「利用者:要塞騎士/sandbox/8」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
98行目:
2人は事件数日前から、標的とする女性を探したが、見つけられなかった<ref name="沖縄タイムス1997-04-24"/>。犯行直前、2人は本事件の被害者である少女A(事件当時15歳)が通学していた[[名護市立羽地中学校]]の校門前で、女子生徒を物色していたが、その姿を男子生徒に見られ、不審がられていた<ref name="祈り届かず2"/>。
 
その後、2人は名護市伊差川の農道で{{Efn2|name="拉致現場"}}<ref name="沖縄タイムス1997-04-24"/>、自転車に乗った2人連れの女子中学生を見つけた<ref name="琉球新報1997-04-24"/>。そのうちの1人がAで、もう1人の少女は<ref>『沖縄タイムス』1996年12月15日朝刊特別広告面6頁「Aさんをすぐ帰して下さい。」「A、早く会いたい 羽地中学校三年 (Aが拉致される直前まで一緒に下校していた女子生徒の実名)」(沖縄タイムス社)</ref>、Aの同級生だった{{Efn2|彼女とAは幼稚園からの幼馴染で、同じバレーボール部に在籍していた<ref name="沖縄タイムス1997-01-15社会"/>。}}<ref name="沖縄タイムス1997-01-15社会">『沖縄タイムス』1997年1月5日朝刊第2版第一社会面17頁「【名護】Aさんに永遠の別れ 「長い間捜せなくてごめんね」 参列者2千人 涙をこらえ焼香」(沖縄タイムス社)</ref>。YとUは、彼女たちを尾行し<ref name="祈り届かず3"/>、19時5分ごろ<ref name="経過1997-04-24"/>、Aが1人になったところ、「名護の市街地にはどう行くの?」などと道を尋ねるふりをして、無理矢理ワゴン車に押し込めた<ref name="祈り届かず3">『琉球新報』1997年1月7日朝刊第1版第一社会面19頁「祈り届かず 名護市女子中学生ら致殺害事件 3 犯行・逃走 道聞くのを装い近づく Y容疑者 7月上旬に鹿児島へ」(琉球新報社)</ref>。この拉致の瞬間を一部始終は、現場付近{{Efn2|拉致現場から、道路と川を隔てて約40&nbsp;m離れた場所<ref name="朝日新聞1996-06-29">『朝日新聞』1996年6月29日西部朝刊第一社会面31頁「女子中学生拉致で公開捜査 沖縄県警、ポスター配布へ【西部】」(朝日新聞西部本社)</ref>。}}の団地3階からの住民に目撃されいた住民がおり、この住民はAの「キャー」という悲鳴を聞いたため、ワゴン車に向かって大声で呼び掛けたが<ref name="琉球新報1996-08-20"/>、男たちはAさんを慌てて車内に押し込んだ<ref name="琉球新報1996-06-22">『琉球新報』1996年6月22日夕刊第1版第一社会面5頁「本島北部 女子中学生をら致」(琉球新報社)</ref>。そして、Aの自転車を川べりに投げ捨て<ref>『沖縄タイムス』1996年6月28日速報(号外)「名護 女子中学生ら致事件 県警が公開捜査 被害者はAさん」(沖縄タイムス社)</ref>、車で[[沖縄県道71号名護宜野座線|県道71号]]方面へ走り去った<ref name="琉球新報1996-08-20"/>。また、ワゴン車はAを拉致した直後、軽自動車と衝突しかけているが、その軽自動車のドライバーが最後の目撃者となっていである<ref name="琉球新報1996-08-20"/>。
 
