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|懸賞金=
|原因=
|手段=紐で首を絞める<ref name="琉球新報1998-03-17"/>
|攻撃手段=紐で首を絞める<ref name="読売新聞1997-01-03">『[[読売新聞]]』1997年1月3日東京朝刊第一社会面39頁「沖縄の拉致少女、遺体で発見 『仲間と殺して捨てた』 自供の元作業員を逮捕へ」([[読売新聞東京本社]])</ref>
|攻撃側人数=2人<ref name="読売琉球聞1997-01報1998-03-17"/>
|武器=海辺で拾った紐(長さ約2&nbsp;[[メートル|m]]、太さ約9&nbsp;[[ミリメートル|mm]])<ref name="祈り届かず3"/>
|兵器=
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|被害者=帰宅途中の女子中学生A(事件当時15歳:[[名護市立羽地中学校]]3年生) - 名護市我部祖河在住<ref name="沖縄タイムス1997-01-01"/>
|損害=約200円(加害者2人が被害者から奪った現金)<ref name="琉球新報1997-04-24"/>
|犯人=元建設作業員の男2人(本文中Y・U)<ref name="読売新聞1997-01-03">『[[読売新聞]]』1997年1月3日東京朝刊第一社会面39頁「沖縄の拉致少女、遺体で発見 『仲間と殺して捨てた』 自供の元作業員を逮捕へ」([[読売新聞東京本社]])</ref>
|容疑=[[殺人罪 (日本)|殺人罪]]・[[死体損壊・遺棄罪|死体遺棄罪]]・[[略取・誘拐罪|わいせつ目的誘拐罪]]・[[強制性交等罪|婦女暴行罪]]・[[窃盗罪]]<ref name="琉球新報1997-04-24"/>
|動機=
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=== 2人を窃盗容疑で指名手配 ===
一方、県警は犯行に使用された車両(白いワゴン車)や、[[前科]]・[[非行]]歴のある人物について調べ続け<ref name="琉球新報1996-12-21">{{Cite news|title=女子中学生ら致事件から半年|newspaper=琉球新報|date=1996-12-21|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/961221ja.htm|author=|accessdate=2001-4-21|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20010421161029/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/961221ja.htm|archivedate=2001年4月21日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref><ref>{{Cite news|title=女子中学生ら致事件、有力手掛かりなし  発生から5カ月|newspaper=琉球新報|date=1996-11-22|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/961122je.htm|author=|accessdate=2000-06-10|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20000610051733/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/961122je.htm|archivedate=2000年6月10日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref>、7月5日に<ref group="注" {{Efn2|name="7月5日"|事件直後の『[[琉球新報]]』によれば、加害者Yがワゴン車の発見を新聞で知ったのは1996年7月5日とされている<ref name="琉球新報1997-01-24"/>。