「グリン・ジョンズ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
35行目:
1959年7月、学校を卒業。姉のつてで独立系レコーディング・スタジオの[[IBCスタジオ]]に就職。1962年、プレジデンツのメンバーから[[イアン・スチュワート (ミュージシャン)|イアン・スチュワート]]を紹介される。1964年後半に両親が[[グロスターシャー]]に引っ越すことになったとき、地元エプソムの家賃週12ギニーの家に目星を付けるが、ひとりではまかえなる額ではなかった。スチュワートと彼の友人の3人で暮らし始め、スチュワートはローリング・ストーンズの機材をすべてその家で保管した。「同居人候補として考えるに値する人物がスチュしかいないことは、初めからわかっていた」{{Sfn|『サウンド・マン』|p=46}}とジョンズは自伝で述べており、別の項で、1985年に急逝したスチュワートについて「彼はわたしにとって過去最高の友人であり、それはこの先も変わらないと思う」
と記した{{Sfn|『サウンド・マン』|p=54}}。
 
1962年から65年にかけて、ジョンズは、歌手として5枚のシングルを出した。その中にはビートルズの「[[アイル・フォロー・ザ・サン]]」のカバーも含まれていた<ref>[http://www.45cat.com/artist/glyn-johns/uk Glyn Johns Discography - UK - 45cat]</ref>。
 
1966年、ローリング・ストーンズの「レディ・ジェーン」のレコーディング・エンジニアを務めた後、「自分の次のシングルにいいのでは」と思ったジョンズは、トニー・ミーハンのプロデュースの下、同曲を吹き込んだ。シタールは[[ブライアン・ジョーンズ]]が弾いた。同年、ジ・エンドというグループを売り込むためにスペインに渡った際に、ジョンズはソノプレイというレコード会社に「レディ・ジェーン」のアセテート盤を渡した。ソノプレイはシングルとして発売。彼の「レディ・ジェーン」はスペインで1位になり、ジョンズはソノプレイが発行する雑誌の表紙にもなった{{Sfn|『サウンド・マン』|pp=72-76}}。
 
1968年12月、[[ポール・マッカートニー]]から直接電話を受け、ビートルズのエンジニアの仕事を依頼される{{Sfn|『サウンド・マン』|p=142}}。1969年1月2日から始まったトゥイッケナム映画撮影所におけるセッション、1月20日から31日にかけて行われた[[アップル・コア]]本社でのセッション、共に彼らのレコーディングに関わった。3月初め、[[ジョン・レノン]]とマッカートニーはジョンズを[[アビイ・ロード・スタジオ]]に呼び、「[[ゲット・バック・セッション]]」のテープをアルバム用にまとめる作業を全権委任した(ジョンズの自伝では5月1日とされる){{sfn|Lewisohn|2005|p=171}}{{Sfn|『サウンド・マン』|p=163}}。4月11日、「ザ・ビートルズ・ウィズ・ビリー・プレストン」名義のシングル「[[ゲット・バック]] / [[ドント・レット・ミー・ダウン]]」が発売<ref>[http://www.45cat.com/record/r5722-2 45cat - The Beatles With Billy Preston - Get Back / Don't Let Me Down - Apple - UK - R 5777]</ref>。ジョンズは5月28日に計15トラックのアルバム『Get Back』を完成させるが、よく知られるようにこの編集盤は未発表で終わった(『Get Back』は2021年リリース『[[レット・イット・ビー]]』スペシャル・エディションのスーパー・デラックス盤に初収録<ref>{{cite web|title=Let It Be – Special Edition (Super Deluxe)|url=https://www.thebeatlesonline.co.uk/thebeatles/Let-It-Be/Let-It-Be-Special-Edition-Super-Deluxe/73YV1897000|access-date=2021-10-25|website=Beatles UK/EU|language=en}}</ref>)。