2人は県道71号に出ると、左折して[[国道58号]]に入り<ref name="祈り届かず3"/>、同道を猛スピードで北上し<ref>『沖縄タイムス』1997年1月4日朝刊第1版総合面1頁「久高本部長 地道な捜査が奏功 犯人ら配備網を突破」(沖縄タイムス社)</ref>、20時ごろ、国頭村の私道上でAを暴行した{{Efn2|起訴状によれば、2人がAを暴行した地点は、国頭村辺戸の私道など<ref name="琉球新報1997-01-26"/>。}}<ref name="琉球新報1997-04-24"/>。その後、犯行の発覚を免れるため、Aを殺害して死体を遺棄することを決意し<ref name="判決要旨"/>、奥2号林道へ移動した<ref name="琉球新報1997-04-24"/>。そして、さらにAを暴行し、財布から200円を奪った上で、殺害を最終的に確認<ref name="琉球新報1997-04-24"/>。同日21時30分ごろ、国頭村楚洲の林道上で<ref name="沖縄タイムス1998-03-17"/><ref name="琉球新報1998-03-17"/>、2人で紐を使い、Aの首を絞めて殺害した<ref name="沖縄タイムス1997-04-25"/><ref name="琉球新報1997-04-24"/>。そして、2人で遺体をガードレール越しに投げ捨てた{{Efn2|name="遺棄現場"}}<ref name="琉球新報1997-04-24"/>。
105行目:
 
== 捜査 ==
=== 初動捜査 ===
19時9分、被害者Aが拉致される瞬間を目撃していた近隣住民が、[[沖縄県警察]]に110番通報した<ref name="琉球新報1996-08-20"/>。これを受け、沖縄県警は19時12分、所轄署の[[名護警察署]]や、近隣の警察署へ緊急配備の司令を出し<ref name="琉球新報1996-08-20"/>、19時25分に配備が完了<ref name="毎日新聞1997-01-04 西部朝刊"/>。名護市から南へ抜ける要所で検問を行った<ref name="琉球新報1996-08-20"/>。
 
しかし、実際にX・Yが向かった方向は逆(北方)で、拉致現場から北側の検問は、約10&nbsp;km離れた国道58号の1か所<ref name="毎日新聞1997-01-04 西部朝刊"/>(国頭郡[[大宜味村]]津波){{Efn2|『読売新聞』 (1997) は「大宜味村塩屋」と報じている<ref name="読売新聞1996-01-04">『読売新聞』1997年1月4日西部朝刊第一社会面31頁「沖縄の少女拉致・殺害 ビデオに2容疑者映る 事件2日前、観光客撮影」(読売新聞西部本社)</ref>。}}のみだった<ref>『琉球新報』1997年1月4日朝刊第1版第一社会面31頁「県警本部 緊急配備も間に合わず 犯行車両 いったんは“シロ”」(琉球新報社)</ref><ref name="朝日新聞1997-01-04"/>。この地点は、拉致現場から約10&nbsp;km離れた場所にあり、拉致現場から時速60&nbsp;[[キロメートル毎時|km/h]]で走行した場合、10分で通過できる<ref name="朝日新聞1997-01-04"/>。また、拉致現場から幹線道路を経由して本島北端(殺害現場方面)へ向かうと必ず通る地点でもあり<ref name="朝日新聞1997-01-04">『朝日新聞』1997年1月4日西部朝刊第一社会面27頁「元作業員の男を再逮捕 沖縄の中3殺害遺棄容疑 【西部】」(朝日新聞西部本社)</ref>、[[国道331号]]など、西海岸に抜けるルートもチェックできる地点だったが、この地点の緊急配備を担当したのは、同地点から約15&nbsp;km北方に位置する{{ウィキ座標|26|44|41.9|N|128|10|38.3|E||名護警察署辺土名交番}}勤務の署員で<ref name="祈り届かず4">『琉球新報』1997年1月8日朝刊第1版第一社会面23頁「祈り届かず 名護市女子中学生ら致殺害事件 4 捜査 犯行車両 当初は「関連薄い」の見方 疑い捨て切れず全国手配」</ref>、検問を開始した時間は、他の地点より13分ほど遅い19時25分ごろだったため、2人は検問開始より先に同地点を通過していた可能性が高いことが、『[[朝日新聞]]』[[朝日新聞西部本社|西部本社]]版の記事で指摘されている<ref name="朝日新聞1997-01-04"/>。名護署の管轄区域は、県北部の名護市など1市3町(約550&nbsp;[[平方メートル|m{{sup|2}}]]:沖縄本島の約45%)におよぶ一方、当時の署員数は98人と少なく、また事件当日は金曜日の当直時だったため、事件発生当時は当直員約15人と、手薄な時間帯だった<ref name="読売新聞1996-01-04"/>。また、同日には、本島南部で別の事件{{Efn2|惠隆之介 (2013) は「被害者Aが拉致されたのとほぼ同時刻に、本島南部で全裸の女子中学生が民家に助けを求めて駆け込む事件が発生していた」と述べている{{Sfn|惠隆之介|2013}}。}}が発生していたため、県警は捜査員のうち、半分をそちらの事件に回すことを余儀なくされた<ref name="朝日新聞1996-06-29"/>。
 