}}<ref name="中日新聞1997-01-03">『[[中日新聞]]』1997年1月3日朝刊第一社会面31頁「沖縄 女子中学生、遺体で発見 不明半年 窃盗容疑者が供述」([[中日新聞社]])</ref>辺戸岬付近で、ナンバープレートが取り外されたワゴン車を発見した{{Efn2|この車は茂みに隠すように放置されており、中で飲食した形跡があるなど不審な点が多かったが、被害者Aの指紋は検出されなかったため<ref name="朝日新聞1997-01-03"/>、県警はこの車について発見当初は「車内の遺留品・車両鑑定などの結果からすれば本事件との関連性は薄い」との見解を示していたが<ref>{{Cite news|title=女子中学生ら致事件 辺戸岬で発見の車両は事件と無関係|newspaper=琉球新報|date=1996-07-06|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/960706ja.htm|author=|accessdate=1999-10-10|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/19991010125807/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/960706ja.htm|archivedate=1999年10月10日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref>、その後も本事件との関連を調べ続けていた<ref name="琉球新報1996-12-21"/>。}}<ref name="読売新聞1997-01-03"/>。その車内の遺留品・指紋などから、X・Yの2人が浮上し、[[那覇警察署]]は同年7月18日に2人を窃盗(ワゴン車を盗んだ容疑)で全国に[[指名手配]]<ref name="読売新聞1997-01-03"/>。被疑者Xの実家があった種子島([[熊毛郡 (鹿児島県)|熊毛郡]][[中種子町]])に捜査員を派遣するなどして捜査していた<ref name=">『[[毎日新聞]]』1997-01-03 年1月3日西部朝刊"第一社会面「沖縄・女子中学生拉致事件 『逃げきれない』とX容疑者がやつれて出頭」([[毎日新聞西部本社]])</ref>。
 
=== 逮捕 ===
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しかしその一方で、被告人らにとって有利な事情として、拉致などについては場当たり的な犯行である点や<ref name="沖縄タイムス1998-03-17"/>、殺人・死体遺棄に限れば計画性は高くなく{{Efn2|弁護人は判決後、「当初から殺害の共謀があったと認定されたら極刑もあり得たかもしれない」と話している<ref name="米倉">『琉球新報』1998年3月17日夕刊第2版第二総合面2頁「解説 死刑制度の論議に一石 被害者救済の視点必要」(琉球新報社 社会部:米倉外昭)</ref>。}}、拉致を行った時点では殺害を漠然と考えていたに過ぎない点を挙げ、「当初から殺害を確定していた身代金目的誘拐殺人のような事例と比較すると、悪質さの程度には若干の差異がある」と指摘した<ref name="判決要旨"/>。その上で、Y・Uの両名とも、前科・前歴はなく、逮捕後には犯行を自白し、反省・謝罪の念を深めていることについても言及し、「犯罪傾向が強いとも言い難く、更生可能性は肯定できる」と判示した<ref name="判決要旨"/>。
 
そして、「[[永山基準|死刑は、罪責が誠に重大で、罪責の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむを得ないと認められる場合に選択が許される究極の刑罰であり、その適用には慎重でなければならない。]]被告人らにとって有利に斟酌すべき事情がないとまでは言えず、近年死刑の適用に慎重になっている量刑の実情{{Efn2|本事件の第一審判決以前には、[[名古屋アベック殺人事件]](1988年発生)の控訴審判決(1996年12月:[[少年犯罪|犯行時少年]]で、第一審で死刑判決を受けていた被告人に無期懲役判決)や<ref>『中日新聞』1996年12月16日夕刊一面1頁「主犯格19歳(当時)に無期 アベック殺人控訴審 死刑破棄し減軽 名古屋高裁 ××被告も13年に」(中日新聞社)</ref>、[[甲府信金OL誘拐殺人事件]](1993年発生)の控訴審判決(1996年4月)など、(特に被害者1人の事件で)検察側が死刑を求刑した事件で死刑が回避される判決が相次いでいた<ref name="読売新聞2005-05-03">『読売新聞』2005年5月3日東京朝刊第二社会面30頁「[検察官]第1部 被害者を前に(7)『死刑求刑』異例の連続上告」(読売新聞東京本社)</ref>。