではないか?」という疑念を抱いていた{{Sfn|週刊新潮|1965|pp=124-125}}。福岡地検の検事16人が、古谷への求刑を行うにあたり、合議を行ったところ、「死刑を求刑すべき」という意見が圧倒的だったが、全員一致ではなかった(死刑は全員一致でないと求刑できなかった)ため、やむを得ず無期懲役を求刑することとなった{{Sfn|週刊新潮|1965|p=125}}。
 
福岡地裁第3刑事部{{Sfn|刑事裁判資料|1981|p=127}}(佐藤秀裁判長){{Sfn|週刊新潮|1965|p=125}}は、11回の公判(審理期間は約1年)を経て、1955年(昭和30年)6月16日、古谷に懲役10年(求刑:無期懲役)の判決を言い渡した<ref name="西日本新聞1955-06-16">『西日本新聞』1955年6月16日夕刊第7版第一社会面3頁「バタヤ殺しに10年 共犯は死刑・否認のまま判決」(西日本新聞社)</ref>。同地裁は、古谷と坂本の交友関係から、古谷の無罪主張を退け、福岡市の事件については坂本との共謀を認定し、強盗殺人罪を適用したが、両事件で「主犯」とされた坂本が既に死刑を執行されていたため、古谷関与の確証が得られなかった八幡市の事件については、「[[疑わしきは罰せず]]」の鉄則から、窃盗罪を認定した{{Efn2|判決宣告時、福岡地裁(佐藤裁判長)は判決理由で「坂本が処刑されたことは結果的に非常に遺憾だが、法執行の経過から見てやむを得ないことだった」「古谷の犯行を立証する証拠が不十分であるため、法律の原則により古谷に有利に判断すべき」と述べた<ref name="朝日新聞1955-06-16">『朝日新聞』1955年6月16日西部夕刊第5版3頁「バタ屋殺し判決 無期求刑から懲役10年 主犯死刑で確証なし」(朝日新聞西部本社)</ref>。佐藤は105号事件の解決後、「古谷の裁判の過程で坂本がいないため、完全な事実を突き止められなかったのが心残りではあったが、このような(被告人にとって不利益な事情を裏付ける証拠がない)場合、裁判の原則としては、被告人に不利益に認定することはできないという事情もあって、十年の刑にしたわけだ」と述べている{{Sfn|週刊新潮|1965|p=125}}。}}<ref name="西日本新聞1955-06-16"/>。その後、同判決は1956年(昭和31年)3月4日に確定した{{Efn2|福岡高裁刑事三部判決(1955年10月27日){{Sfn|刑事裁判資料|1981|p=127}}、最高裁第二小法廷決定(1956年2月3日:上告棄却)<!--『刑事裁判資料』 (1981) では「判決」と誤記されている{{Sfn|刑事裁判資料|1981|p=127}}--><ref>{{Cite journal|和書|journal=最高裁判所刑事裁判書総目次 昭和31年2月分|title=刑事決定(1) (昭和31年)2月3日 第二小法廷 昭和30年(あ)第3369号 強盗殺人、窃盗 古谷惣吉|page=8|publisher=[[最高裁判所事務総局]]}} - 『最高裁判所裁判集 刑事』(集刑)第112号(昭和31年1月 - 3月)の付録。{{NDLJP|1349141/506}}・{{国立国会図書館書誌ID|000001203693}}</ref>による。}}{{Sfn|更生保護|1966|p=41}}{{Sfn|刑事裁判資料|1981|p=113}}。
 
古谷は同事件について、後に105号事件で逮捕されて取り調べを受けた際に'''「主犯は自分で、坂本は見ていただけだ」と告白'''した{{Sfn|夕刊フクニチ新聞社|1976|p=323}}。その上で、被害者2人を絞殺した手段も105号事件と同一である旨を述べたほか、「捜査機関や裁判所のミスを公表してやる。新聞記者に面会させろ」とも要求した{{Sfn|夕刊フクニチ新聞社|1976|p=324}}。しかし、坂本本人は既に死亡しており、彼の裁判記録も(1953年の死刑執行から)10年後に廃棄されていた{{Sfn|週刊新潮|1965|p=125}}。当時の主任検事(佐藤貫一){{Efn2|当時の主任検事だった佐藤貫一は1965年12月時点で、[[埼玉県]]で弁護士を務めていた{{Sfn|週刊新潮|1965|p=125}}。}}{{Sfn|週刊新潮|1965|p=125}}もこの件について、記者会見を認めなかったため、再捜査はされなかった{{Sfn|夕刊フクニチ新聞社|1976|p=324}}。