特捜本部長を務めた県警刑事部長の久高常良ら、捜査幹部は、『琉球新報』記者からの取材に対し、「犯人が事件後、中南部(人目が多く、夕方の渋滞に巻き込まれやすい市街地方面)に逃走した可能性は低い」と説明したが<ref name="琉球新報1996-08-20"/>、久高は1997年1月3日に記者会見で「限られた人員・地理的な状況を踏まえ、『早い時間に大宜味村津波を押さえれば、包囲網が敷ける』と判断して検問を張ったが、結果的に加害者2人は配備前に検問場所を通過していた可能性が高い」と説明した<ref name="朝日新聞1997-01-04"/>。また、惠隆之介 (2013) は「県警は『(本島北部で発生した)本事件は犯人が被害者を連れ、車で本島中部に南下するだろう』と推測して名護市内に非常線を張ったが、実際には被害者は拉致現場よりさらに北方の山中で殺害されていた」と述べている{{Sfn|惠隆之介|2013}}。
 
=== 公開捜査 ===
名護署は事件当時、目撃証言から、「[[身代金]]目的[[誘拐]]の可能性もある」として捜査していたが、被害者Aの自宅には何の連絡もなかったため、拉致事件と断定<ref name="毎日新聞1996-06-22"/>。同署や県警[[刑事部|捜査一課]]は、事件直後から検問や聞き込み捜査を行った<ref name="読売新聞1996-06-23"/>。また、県警は[[機動捜査隊]]や[[自動車警ら隊]]を投入し、本島中・南部でも検問・検索を実施した<ref name="琉球新報1996-06-22"/>。
 
県警は県内の[[モーテル]]・車が入れる山道などを重点的に捜索したが<ref name="毎日新聞1996-06-22">『毎日新聞』1996年6月22日西部夕刊社会面「男2人がワゴン車で女子中学生を連れ去る--沖縄・名護市」(毎日新聞西部本社)</ref>、Aの発見・保護には至らず、事件2日後(6月23日)の21時、名護署に「女子中学生ら致事件[[捜査本部]]」を設置し、県警本部や各所から動員した150人を専従捜査員として配置した<ref>『沖縄タイムス』1996年6月24日朝刊第1版総合面1頁「女子中学生ら致で県警 捜査本部を設置」(沖縄タイムス社)</ref>。24日には、[[鹿児島県警察]]から応援のヘリコプターが駆けつけ、本島全域や離島([[伊江島]]・[[伊是名島]]・[[伊平屋島]]など)の上空から捜索を行った<ref>『沖縄タイムス』1996年6月25日朝刊第1版第一社会面19頁「【北部】女子中学生ら致事件 依然、有力情報なし」</ref>。
 