その流れに検察当局は危機感を強めた検察当局は、[[福山市独居老婦人殺害事件]]の控訴審判決(1997年2月/無期懲役刑の受刑者が[[仮釈放]]中に強盗殺人を[[累犯|再犯]]した事件)<ref>『[[中国新聞]]』1997年2月5日朝刊第17版第一社会面25頁「三原の独居老人強殺 2被告に『無期』判決 広島高裁 量刑適当と一審支持」([[中国新聞社]])</ref>について、「著しく正義に反している」として最高裁へ上告<ref name="読売新聞2005-05-03"/>。それ以降も1998年1月までに、死刑求刑に対し控訴審で言い渡された無期懲役判決4件<ref name="読売新聞1999-11-30 社説"/>(いずれも死刑求刑)<ref>『毎日新聞』1999年10月27日東京夕刊社会面8頁「死刑との線引きどこで 無期不服の検察が上告、最高裁が初判断--国立の強殺事件で」(毎日新聞東京本社 記者:小出禎樹)</ref>について、相次いで最高裁へ上告した<ref name="読売新聞1999-11-30 社説">『読売新聞』1999年11月30日東京朝刊三面「[社説]死刑か無期か、の重い問い」(読売新聞東京本社)</ref>。{{See also|福山市独居老婦人殺害事件#広島高検が死刑適用を求め上告|国立市主婦殺害事件#東京高検が死刑適用を求め上告}}}}をも考えあわせると、死刑をもって処断するにはなお躊躇を感じざるを得ない」として<ref name="判決要旨"/>、「被告人らには、犯行がいかに罪深いものであるかを自覚させつつ、終生、被害者の冥福を祈らせ、贖罪の道を歩ませるのが相当である」と結論づけた<ref name="沖縄タイムス1998-03-17"/>。
 
那覇地検は量刑不当を理由に、1998年3月30日付で[[福岡高等裁判所那覇支部]]へ[[控訴]]した<ref>『沖縄タイムス』1998年3月31日夕刊第2版第一社会面7頁「女子中学生ら致殺害 検察が控訴」(沖縄タイムス社)</ref>。
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== 評価 ==
第一審判決宣告(1998年3月17日)の際、沖縄県警刑事部長・田場一彦は「沖縄県の犯罪史上まれにみる凶悪な犯行。事件の教訓を生かし、北部地域の治安強化のため、初動捜査体制の充実{{Efn2|『朝日新聞』 (1996年7月27日夕刊で) は「沖縄は地縁・血縁の固い絆が健在で、隣人のことも知らない大都会とは違い、聞き込み捜査も容易だ。警察も地元マスコミも、事件がこれほど長引くとは思っていなかったようだ」と評している<ref>『朝日新聞』1996年7月27日夕刊第一総合面1頁「少女の行方(窓・論説委員室から)」([[朝日新聞社]])</ref>。}}など、再発防止策を推進している」とのコメントを出した{{Efn2|『読売新聞』那覇支局記者・田川憲一は、事件後に「県北部における緊急配備態勢の脆弱さや、(7月に犯行車両を見つけながら事件と関連付けられなかった)見通しの誤りなど、いくつもの教訓を残した事件だった」と回顧した<ref>『読売新聞』1997年1月17日西部夕刊第二社会面8頁「[ひまわり]捨てがたい」(読売新聞西部本社・那覇支局 田川憲一)</ref>。また、本事件をきっかけに、県北部における機動捜査力の脆弱性が判明したため、沖縄県警は名護市内に[[機動捜査隊]]・[[自動車警ら隊]]の分駐所を設置することを計画した<ref>『読売新聞』1997年2月4日西部朝刊第一社会面27頁「沖縄の女子中学生殺人 Y被告が拉致計画」(読売新聞西部本社)</ref>。}}<ref>『毎日新聞』1998年3月17日西部夕刊社会面「女子中学生殺害2被告に『無期』 父『無年晴らせぬ』」(毎日新聞西部本社 記者:野沢俊司)</ref>。
 
