「アレクセイ・コスイギン」の版間の差分

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また、[[1966年]]には[[インド]]・[[パキスタン]]両国を仲介し、タシュケント宣言に署名させるなど[[第二次印パ戦争]]の解決に尽力した。さらに[[フィンランド]]の[[ウルホ・ケッコネン]]大統領と緊密な友好関係を築き、冷戦下にあって両国間の活発な貿易を継続することに成功した。[[1972年]]には[[バアス党政権 (イラク)|イラク]]との間で友好協力条約を締結し、以前の[[アブドルカリーム・カーシム]]政権時のように、[[バース党]]とソビエトとの間で強力な関係が構築された。
 
ただ、会談の際には「ニェット({{en|Niet}}、英語のNo)」を繰り返し、西側からは「Mr.Niet」のあだ名がついた。
 
経済面では、[[1965年]]9月には計画・管理面における企業分権化を図る経済改革(コスイギン改革)を推進するが、[[1960年代]]末までに改革は頓挫し、ソ連経済は停滞した。また、コスイギンは消費財の増産を主張したが、これに対してブレジネフは側近の[[コンスタンティン・チェルネンコ]]と共に、[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]が軽工業よりも農業に関心があったことを引き合いに出し、コスイギンの主張を批判した。そして、第23回党大会でブレジネフ派の主張が通る形で軍事と農業に対する予算の増額が決定され、このことがコスイギンの立場に影響を及ぼした。この時点でブレジネフ派とコスイギン派は共に政治局内で過半数を占めていなかった。コスイギン派には[[キリル・マズロフ]]や最高会議幹部会議長の[[ニコライ・ポドゴルヌイ]]がいたが、ポドゴルヌイとは必ずしもすべての政策において意見が一致しているということでもなかった。