周辺道路で実施された検問に犯行車両が引っかからなかったため、県警は事件後しばらくは「犯人は沖縄本島北部の捜査網の中にいる」として、本島中北部に重点を置いて捜索したが<ref name="朝日新聞1996-06-29"/>、[[山原|本島北部の広大な森林地帯]]に阻まれ、捜査は難航<ref name="朝日新聞1997-01-03">『朝日新聞』1997年1月3日西部朝刊第一社会面31頁「山中に半年、無念の帰宅 沖縄の女子中学生、遺体で発見 【西部】」(朝日新聞西部本社)</ref>。地元住民を含めた捜索でも手掛かりがなく、事件6日後(6月27日)には全県を捜索対象とした<ref name="朝日新聞1996-06-29"/>。
 
また、同月27日には捜査本部を特別捜査本部{{Efn2|当時、沖縄県警が特別捜査本部を設置することは異例だった<ref name="AERA">{{Cite journal|和書|journal=[[AERA]]|title=少女誘拐で見せた県警の事大主義|volume=9|date=1996-08-12|issue=33|pages=15-17|publisher=[[朝日新聞出版|朝日新聞社出版本部]]}}(通巻:第443号 1996年8月12日号)</ref>。}}へ拡大・強化し、捜査員650人(県警職員の4分の1){{Efn2|県警と11署から職員を派遣した<ref>『読売新聞』1996年6月28日西部朝刊第一社会面27頁「名護の女子中学生拉致、きょうにも公開捜査/沖縄県警」(読売新聞西部本社)</ref>。}}を投入した<ref name="琉球新報1996-12-21">{{Cite news|title=女子中学生ら致事件から半年|newspaper=琉球新報|date=1996-12-21|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/961221ja.htm|author=|accessdate=2001-4-21|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20010421161029/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/961221ja.htm|archivedate=2001年4月21日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref>。、事件発生から1週間後(1996年6月28日)、県警はは被害者Aの家族から了解を得て、本事件を公開捜査に切り替え、被害者Aの名前・顔写真・特徴などを公開した<ref name="朝日新聞1996-06-29">『朝日新聞』1996年6月29日西部朝刊第一社会面31頁「女子中学生拉致で公開捜査 沖縄県警、ポスター配布へ【西部】」([[朝日新聞西部本社]])</ref>。
 
=== 逮捕 ===
1996年12月28日、Yは実家で家族から「刑事が調べに来ている」と言われ、「逃げられない」と思い、同日11時32分、[[種子島警察署]]([[鹿児島県警察]])の中種子交番に出頭<ref name="故郷の種子島"/>。同日13時26分に逮捕され、同日中に[[鹿児島中央警察署]]へ身柄を移されると、翌29日には沖縄県警に移送された<ref name="故郷の種子島"/>。
 
