「ジェームズ・F・バーンズ」の版間の差分

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|所属政党 = [[民主党_(アメリカ)|民主党]]
|称号・勲章 =
|配偶者 = モード・ブッシュ<br>(1906年5月 - 1972年4月)
|子女 =
|親族(政治家) =
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== 経歴 ==
[[1882年]][[5月2日]]に[[サウスカロライナ州]][[チャールストン_(サウスカロライナ州)|チャールストン]]に誕生する。母子家庭の貧しい家庭で育ち、仕立屋を営む母を助けるために高校を中退し、独学で法律を学ぶ。
 
1911年3月から1925年3月まで[[アメリカ合衆国下院|連邦下院議員]]を務め、その後は1931年3月に[[アメリカ合衆国上院|連邦上院議員]]となり、在任中は地元での[[水力発電]]所建設などの内政面での功績を残した。1941年7月まで同職を務めた後は、[[フランクリン・ルーズベルト]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]によって[[第二次世界大戦]]中は[[アメリカ合衆国連邦政府|連邦政府]]戦時動員局長に抜擢される。その後は[[原子爆弾|原爆]]開発を担当していた[[マンハッタン計画]]にも深く関わっていく事となる。
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1945年7月に[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]となり、3人委員会の提言を独断で黙殺して[[原子爆弾]]の使用を強く大統領に進言した。また、日本の最初の[[ポツダム宣言]]受諾回答([[天皇]]の統治大権に変更を加えないことを条件とした受諾)を拒否し、「天皇と日本政府の権威は連合軍最高司令官に従属({{en|subject to}})する」という趣旨の「バーンズ回答」を起草・返信したことでも知られる。日本政府は最終的にこのバーンズ回答を受け入れてポツダム宣言を受諾した。
 
1946年9月には[[連合軍軍政期 (ドイツ)|占領下のドイツ]]における強硬な脱工業化政策([[モーゲンソー・プラン]])を見直し、ソ連に対する牽制に戦後ドイツを利用するため、ドイツ産業の再建を支持する演説(『[[ドイツ政策の見直し]]』)を行い、[[ドイツ人|ドイツ国民]]に将来への希望を与えている。しかし、「ポケットに原爆」と呼ばれた原爆の使用を対東側外交の切り札に使用する姿勢がトルーマン大統領から危険視され、1947年1月に解任された。1951年1月に[[サウスカロライナ州知事の一覧|サウスカロライナ州知事]]に就任し、1955年1月まで同職を務めた。
 
===その後===
故郷に戻って奨学金制度の創設(バーンズ基金)などに尽力し、地元では今も人気がある。1972年4月9日[[サウスカロライナ州]][[コロンビア_(サウスカロライナ州)|コロンビア]]にて89歳で死去した。
 
==家族==