沖縄県には[[在日米軍]]基地{{Efn2|米軍基地の敷地内は[[日米地位協定]]により米国の排他的管理権が認められており、[[日本の警察]]は[[アメリカ合衆国]]側の同意がなければ立ち入ることができない<ref>{{Cite news|title=<社説>米軍属再逮捕 基地内の捜査権を認めよ|newspaper=琉球新報|date=2016-06-10|url=https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-295301.html|accessdate=2020-06-07|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200607160129/https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-295301.html|archivedate=2020年6月7日}}</ref>。この点も初動捜査の妨げになり{{Sfn|犯罪事件研究倶楽部|2011|p=69}}、名護市の近隣に位置する[[宜野座村]]・[[金武町]]はそれぞれ米軍側に[[キャンプ・ハンセン]]への立ち入り捜索許可や米軍基地2か所の捜索を求めたが、いずれも断られた{{Sfn|AERA|1996|p=16}}。『[[AERA]]』([[朝日新聞出版|朝日新聞社出版本部]])編集部の長谷川熙は、事件解決前に、「目撃証言では『犯人は日本人風』とされており、米軍基地との関連は不明だが、沖縄県警は米軍基地を『治外法権下』と拡大解釈して初めから自己規制し、米軍基地をことさら腫れもの扱いすることで、基地への捜査の努力を放棄している」と指摘した{{Sfn|AERA|1996|p=16}}。}}の大半(約75%)が集中している一方、過去に米軍兵士による強姦・暴力事件が多発していた{{Efn2|本事件の前年(1995年9月)には[[沖縄米兵少女暴行事件|沖縄県内で米兵3人による少女拉致・暴行事件]]が発生していた{{Sfn|AERA|1996|p=15}}。}}ため、「今回も同様の事件ではないか」との疑念が挙がり、結果的に事件解決まで時間を要した原因になった{{Sfn|犯罪事件研究倶楽部|2011|p=69}}。また、事件当初は沖縄県警のヘリコプターが[[オーバーホール]]中だったため、その代わりに[[自衛隊]]が救難ヘリコプターを捜索のため、本事件が発生した[[沖縄本島]]北部へ発進させようとしていたが、当時の沖縄県知事・[[大田昌秀]]は発進を許可しなかった{{Sfn|惠隆之介|2013}}。[[惠隆之介]]は月刊誌『[[諸君!]]』([[文藝春秋]])で、「もし太田知事が(自衛隊に)出動を要請していれば、少女殺害時刻の1時間前には、すでに自衛隊ヘリが現場上空に達していたのだ。」と主張し{{Sfn|惠隆之介|1998|p=134}}、自著 (2013) で県知事の対応を「完全な初動捜査ミスで、自衛隊機発進を許可しなかった県知事の責任は重い」と批判したほか、「沖縄の主要2紙(『琉球新報』『[[沖縄タイムス]]』)や婦人団体は、米軍兵士が事件を起こすと大きく報道して厳罰を要求するが、この(無期懲役)判決については単純に客観報道で一切抗議しなかった{{Efn2|ただし、『沖縄タイムス』『琉球新報』の両紙は、第一審判決当日(1998年3月17日)の夕刊で、『沖縄タイムス』朝刊では、死刑を強く望んでいた遺族や地元住民らの声を取り上げ、「死刑を回避した判決に対し、遺族は無念の意を露にし、地元住民らも疑問を呈している」といった論調の記事を掲載<ref>『沖縄タイムス』1998年3月17日夕刊第2版第一社会面7頁「女子中学生ら致殺害事件 にじむ不満 晴れぬ心 父「娘かわいそう」 両被告、目を閉じ息飲む」(沖縄タイムス社)</ref><ref name="琉球新報1998-03-17 3">『琉球新報』1998年3月17日夕刊第2版第一社会面3頁「女子中学生拉致殺害事件 「娘の無念 晴らせない」 「無期」に唇かむ父親 最後まで納得いかず 表情こわばる両被告」(琉球新報社)</ref>。また、前者は翌日(3月18日)の朝刊でも同様の論調の記事を掲載した<ref name="沖縄タイムス1998-03-18">『沖縄タイムス』1998年3月18日朝刊第1版第一社会面21頁「ニュース近遠景 女子中学生ら致殺害事件判決 無念さにじむ父親 極刑望んだのに…待合室で1人涙流す」(社会部・金城雅貴)「なお残る恐怖心 地元住民 判決を疑問視」(沖縄タイムス社)</ref>ほか、後者の社会部記者である米倉外昭も判決当日の夕刊で「凶悪犯罪をめぐる刑の均衡や、死刑制度の是非を論じるきっかけとなった事件だが、被害者救済は不十分だ。被害者救済の視点からも、司法のあり方や制度を考えることも必要である」と指摘している<ref name="米倉"/>。}}。同種の事件でも犯人が米兵か否かで事件の扱いに差が出ている」と指摘している{{Sfn|惠隆之介|2013}}。