同年1月11日23時20分ごろ、「2日前、Uに似た男を浦添市営[[伊奈武瀬]]球場{{Efn2|{{ウィキ座標|26|14|57.5|N|127|40|17.4|E||伊奈武瀬球場}}は、浦添市[[伊奈武瀬]]一丁目8番1号に所在する野球場<ref>{{Cite web|url=http://www.okinawa-bf-map.jp/facility-info/detail?facility_id=2175|title=施設情報詳細 伊奈武瀬球場|accessdate=2021-11-29|publisher=沖縄県子ども生活福祉部障害福祉課|date=2019-10-31|website=沖縄県バリアフリーマップ|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211129152834/http://www.okinawa-bf-map.jp/facility-info/detail?facility_id=2175|archivedate=2021-11-29}}</ref>。同地の住所はかつて、浦添市字勢理客555番地25だったが、2001年(平成13年)11月26日付で[[住居表示]]を実施し、現行の住所となった<ref>{{Cite web|url=https://prdurbanosursapp1.blob.core.windows.net/common-article/615143309ae8de55fb095b60/%E5%8B%A2%E7%90%86%E5%AE%A2+.pdf#page=41|title=住居表示旧新対照表 > 字勢理客、勢理客一丁目~四丁目|accessdate=2021-11-29|publisher=浦添市|date=2009-02-12|format=PDF|page=41|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211129153309/https://prdurbanosursapp1.blob.core.windows.net/common-article/615143309ae8de55fb095b60/%E5%8B%A2%E7%90%86%E5%AE%A2+.pdf#page=41|archivedate=2021-11-29}} - [https://www.city.urasoe.lg.jp/article?articleId=615143309ae8de55fb095b60 住居表示旧新対照表]より閲覧可能。</ref><ref>{{Cite web|url=https://prdurbanosursapp1.blob.core.windows.net/common-article/61304c5356737503f548e04f/%E4%BC%8A%E5%A5%88%E6%AD%A6%E7%80%AC.pdf|title=住居表示新旧対照表 > 伊奈武瀬一丁目|accessdate=2021-11-29|publisher=浦添市|date=2009-02-12|format=PDF|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211129153345/https://prdurbanosursapp1.blob.core.windows.net/common-article/61304c5356737503f548e04f/%E4%BC%8A%E5%A5%88%E6%AD%A6%E7%80%AC.pdf|archivedate=2021-11-29}} - [https://www.city.urasoe.lg.jp/article?articleId=61304c5356737503f548e04f 住居表示新旧対照表]より閲覧可能。</ref>。}}(浦添市勢理客)で見た」という110番通報が入り、翌日(1月12日)0時ごろ、警察官が同球場のダグアウト内ベンチで寝ていたUを発見<ref name="琉球新報1997-01-13"/>。[[那覇警察署]]で指紋照合を行い、本人であることを確認したため、県警はUを名護署に任意同行し、同日2時20分に逮捕した<ref name="琉球新報1997-01-13">『琉球新報』1997年1月13日朝刊第1版総合面1頁「女子中学生拉致殺害 共犯のU容疑者逮捕 浦添市内で発見 県警、全容解明急ぐ」(琉球新報社)</ref>。
 
=== 起訴 ===
那覇地検は同年1月25日、殺人・死体遺棄・わいせつ目的誘拐・婦女暴行・窃盗の罪で、被疑者Yを[[那覇地方裁判所]]へ[[起訴]]した<ref name="琉球新報1997-01-26">『琉球新報』1997年1月26日朝刊第1版第一社会面27頁「女子中学生拉致殺害事件 Y容疑者を起訴 那覇地検 殺人、死体遺棄などの罪」(琉球新報社)</ref>。
 
152 ⟶ 170行目:
一方、両被告人は互いに「殺害は犯行2日前から計画したものではなく、犯行直前に思い立ったものだ」と主張<ref name="沖縄タイムス1997-04-25"/>。被告人Uは「各行為は被告人Yの主導でなされた」と主張した<ref name="琉球新報1997-04-24"/>が、被告人Yは「主従関係はなかった」と強調した<ref name="沖縄タイムス1997-04-25"/>上で、「Yの出頭は[[自首]]に当たる」と主張した{{Efn2|Yの弁護人は、初公判の閉廷後に今後の弁護方針について「拉致・強姦容疑などについては、Yが自主的に供述したもので、自首に当たることを立証したい」<ref>『沖縄タイムス』1997年4月24日夕刊第2版第一社会面7頁「女子中学生ら致殺害 うなだれる被告に険しい視線 「何の罪もない娘を…」 絞殺の描写に目を閉じる父親 那覇地裁」(沖縄タイムス社)</ref>「事件に使用された車は、目撃証言とは異なったもので、自主的供述に当たる」と述べていた<ref name="沖縄タイムス1997-04-25"/>。}}<ref name="琉球新報1997-04-24"/>。また、検察官は被害者Aの両親の調書の要旨を陳述したほか、両被告人の供述調書と、学校・地域関係者の調書を証拠申請したが、両被告人の弁護人はすべて不同意とし、役割分担・情状などについて争う姿勢を見せた<ref>『琉球新報』1997年4月24日夕刊第2版総合面1頁「女子中学生拉致殺害事件初公判 両被告、起訴事実認める 検察、計画的犯行と断罪 役割分担を詳述 那覇地裁」(琉球新報社)</ref>。
 
==== 公判の推移 ====
第2回公判(1997年5月21日)では、拉致の様子を目撃した男性と、2人が被害者Aの自転車を捨てる模様を目撃した女性の2人が、それぞれ証人尋問として出廷した<ref>『沖縄タイムス』1997年5月22日朝刊第1版第一社会面23頁「女子中生ら致殺害事件公判 犯行の瞬間生々しく 目撃者が証言」(沖縄タイムス社)</ref>。第3回公判(6月25日)で、検察官からの被告人質問を受けたYは、「遊び半分で、『どっちが殺するかじゃんけんで決めよう』と言った」と証言した一方<ref name="沖縄タイムス1997-06-26"/>、続く第4回公判(7月15日)でUは、「『じゃんけん』の話は一切なかった。YはAの首を手で絞める真似をしながら、自分に殺害を持ちかけたが、その時は真剣だった」と主張した<ref name="琉球新報1997-07-16"/>。
 
161 ⟶ 179行目:
一方、[[1998年]](平成10年)1月20日の第10回公判では<ref>『琉球新報』1998年1月21日朝刊第1版第一社会面21頁「名護市の女子中学生殺害 被告の父親が遺族に謝罪」(琉球新報社)</ref>、被告人Uの父親(北海道在住)が情状証人{{Efn2|Yの情状証人はいなかった<ref name="沖縄タイムス1998-01-21"/>。}}として出廷し、被害者や遺族への謝罪の言葉を述べ、息子に対し「きちんと罪を償ってほしい」と語りかけた<ref name="沖縄タイムス1998-01-21">『沖縄タイムス』1998年1月21日朝刊第1版第一社会面19頁「女子中学生殺人事件公判 U被告の父親が証言 きちんと罪償って」(沖縄タイムス社)</ref>。Uの父は、公判の休憩時間中に検察官と弁護人の計らいで、被害者Aの父親と対面し、土下座して泣き叫びながら謝罪している<ref name="沖縄タイムス1998-03-18"/>。第11回公判(同月29日)で<ref name="琉球新報1998-01-30"/>、裁判官・検察官・弁護人による最後の被告人質問が行われたが、両被告人の主従関係や、殺害を決意した時期などに関する証言は最後まで食い違ったままだった<ref name="琉球新報1998-01-30">『琉球新報』1998年1月30日朝刊第1版第一社会面25頁「名護の女子中学生殺害 3月17日に判決」(琉球新報社)</ref><ref>『沖縄タイムス』1998年1月30日朝刊第1版第一社会面27頁「女子中学生ら致殺害事件公判 判決は3月17日 証言最後まで食い違う」(沖縄タイムス社)</ref>。
 
==== 2人に死刑求刑 ====
1998年2月10日に、那覇地裁(林秀文裁判長)で[[論告]][[求刑]]公判が開かれ、検察官は2被告人に[[日本における死刑|死刑]]を求刑した<ref name="沖縄タイムス1998-02-11">『沖縄タイムス』1998年2月11日朝刊第1版総合面1頁「女子中学生ら致殺害事件 Y、U被告に死刑求刑 那覇地検「極刑しかない」 判決は3月17日」(沖縄タイムス社)</ref><ref name="琉球新報1998-02-11">{{Cite news|title=Y、U両被告に死刑求刑 名護市の女子中学生拉致事件|newspaper=琉球新報|date=1998-02-11|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1998/9802/980211b.htm|author=|accessdate=1999-02-10|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/19990210082057/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1998/9802/980211b.htm|archivedate=1999年2月10日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref><ref>{{Cite news|title=「無念さ」思えば極刑 女子中学生拉致殺害事件論告求刑|newspaper=琉球新報|date=1998-02-11|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1998/9802/980211c.htm|author=|accessdate=1998-12-01|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/19981201070232/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1998/9802/980211c.htm|archivedate=1998年12月1日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref>。沖縄県内での死刑求刑は当時、[[第6次沖縄抗争|暴力団抗争・2警官殺害事件]](1996(1997年10月に無期懲役判決){{Efn2|1990年11月23日夜、三代目[[旭琉會]]錦一家の隠れアジト近く(沖縄市胡屋)で、暴力団抗争の警戒に当たっていた沖縄県警の警部(当時43歳)と警部補(同42歳)が、同組の組員により、対立組織の組員と勘違いされて射殺された事件<ref>{{Cite news|title=沖縄・旭琉会抗争から30年、2警官殺害の××容疑者の捜索続く 強まる死亡説|newspaper=琉球新報|date=2020-11-23|url=https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1229947.html|accessdate=2021-11-29|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211129145742/https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1229947.html|archivedate=2021年11月29日}}</ref>。同事件では、1997年7月8日の第50回公判で、那覇地検が死刑を求刑した一方<ref>{{Cite news|title=元組員に死刑求刑 暴力団抗争中の警察官2人射殺事件|newspaper=琉球新報|date=1997-07-09|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/kiji01/970709e.htm|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/19991003001156/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/kiji01/970709e.htm|archivedate=1999年10月3日}}</ref>、弁護人は無罪を主張していたが、那覇地裁(長嶺信栄裁判長)が同年10月30日に無期懲役の判決を言い渡し<ref>{{Cite news|title=2警官殺害に無期懲役 那覇地裁、元組員に判決|newspaper=琉球新報|date=1997-10-30|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/kiji04/971030ea.htm|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/19990128135731/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/kiji04/971030ea.htm|archivedate=1999年1月28日}}</ref>、確定した<ref>{{Cite news|title=「警官が撃たれた」沖縄抗争の凄惨さ 殉職2氏への誓い 共犯者は既に死亡か|newspaper=沖縄タイムス|date=2018-11-27|url=https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/349291|accessdate=2021-11-29|publisher=沖縄タイムス社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210118045931/https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/349291|archivedate=2021年1月18日}}</ref>。}}以来だった<ref>『琉球新報』1998年2月11日朝刊第1版第一社会面25頁「死刑廃止まで進歩していない 死刑求刑への反響 非人間的な刑罰、慎重に判決を」(琉球新報社)</ref>。
 
検察官は論告で、両被告人の主従関係や、犯行行為の役割分担について、「2人の罪に責任の軽重はなく、同等である。Uの『主犯はYで、自分は従犯だった』という主張は卑劣な弁解で、犯行態様から見れば決して従属的な立場ではなかった」と<ref name="沖縄タイムス1998-02-11"/>、殺意や計画性についても「拉致から死体遺棄まで、当初の計画通りわずか2時間半で終了しており、極めて計画的な犯行」<ref>『毎日新聞』1998年2月11日西部朝刊社会面「名護の女子中学生殺害事件 2被告に死刑求刑--那覇地裁」(毎日新聞西部本社)</ref>「捜査段階での自供通り、両被告人とも事前に殺害を計画していた。公判で2人が『殺意は突発的だった』と主張を翻したのは、罪の軽減を狙ったもので、反省も見られない」と主張した<ref>『沖縄タイムス』1998年2月11日朝刊第1版第一社会面23頁「女子中学生殺害に死刑求刑 検察、厳しく糾弾 体を震わせる被告ら 父親「思い語ってくれた」」(沖縄タイムス社)</ref>。また、Yの弁護人が自首の成立を主張した点についても、「Yは出頭した時点で殺害について供述しておらず、沖縄に連行された後、取調べ中に自白したのであって、自首は成立しない」と主張した<ref name="沖縄タイムス1998-02-11"/>。その上で、犯行を「何の落ち度もない非力な少女を狙って殺害した最も極悪非道な部類に属する犯罪で、その罪質は極めて凶悪・重大」と非難し<ref name="沖縄タイムス1998-02-11"/>、動機に酌量の余地がない点や<ref name="琉球新報1998-02-11"/>、遺族の被害感情の峻烈さ、そして教育現場・県民全体に与えた多大な衝撃などについても言及し、「罪刑の均衡、一般予防の見地からも、[[永山基準|永山判決やその後の最高裁判例が示した死刑選択の基準]]からも、極刑をもって臨むしかない」と結論づけた<ref name="沖縄タイムス1998-02-11"/>。
168 ⟶ 186行目:
次回公判(同月24日)で弁護人の最終弁論が行われ<ref name="沖縄タイムス1998-02-11"/>、第一審の審理は結審した<ref name="沖縄タイムス1998-02-25">『沖縄タイムス』1998年2月25日朝刊第1版第一社会面23頁「女子中学生殺害 弁護団、酌量の余地を主張 「死刑は許されない」 判決は3月17日」(沖縄タイムス社)</ref><ref name="琉球新報1998-02-25">{{Cite news|title=女子中学生拉致殺害事件が結審 判決は来月17日|newspaper=琉球新報|date=1998-02-25|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1998/9802/980225d.htm|author=|accessdate=1999-02-02|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/19990202104638/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1998/9802/980225d.htm|archivedate=1999年2月2日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref>。両被告人の弁護団は、それぞれ殺害の計画性を否定した上で、「殺害・死体遺棄については、計画性がないなど、情状酌量の余地がある」と主張し、死刑についても、「永山判決」以降、被害者1人で死刑が確定した事例は、強盗殺人や身代金目的誘拐殺人、被告人に重大前科があった場合などに限られていることを挙げ<ref group="注" name="被害者1人死刑確定"/>、「最高裁が示した死刑選択の一般的基準に照らし、死刑選択は許されないケースである」<ref name="沖縄タイムス1998-03-17朝刊"/>「[[死刑制度合憲判決事件|死刑制度は公権力による殺人であり、憲法違反]]」などと主張<ref name="琉球新報1998-02-25"/>。このほか、Yの弁護人は、殺害・死体遺棄に関して自首が成立する点<ref name="琉球新報1998-02-25"/>、両被告人の立場が対等であった点を主張した一方、Uの弁護人は「Uは終始Yに従属的で、殺害直前までその意思はなかった」と主張した<ref name="沖縄タイムス1998-02-25"/>。最終意見陳述で、両被告人はそれぞれ被害者や遺族への謝罪の言葉を述べた<ref name="琉球新報1998-02-25"/>。
 
==== 無期懲役の判決 ====
1998年3月17日に[[判決 (日本法)|判決]]公判が開かれ、那覇地裁(林秀文裁判長)は死刑求刑を受けた2被告人を[[懲役#無期懲役|無期懲役]]に処す判決を言い渡した<ref name="沖縄タイムス1998-03-17">『[[沖縄タイムス]]』1998年3月17日夕刊第2版総合面1頁「女子中学生ら致殺害事件 Y、U被告に無期懲役 那覇地裁 死刑適用は退ける」(沖縄タイムス社)</ref><ref name="琉球新報1998-03-17">{{Cite news|title=Y、U両被告に無期懲役 名護市の女子中学生拉致殺害|newspaper=琉球新報|date=1998-03-17|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1998/9803/980317ea.htm|author=|accessdate=1999-02-02|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/19990202201542/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1998/9803/980317ea.htm|archivedate=1999年2月2日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref><ref>{{Cite news|title=「無期」に唇かむ遺族ら 女子中学生拉致殺害判決|newspaper=琉球新報|date=1998-03-17|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1998/9803/980317eb.htm|author=|accessdate=1999-02-02|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/19990202205609/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1998/9803/980317eb.htm|archivedate=1999年2月2日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref>。